2.75-3 命の冒涜
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死んだマウスは焼却して、その灰は厳密に処理された。
処理されたはずだった。
処理の方法はもしもに備えて、鉄の箱に入れて厳重に封をする、というものだった。
だがある日、研究室で何かが軋むのに気づいた。他の研究員達が不思議そうなのとは対照的に、私はすぐに気づいた。
部屋の隅に保管されている四つの箱を中の一つを、開封した。
本来は許されない行為だ。だが、私は我を失っていた。
「うわっ!」
声を上げたのは私ではない。
私の手元の箱から黒い液体が流れだした。
キメラの細胞は死んでいない!
私は慌てて容器を用意し、その中に全ての液体を回収した。手袋をすることを忘れなかったのは、ほとんど反射的な行動だ。
新しい容器の中でうごめく黒い液体の一部を採取し、顕微鏡で覗いて、さらに驚いた。
差し込んだ容器の中で黒い細胞が激しく蠢いている。
それを観察し、記録を取れる限り、取った。
「恐ろしいことだ」
急に声をかけられ、そこにはフカミが立っていた。彼は渋面で私を見ている。
「人間とは恐ろしい」
彼はそう繰り返してから、私に一通の書状を手渡した。
「なんですか? これは」
「君には行ってもらう場所がある」
封筒の中身を開封する。指令書と、ちょっとした地図。
「君の弟子と共に行くといい」
今、サリーは席を外していた。彼女は貴族たちに薬を売る仕事を続けているのだ。
「すぐに出発ですか?」
指令書にはそうある。フカミも頷いている。
「そのサンプルを回収していいかな」
培養されたキメラの細胞だ。
「資料にまとめて、みなで共有するように」
私が容器に移して経過を観察していた黒い液体は、こうしてフカミが持ち去ってしまった。
その日の夜にサリーがやってくる。私はもうこの第三生物研究室で生活しているが、彼女はまだ旅籠で生活している。今はちょっと顔を出した程度だろう。
「ここへ行くように言われている」
サリーに地図を手渡す。サリーはシュタイナ王国をほぼくまなく歩いているので、すぐに気づいたようだった。
「山ですね。何もないですよ、店も、泊まるところも」
「その程度はどうとでもなる」
「熱意がありますね」
珍しいサリーの皮肉に、私は堂々と笑みを返した。
翌日には支度をして、即座に王都を出た。地図にあった場所へ急ぐ。一週間をかけて、そこへたどり着いた。
サリーが言った通り、山だった。それも材木商も手をつけてないどころか、下草が鬱蒼と生い茂る、野放図な森である。
荷物にあった鉈を手にサリーが分け入って行く。私はそれに従った。途中で交代したり、小休止を挟み、いよいよ人の気配も消えた。
斜面を上っていき、唐突に洞窟にぶつかった。
「あの地図でよくここまでたどり着くものだ」
私の感嘆に、サリーは「慣れていますか」とのことだった。
二人で洞窟へ入っていく。ひんやりとした空気に変わる。明かりはないので、これもサリーが荷物から取り出したランプを手に奥へ進む。
洞窟は意外に深く、長い。
音がしない。と思った瞬間、低い音が奥で起こった。
「いるらしい」
私の言葉にサリーは顔を強張らせている。
「そこまで楽観できませんね、私は。命が惜しい」
「命を奪われることはない」
「なぜ?」
私は答えずに、先へ進んだ。
洞窟の一番奥に到達した。何かがうずくまっている。
しかし大きい。既存の生物のそれではない。第二王宮の地下で見た個体とは、細部で異なるようだ。目の前の存在には翼はないし、見た目は熊のようだ。
「名は?」
低い声で言ったのは、その不可思議な存在だった。
「アキヒコと言います。医者です」
「医者か。我らが同胞の気配を強く感じる」
「あなたがたを調べているのです。気を悪くされるかもしれませんが、人間は弱い。それを克服するのが、私たちの役目になります」
低い音、と思ったら、それはその生物の忍笑いだった。
「弱いままでなぜいけない」
「え?」
「弱ければ弱いままで、生きればいい。そうではないのか?」
私は真面目な顔で、頷いた。
「より強いものを目指すのが、私たちです。何を犠牲にしても、非道を突き進もうとも、私たちは強くならなくてはいけません」
「女は?」
サリーが私の少し背後で肩を震わせた。
「女、答えよ」
私はそっとサリーを伺った。
「私は、強さが全てとは思えません。それよりも、私は命を永らえさせることに興味があるのです」
初めて聞く内容だった。
謎の存在は、やはり忍笑いをもらした。
「強欲なことだ」
「それが人ですから」
謎の存在が息を吐き、その風が私とサリーに押し寄せた。
「私たちには確かに死がない。生命でありながら、それを逸脱している。だが、人間と私たちが相入れることはない。私たちは同じ生命でありながら、違う世界を生きているのだ。それは人間と植物に近い。わかるか?」
「それは、わかります」
私もサリーも頷いた。
熊のようなものは、また息を吐いた。
「お前たちが何をしたのかを、断片的には知っている。私たちを支配することは、人には無理だ。そして私たちはお前たちを自在に支配することができる。その支配を形にしないのは、私の、私たちの善意だ。それを塗り替えたいのなら、お前たちは研究とやらを続ければいい。私の意志が伝わったか?」
あまり手を出すな、ということだろう。
「あなたの名前は?」
うっすらと熊のような存在が目を開いた。真っ赤な瞳。
「名などない」
「どういう存在なのです? あなたは?」
しばらくの沈黙の後、彼は答えた。
「神の一角」
またそれか。王宮の地下でも聞いた。
「あなたたちはどれほどの数がいるのです?」
「それを知ってどうする? 私たちは人間などとは比べ物にならない、長い時間を生きている。数はと聞かれれば、少なくなったと答えるよりない。だが、私たちは全てを知っている。人間にはわかるまい」
数を尋ねるのは、明らかに私の動揺の表れだと、今になって気づいた。
数など彼らには関係ない。そもそも死なないのかもしれない。
実は世界中に、こんな存在が無数にいるのだ。フカミが知っているだろう。
「あなたの一部を与えていただきたい」
熊が目を閉じた。
「その必要はないだろう。私たちに個体差はない。そしてお前たちが私たちを自由にするのは、大いなる間違いだと、はっきりさせよう」
「あなた方に間違いを指摘されないように、方針を教えてください」
「全く触れないことだ。それだけが人間への悲劇を回避できる。去れ」
私はさらに食い下がろうとした。
「去れ」
冷や汗が噴出すほどの殺気がこもった声に、私は言葉を飲み込み、頭を下げた。
サリーとともに、足早に洞窟の外へ向かった。
外に出て、やっと落ち着くことができた。
「この件からは手を引くべきです」
サリーの言葉に私は答えられなかった。
洞窟を振り返り、じっと黙ってその暗闇をに睨み付けていた。
(続く)