1-1 始まりの日々
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大陸南部の、その中央部が我らがシュタイナ王国。
その中でも南部海岸に近い位置にあるのが、僕が生活するトグロ村だった。
ここら一帯の方針を決める、町村連絡会で大した発言力もない、小さすぎる村。
僕はミチヲ・タカツジ。十二歳。
父さんは出稼ぎで鉱山へ行っている。僕も十六歳になったら、いくつもりだ。
そうなると、母さんを残していくのが、最大の不安だけど。
母さんは三日に一度くらいは動けるけど、それ以外はずっと横になっている。原因不明の病気、というか、こんな田舎の医者では診断できるか怪しい、何らかの病気で、動けないのだった。
なので僕は小学校をほとんど無視して、毎日、畑を耕していた。
時期は初夏になろうとしていて、僕は毎日、麦の状態を確認し、次に様々な野菜を見回る。そろそろトマトが色づいている。
そんな点検はすぐに終わって、秋に収穫するための野菜を育てる畑を、鍬で耕していく。
周囲の畑で働いているのは、ほとんどが老人だ。若い人は、父さんのように鉱山へ行くか、そうでなければ、大半は軍隊に入隊し、そこで生活する。ただ、軍隊でも金を稼げるのは少数らしい。
一人で畑いじりをして、太陽が真上に来ると、示し合わせているわけでもないけど、畑にいる人が固まって、お昼ご飯になる。
僕は自分で焼いたパンを、水で流し込むしかない。
「ミチヲー!」
突然の声を振り返ると、自転車に乗った少女がこっちへやってくる。
「モエ」
彼女は僕の前で自転車から飛び降りると、何かの包みを放り投げてくる。受け取った時には、彼女は僕の横に座り込んでいた。
「それ、差し入れ。みんなで食べて」
包みを解くと、焼き菓子だった。ちゃんと切ってある。
「ありがとう、モエ。でも、学校は?」
彼女は僕と同い年の十二歳。幼なじみの一人だ。
彼女は唇を尖らせる。
「お昼休みだから、抜けてきた」
「先生に叱られるよ」
「別に悪いことしてないもん」
いつも彼女はこんな調子だ。
同じ年の子供は、トグロ村には全部で五人。彼女は唯一の女子だった。
そして彼女は地主の三男であるタツヤの許嫁である。
僕には特に何の感情もないけど、下手に地主を刺激するのも、よくない。
こんな時、周囲の老人たちが、うまく話を展開して、この場を、モエが僕を訪ねてきた、ではなく、モエは小作人を気にかけている、という形に持って行ってくれるのには、感謝しかない。
モエは三十分ほど話して、自転車で去って行った。授業が始まるのだ。
彼女は二冊のノートを置いていった。彼女が学校で作ってくれたノートで、つまり、僕が勉強できるように、という気遣いで、これにも感謝だ。
午後の仕事が始まり、僕は鍬を地面に当てていく。
もう農作業を始めて三年が過ぎている。手のひらのマメは、タコに変わり、もう血が流れることもない。
最初こそ重かった鍬も、今では軽く感じる。
そんな具合で、夕日が差すまで、僕は畑を耕し続け、雑草を抜いていた。
道具を片付けて、ノートを手に家路につく。
「ヨォ、農民の子供のお帰りだ」
帰り道で、ばったり、タツヤとその取り巻きと顔を合わせてしまった。
僕は無視して、すれ違う。
「なんだなんだ、働かせてやっているのに、礼もなしかよ」
やっぱり僕は無言。
前触れもなく、タツヤがこちらの服を掴むと、そのまま力任せに地面に引き倒した。
顔がぐっと近づいてくる。息が臭いな。言わないけど。
「ありがとうございます、って、頭を下げろよ、お百姓さん」
「ありがとうございます……」
ギリギリの自制心と、ギリギリの冷静さ、全部を動員して、僕は身を起こしてしゃがんだまま、頭を下げた。
その僕の肩をタツヤが蹴り飛ばす。
「わかってねぇなぁ。頭を下げる、っていうのは、地面におでこをこすりつけることだよ」
その言葉に従い、僕は額を地面に擦り付け、彼らの嘲笑に耐えた。
心の中では、連中を八つ裂きにしていたけど。
下らない連中が十分に離れてから、僕は起き上がり、服のほこりを払って、家に向かった。
家では母さんが料理を作っていた。今日は具合がいいんだろう。
「ただいま」
自然と声が明るくなってしまう。嬉しいのだ、母さんが元気なのが。
母さんも振り向いて、微笑む。
「お疲れ様、ミチヲ。すぐに料理が出来上がるからね」
僕は居間の椅子に座り、荷物の中からモエが作ってくれたノートを確認する。この家にはノートも、鉛筆すらもない。
貧しい家庭なんて、こんなものだ。
勉強したくても、できないのだ。
なのでじっと僕はノートを見据え、覚えることに意識を集中する。
どれくらいに時間が過ぎたのか、母さんが椅子に座ったのに気付き、顔を上げると、テーブルには質素な料理が並んでいた。
「モエちゃんから借りたのね?」
母さんが身を乗り出してくる。
僕はノートの中で理解できないことを、母さんに尋ねる。
「先に夕飯にしましょう。冷めてしまうわ」
まずいつも通りに小麦や野菜のことをあれこれ話しているうちに夕飯は終わり、僕はやっと勉強について、母さんに質問できた。
母さんは分かりやすく、しかし簡潔に教えてくれる。
三十分ほどそんなことをして、母さんと一緒に食器を片付けた。
全てが終わって、僕は家を出た。すでに周囲は真っ暗だ。
いつも使っている棒を手に取って、家の前で素振りを始める。
十六歳にならないと、公の仕事に就けない。父さんの話で、鉱山には十四歳で潜り込んでいる子供もいるらしいけど、父さんはそれを良しとしないので、僕には、十六歳になったら出てこい、と言っている。
きっと、僕も十六歳になれば鉱山へ行くだろう、と思っている。
思っている一方で、軍人になりたい、とも思っていた。
僕の学力では難しいかもしれない。学校に行かないで勉強をするのは、事実上、不可能だ。
でも、剣術は別だ。
稽古は一人でもできる。
剣術でも優秀な指導者に鍛えられば、あるいは結果が違うかもしれないけど。
タツヤの家には王都から呼んだという初老の騎士がいて、タツヤを鍛えている、という噂も聞く。
僕の剣術の稽古は、まったくの自己流の部分と、指導書を自分なりに解釈した部分がある。
指導書は、父さんにねだって、送ってもらった。薄い冊子で、今、三冊が手元にある。
何度も何度も、繰り返し読んだので、もうボロボロだった。
ひたすら棒を振り、次は型を繰り返す。指導書の動きを基礎に、しかし、自分なりに自然な動きを続ける。
最後に、家のすぐそばの木に棒を何度も打ち付ける。これを腕が動かなくなる前、続けた。
この木の皮は一部が完全に剥げていて、そこが僕の打っている場所である。
体力の限界が来る時には、全身が汗にまみれている。
棒を置いて、今度は手ぬぐいを手に母さんに声をかけ、また外へ。
小走りで近くの小川へ行って、汗を流した。
家に帰ると、かあさんはもう横になっていた。家と言っても台所のある居間と、二人の寝室しかない。
寝台は二つで、僕は元は父さんの寝台に寝る。僕が自分の寝台を必要とする頃には、父さんはもう鉱夫になっていて、この家にいなかったので、三台の寝台がないのだった。
明かりを消して、僕も寝台に横になった。
眠りはすぐにやってきた。
翌朝、目覚めると、母さんは寝台の上で唸っていた。
勢いよく布団から出て、額に手を当てる。少し熱がある。
手ぬぐいを水で濡らして額に置き、常備してある薬を飲ませる。
「ごめんね……、ミチヲ」
「気にしないで。朝ごはん、食べれる?」
母さんはゆっくりと首を振り、手ぬぐいが落ちそうになる。それを元に戻して僕は自分の朝食を手早く作った。
自分の分を食べて、母さんには粥を作っておく。
「鍋の中にお粥があるから、よくなったら、食べてね」
「ありがとう……」
僕は昨日の昼間に母さんが焼いてくれていたパンを一つと、水を入れた瓶を包みに入れた。
「じゃあ、行ってくるね」
不安を感じつつも、僕は畑に向かった。
麦も野菜も、変化はない。いや、少しだけ、大きくなっている。
この日も畑をひたすら、耕した。
昼間には不安に耐えきれなくて、小走りに家に戻った。
母さんは眠っていて、粥は鍋の中に残っている。でも母さんの様子は穏やかで、苦しそうではない。
安心して畑に戻り、午後も仕事をした。
家に帰ると、母さんは椅子に座って、机の上の手紙をじっと見ていた。
いつも通りに、ただいま、と言おうとした。
でもそんなことが言えるような雰囲気ではない。
空気がまるで、凍りついている。
「母さん……?」
どうにか声を出すと、ゆっくりと母さんが顔を上げた。
目元が赤い。泣いていたんだ。
「どうしたの?」
「これを……」
言って、紙がこちらへ差し出された。
受け取って、読む。一行目は、
「死亡通知書」
だった。
「まさか……」
思わず呟いた時には、僕は手紙のすべての文面を見ていた。
まさか、も、何もない。
はっきりしている。
父さんは、鉱山での落盤に巻き込まれて、死んだ。
「嘘だ……」
母さんが何も言わないまま、また顔を俯けた。
僕は紙をテーブルに戻し、天を仰いだ。
(続く)