5-10 人として
牢屋にその男がやってきて、笑いかけてきた。
「お前には恐れ入ったよ」
顔を上げると、ソラが立っている。口調は愉快げなのに、俺に向けている視線には恐れしかない。そしてそれを隠すように、彼は小さく笑った。
「まったく、恐ろしい」
何も言わずにいると、ソラが鉄格子に手をかける。
「これは公にはできないが、お前を逃がすように命じられた」
逃がす? 俺を?
「どこへなりとも行け、ということだ。あの方の命を狙わなければ、自由だそうだ」
あの方、と呼ばれる相手は一人しかいない。
俺を神と呼んだ男。
「気まぐれか?」
俺が尋ねると、ソラがため息を吐いた。
「あの方は恐ろしい方だ。お前とは別の意味でな」
分かる気がした。俺が見た幻のあの男たち。ソラは俺と同じものを見なくても、あの男のことを理解しているのだろう。
俺が黙っているうちに、ソラが軽く腕を振る。
甲高い音ともに、鉄格子のうちの一本が切断される。
また腕が振られ、鉄の棒が一本、断たれる。
「お前がこの国で、密かに呼ばれている名前がある」
一本、一本と鉄格子が破られていく。
「お前は、失われた剣聖、と呼ばれている。しかしその名前も、もう消えた」
ぐらりと鉄格子が揺らぐ。
「今、お前は、ただ、神獣、と呼ばれている。もはや人ではないのだよ」
音を立てて鉄格子が崩壊した。俺は動かずに、牢から出なかった。
「お前の剣だ。渡すように言われている」
俺の前に、いつかサリーと交換した剣が投げられた。滑り、目の前に来る。
自由になれる? 俺が?
「もう一度、言う。お前は自由なんだ、どこへ行ってもいいんだ。好きにしろ」
そう言いながら、ソラは俺を観察している。
俺が襲いかからない保証がないからだろう。
ゆっくりと俺は剣を手に取った。素早く短剣を抜いた。
湿った音ともに、それが牢の床に落ちた。
俺の手が取った剣は、俺自身の左腕を切断していた。
血が飛び散り、すぐにその勢いは消える。
「これを、置いていく」
俺は鞘に剣を戻し、それを帯びて立ち上がった。ソラは腰の剣に手を置き、こちらをいつでも殺す姿勢だが、構うものか。
ゆっくりと歩いて、牢を出た。
外に近衛騎士が二人、死人のような顔で立っている。俺を導いてくれるらしい。二人とも生きた心地がしないだろう。
俺は静かな歩調で、夜の屋外に出て、そのまま例の橋を渡った。警備兵はどういうわけか、いなかった。人払いをしたのかもしれない。
近衛騎士は俺が王都を出るまでついてきた。ソラの気配はしない。ただ、俺の様子を大勢の兵士が監視しているのはわかる。俺の精神剣が、把握している。
王都を出て、俺はゆっくりと歩を進めた。どれだけ歩いたか、小高い丘の上に立った時、やっと背後を振り向いた。
遠くに、王都の明かりが見える。
もうここに戻ることはないだろう。
王都に背を向けて俺は歩いた。何を考えていたかは、わからない。何も考えなかっただろう。
時々、幻の世界が俺を取り巻き、それに翻弄された。
奇妙な森の中に入り込み、時には巨大な海を前にした。見知らぬ人種の人々の村があり、まだ未開の地にいるのかもしれない、奇妙な男たちが俺を取り囲んだこともあった。
彼らが話す聞いたことのない言葉を、俺は微笑みで返す。時には怒りをぶつけられ、時には親しげに肩を叩かれる。
幻を抜けると、街道であり、山道だった。すれ違う人は、シュタイナ王国の平均的な人々で、不思議そうに俺を見たり、驚いたり、逃げたりした。
途中の村で、服を恵んでもらう。村人はトラブルを恐れたからか、自然と服をくれた。
左腕は回復しなかった。袖を風になびかせながら、俺は歩き続けた。
山脈を越え、アンギラスの領内に入った。それからも現実と幻を行き来して、俺は旅を続けた。食事にはありつけないことが多かったが、不思議と飢えも渇きも感じなかった。
足が痛むこともなく、そもそも体に不調が出ない。
それでも気づくと手は筋張っていて、右腕も自分の腕とは思えないほど細い。
冬になり、雪が降った。動けなくなり、山の中で蹲った。ここはどこだろう? パンターロに抜けたのだろうか?
何か、獣の気配がした。こんな冬に? 疑問と同時に、視線をそちらへ向けた。
人間が立っている。若い男。すぐに像がかすみ、二重になり、三重になった。
手招きをされた。声はない。
俺はゆっくりと近づいた。脚が重い。雪のせいだろう。
進むうちに、季節が春になった。緑が周囲を置い、色とりどりの花が咲いた。暖かい風が吹き付ける。
これも幻か?
全ての輪郭が一つに混ざり合い、そして俺は意識を取り戻した。
どこかの洞窟の中で、かすかに暖かい気がする。視線を巡らせるまでもなく、精神剣が、すぐそこに巨大な熊が眠っているのを理解した。
熊を殺して食べる気にはならなかった。
この熊は俺を助けてくれたのだ。
穴蔵から外へ這い出すと、雪は少しだけ少なくなった気がする。でも、いつと比べてだろう。
俺は踏み出し、歩き出した。
山を上がると、砦にぶつかった。見張りの兵士が何か叫んでいる。あの声は、パンターロの言葉だ。すぐに兵士が五人ほどやってきて、俺を取り囲んだが、すぐに異常に気付いて抱え上げられた。
俺は何も言えず、されるがままになった。
砦に運ばれ、暖炉の前に降ろされると、重湯のようなものを出された。
感謝して受け取る。右手がまるでその器が重いことをアピールするように、震えた。どうにか口に運ぶ。
それから数ヶ月をこの砦で過ごした。兵士たちは俺がどこから来たのか知りたがったが、南、としか答えられなかった。前にもそういう奴をここで面倒を見たことがある、と彼らは笑っていた。
俺の体は食事のおかげでみるみる回復した。
幻を見ることもなかった。たまに剣を手に取ったけど、鞘から抜くことはなかった。
春も終わろうという時まで、兵士は俺を砦に留めた。それくらい俺は疲弊していたらしい。彼らが太鼓判を押すまで、俺は世話になった。
砦を出て、俺はパンターロの首都に向かった。
首都に着いた時には夏が近い。傭兵会社に行くと、受付嬢が目を丸くし、次に血相を変えて奥へ駆け込んで行った。
傭兵のリーダー格の男がやってきて、モエとカイの居場所はわからない、もう一年以上、行方不明だと教えてくれた。彼が代表になって、傭兵会社は続いているようだ。
俺はすぐに首都を離れた。
カイがどっこへ行ったのかは、俺にはわからない。俺が生活した小屋にいるだろうか。
その時、幻が俺の前に立ち込め、すべての景色が、深い森に書き換えられた。
小さな蝶が飛んでいる。金色の蝶と、銀色の蝶が、寄り添うように飛び、離れて、また寄り添って飛んでいく。俺はそれを追って歩き始めた。
森の中へどんどん分け入って行く。蝶は時に俺から離れ、時に俺にまとわりつくように飛んだ。美しい蝶だ。まるで金属でできているように見える。
森はどんどん深くなり、地面の隆起も激しい。上がっては下がり、また上がる。巨大な岩を回避し、小川を浅瀬を選んで渡った。
フッと蝶が消えた。その瞬間、まるで森が闇に閉ざされたような気がした。
周囲を見る。精神剣も使う。何も見えない。
森の中に俺は一人で、取り残された。
足を止め、天を仰いだ。
月だ。
唐突に光が満ちた。満月から差す光が、俺を包み込んでいる。
「先生……?」
光が弾けた。
俺は森の中に立っていて、すぐそばにカイが立っている。
明るい。月が出る時間帯ではない。昼間の森の中。
佇むカイを見て、ここが現実だと認識し、もう一度、周囲を見た。ここがどこなのかわからない。
「先生?」
俺はカイに笑みを見せた。
「出会えて良かったよ」
「ええ、ええ、それは……」
冷静さや探る表情が消え、カイは泣きそうな顔になった。
「モエは元気かい?」
「つい三日前、意識を取り戻されました。こちらです」
カイが俺を先導し始める。森の中にはよく見ると、人が頻繁に通った痕跡がある。カイが作った痕跡だろう。
森の一角にその小屋が、あった。傾斜を利用して、そうとわかりづらいように作られている。いつか俺とモエもこんな隠れ家を利用したな。こことは全く違う場所だったが、変な共通点だった。
小屋に入ると、モエがこちらを見た。
俺は幻を見ているのかと思った。
モエがいる。目の前に。本物のモエが目の前にいるのだ。
モエは目を丸くし、しかしすぐに閉じて、泣き始めた。
「神様……」
モエが呟く。
「神様、幻でも、構いません……。もう一度、彼を、私に会わせてください……」
俺はモエの横に進み出て、彼女の手を取った。
はっと目を見開き、モエが涙をこぼしながら、笑った。
「本物ね?」
俺は頷いて、強く、彼女の手を握った。
モエはずっと泣いていた。
彼女の涙が俺の目の前で、キラキラと輝いている。
手の中のぬくもりを、俺はずっと意識していた。
幻ではない、本物のぬくもりを、長く握りしめていた。
失われた剣聖、と呼ばれた男が国王に復讐した。
その噂は一時期、シュタイナ王国の王都を賑わせた。
その男は魔獣の力を受け、神の加護も受けたという。そして剣聖と渡り合い、王の元へたどり着いた。
だが王を前にして、人間を取り戻した。人間となったその男は、王に平伏し、王もまたその男を許し、そうして本当にその男はどこかへ消えたという。
失われた剣聖、という称号はやがて、神獣と呼ばれた男、と混ざり合い、失われた神、などと伝えられた。
興味深いのは当時の近衛騎士達が残した記録である。
王都の第二王宮を襲った男は、人ではなかった、というのである。
しかしもはや実際のところは誰も知らないし、知る術を持たない。
まさにその男は消えてしまったのだから。
(第5話 了)