第1話 史上最強の人型
この小説は前作『異世界武勇伝 〜格闘王が異世界を行く〜』の続きとなります。
――世界歴五〇一九年――
タルティカ王国東部・国境砦。
すべてが眠る深夜。
世界が闇と静けさに包まれる中。
突如としてその静寂が破られる。
「なんなのよ、これ……」
今、私の眼前には絶望が広がっていた。
『ォオオオオオオオオー!!』
夜陰を切り裂き、突如現れた異形の集団。
「ブオオー!」「ブォオ、ブァオッ!」「ブブオオ!」「ブォン!」「ブギィイイイ‼︎」
理性の欠如した眼で前だけを見据え、丸太のような手足で周囲の自然を破壊しながら進軍する、豚の面貌をした五匹の悪鬼たち。
「Cランクモンスターの〔ハイオーク〕がいっぺんに五体も現れるなんて……こんなの普通ありえないわよっ⁉︎」
その招かざる来訪者達は、連日の夜間警備に退屈を覚え始めていた私の気の緩み、そしてまぶたの裏に張り付いた眠気を、問答無用で吹き飛ばした。
――信じられない、信じたくない!
思わず私は自分の頬を思いきりつねった。
心と身体が全力で現実逃避を望んでいた。
――単体を討伐するにも小隊規模の戦力が必要とされる脅威度Cランクのモンスター。
――そんな連中が徒党を組んで行動するなど一体どんなタチの悪い冗談だ?
夢なら早く覚めてほしい。しかし残念ながら、つねった頰の痛みは本物だ。どうやらこれは夢ではないらしい。
「………………悪夢だわ」
目の前の光景を呆然と眺めながら、私は蚊の鳴くような声でそう呟いた。そんなセリフを口にできる時点で、たった今自分の目の前で起きていることは、どうしようもなく現実だ。そんなことは自分でも分かっている。
「こんなの、悪夢以外のなんだっていうのよっ……!」
でも、それでも、その言葉を口にせずにはいられなかった。なぜなら、この悪夢にはまだ続きが用意されていたからだ――
「――ブボボオオオオオオオオオオオッ‼︎」
あらゆる生物を萎縮させるような凄まじい咆哮が、闇夜に響き渡る。
「ひぃっ」
抑えきれない悲鳴を漏らし、私は全身を硬直させる。身の毛もよだつような雄叫びが聞こえてきたのは、くだんの五体のハイオークが出現したポイントより、50メートルほど後方からだ。
ズシン、ズシン……
大地を揺るがす巨人のような足音が、ゆっくりと、だが確実に砦に近づいてくる。
「うそ……でしょ?」
雲の隙間からようやく顔を出した月が、青白い月明かりで照らし出したソレは。
「オオオオオオオオオオオオーーーー!」
最初に現れたハイオークたちなどまるで幼児の集団かと思えるほどの、巨大な猪の魔物だった。
「あれってまさか……ベヒ、モント……?」
その瞬間。私はさらなる絶望の淵に叩き落された気がした。
Bランクモンスター〔ベヒモント〕。
オーク種の変異体であるブレストボアがさらなる進化を遂げた形態。それがこのベヒモントである。
「ブボオオオォオオオオオオオオーーッ!」
岩山のような圧倒的体躯。槍の如く一直線に突き出た二本の鋭い牙。その馬鹿げた存在感を宿した土色の怪物は、さすがは【準災害級】と呼ばれるモンスターだと言わざるをえなかった。
「あ、あんなの参考資料でも挿絵程度しか載ってない、昔話の中だけのモンスターのはずでしょ⁉︎」
もう頭の中がグチャグチャだった。複数のCランクモンスターに加えて、伝説級の化け物の登場である。こんなのどう考えても普通じゃない。まさに悪夢だ。いや、仮に悪夢でも、もう少し現実味があるはずだ。
「ううぅ……やっとお姉ちゃんと同じ職場になれたのに……」
もはや泣き言しか口から出てこなかった。
この春。私はようやく念願叶って、タルティカ王国憧れの職業第一位の「お城勤め」になることができた。王族づきの侍女である優秀な姉と違い、戦うことしか能のない私は国境の守備隊務めだが。それでも、これからは姉妹で国のために頑張っていこうと、久しぶりに行きつけのケーキ屋で閉店ギリギリまで大好きな姉と語り合ったのが五日前の話だ。
「こんなことなら、あの時ミラクル苺ショートとスペシャルミルクレープをあと三個ずつ食べとけばよかった……」
そのとき。
「おら、ぼけっとしてんな、新米!」
「きゃっ⁉︎」
いきなりお尻を叩かれ、私は咄嗟に後ろを振り返る。
「こいつはタルティカ王国はじまって以来の一大事だ! わかったら動け! 寝ぼけてる暇なんざ一秒もねえぞ、新米!」
「た、隊長殿……っ⁉︎」
私が振り向くや否やがなり立ててきたのはこの国境砦の守備隊長。言うなれば私の上司である。頬と顎を覆う無精髭はいただけないが、顔は人間種にしては整っている方だと思う。背が高くてスマート体型なのもポイントが高い。ただし、今しがたのセクハラは断じて許容できない。それに何よりも、
「この新米が! ただでさえ戦力外のくせにぼさっと突っ立ってんじゃねぇ! もっかいそのケツひっぱたかれてぇか、新米!」
「し――新米新米言わないでください!」
思わず私は声を張り上げた。
「私にはちゃんと、イレーユっていう立派な名前があるんですぅー!」
上下関係お構いなしに私が怒鳴り返すと、
「おう、いつもの調子が戻ったじゃねーか」
そう言って隊長殿はニカっと白い歯を光らせる。どうしてこんな時にそんな顔ができるのか理解不能だが。どうやらこの中年エロ隊長は私を元気づけてくれたようだ。
「ではイレーユ隊員! 今から貴様に重大な任務を与える!」
「は、はい!」
いつになく真剣な隊長殿の号令に、私は反射的に踵を合わせて気をつけをする。
「イレーユ隊員。貴様はこれよりハルネ村に赴き、村人達の避難誘導にあたれ!」
「は、ハルネ村でありますか?」
私は思わず訊き返してしまった。耳を疑ったと言ってもいい。もっとも、エルフの自分がこの距離、この音量で、よもやその指示を聞き間違えるはずもないのだが。
「繰り返す。貴様は今すぐハルネ村へ直行しろ。そして村人達を安眠から叩き起こし、そのまま彼等の避難誘導を行え」
「……!」
しかし、それでも、私には隊長殿の言っていることが理解できなかった。
「正気でありますか、隊長殿⁉︎」
「何がだ?」
わざとらしく首を傾げ、しらばっくれるセクハラ上司に、私は猛然と食ってかかる。
「ハルネ村はソシスト共和国の領土内に位置する村です! つまり、彼等は我がタルティカ王国の国民ではないのですよ⁉︎」
こんな緊急時によりにもよって、他国の民のお守り? 馬鹿げているにもほどがある!
私が断固抗議の姿勢を見せると、隊長殿はさも決まり悪げにボリボリと頭を掻いた。
「あー、その、なんだ……新米、お前は村の住人を安全な場所まで送り届けたら、もう砦には戻ってこなくていい」
「……え?」
「その足でソシストの首都にある冒険士協会の本部へ駆け込め。そんで匿ってもらえ」
「!」
笑顔の形に口角を持ち上げる彼を見て、私はようやく気づいた。この王国きっての歴戦の守備隊長は、一般市民の避難誘導という大義名分の下、新米であり、そして女である私をこの場から逃すつもりなのだ。
「た、隊長達も一緒に逃げましょうよ!」
私は思わず素に戻って、隊長に迫った。
「あの魔物たちの進行方向にあるのは、タルティカ王国じゃなくてソシスト共和国じゃないですか⁉︎ だったら、私達が命がけでこの砦を死守する意味なんてありませんよ!」
「だからといって、誉れ高きタルティカの守備隊が全員仲良く持ち場を離れられるか」
「だ、だったら私もここに残ります!」
「お前……」
「そりゃあ、隊長達から見れば私なんてまだまだ新米かもしれないですけど……わ、私だってタルティカ王国守備隊の一員です!」
「イレーユ隊員‼︎」
私の剣幕を、隊長がそれ以上の檄で遮る。
「貴様も誇りある王国守備隊の一員なら、まずは己の責務を果たせ!」
「……それは、他国籍の民の安全を確保することでありますか?」
「そうだ」
非難めいた私の問いかけに対し、隊長は力強く頷いて答えた。
「自国だろうが他国だろうが、王から任された以上、自分達の持ち場を何が何でも死守するのが我々守備隊の務めだ。違うか?」
「……」
「それに考えてもみろ。これは大国に恩を売るチャンスだ」
そう言って、隊長はソシスト共和国方面に向かって現在進行中の魔物の軍勢を挑むように睨みつける。
「へへ、都合よくこの砦の造りは防衛戦に向いてる。なら俺達の力であの豚どもの侵攻を見事阻止して、ソシストにどでかい貸しを作ってやろう。――なあ、みんな!」
「「「オオーー!!」」」
いつの間にか、そこにはお馴染みの守備隊の面々が揃っていた。皆、精悍な顔つきをしている。戦う男の顔というやつだ。普段ならむさ苦しいと感じるところだが、今はそんな彼等がやけにカッコよく見えた。
「…………絶対に生きてまた会うって、約束してください」
「おう。そんときゃ、景気よくまた尻でも触らせてくれや」
「せせ、セクハラですよ、隊長‼︎」
「……将来イイ女になりてーなら、こういうときは嘘でも頷いとけって」
お尻を必死にガードしながら慌てて後ずさる私と力なく肩を落とす隊長のやり取りを見て、周りにいた隊員達が笑い声を上げる。自分としてはまったくそんな気はなかったのだが、結果いい感じに場の雰囲気がほぐれた。私は小さな咳払いで気恥ずかしさを誤魔化しつつ、皆に敬礼する。
「隊長殿、それに皆さん……ご武運を!」
「おう、そっちもな」
そう言った隊長の顔はとても穏やかなものだった。おそらく既に死を覚悟しているのだろう。そして、きっとそれは他の隊員達も皆同じである。
……ダメよ。ここで私が泣いたりなんかしたら、みんなの士気が落ちちゃうわ。
目に浮かんだ涙を悟られぬよう、咄嗟に私は下を向いた。そしてそのまま気のいい仲間達に背を向け、全力で駆け出そうとした――その時である。
「ブオロロォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオーーーーッッ‼︎‼︎」
堅牢な砦を破壊せんばかりの地獄の雄叫びが、月夜の世界を蹂躙した。それはまさに今宵最大の絶望が到来した瞬間であった。
「こんな……ことって……」
私はその場にへなへなと崩れ落ちる。
けたたましく砂埃を巻き上げ、荒ぶる闇色のオーラをまとい降臨せし暴虐の化身。全てのものを恐怖と暴力で支配する巨人型モンスター。かの魔物こそ、オーク種の“王”の名を冠する者。
「ブヴロロロオオオオオオオオオーーッ!」
暴君と恐れられる準災害級モンスター。
その名を〔オークキング〕といった。
「は、はは……こりゃあ、いよいよ世界の終わりってやつか?」
凍りつくような空気の中、誰かがそんな事を言った。私もまったく同じ気持ちだった。こんな事があっていいはずがない。こんな理不尽なことが起こっていいはずがないのだ。
「何してやがる! 早く行け、イレーユ!」
叱咤の言を発しながら、隊長が地面にへたり込んでいる私を強引に引っ張り上げようとする。その声に先ほどまでの余裕はない。当たり前だ。あんなものを目の当たりにしてなお平然としていたら、逆に正気を疑う。
「――! ――ッ‼︎」
隊長の声がひどく遠くに聞こえた。私にはもう、隊長が何を言ってるか聞き取れなかった。エルフは他の種族よりも、ずっと耳がいいはずなのに……。
「――ッ――ッ‼︎」
ただこれだけは分かった。この部下思いの隊長はきっと、せめてお前だけでも逃げろ、そう私に言ってくれているのだ。
……でも、逃げるってどこへ?
もはや立ち上がる気力すらなかった。自分を逃がそうとしてくれた隊長や他の隊員達には申し訳ないけれど、私の心は完全に折れてしまった。
「ブオオー!」「ブギオオ!」「ブヴオッ」
「ブブオン!」「ブォオオオー!」
「ブボボオオオオォオオオオオオオオッ‼︎」
「ブオロロロロオオオオオオオオオーッ‼︎」
何処からともなく現れた七匹の悪魔が、私の生気を根こそぎ奪ってしまったのだ。
しかしこの時。
私の前に現れたのは、絶望という名の悪魔たちだけではなかった――
「――見回りにきて正解だったな」
不意に声が聞こえた。
「それにしても、ここまで接近して反応を拾えんとは。《空間魔技》ってのは思ったよりも厄介だな」
その声は、音を失ったはずの私の耳にもはっきりと届いた。
「だ……れ?」
泣きべそをかきながら、私は顔を上げた。
初めに目に入ったのは逞しい背中だった。
不思議なことに、私はその背中を一目見ただけで、心から安心してしまった。
一体いつからそこに居たのだろうか?
この絶望的な状況の最中、その人はあたかも私達をその背にかばうように、砦の石垣の上で腕を組み仁王立ちしていた。
「仕方ない、養豚場の女主人はまたの機会にとっておくか」
ぽかんと呆気に取られる私を含めた守備隊の面々をよそに、その人はこの砦の最上部から、まるで手頃な獲物でも見るように迫りくる大型モンスターの群れを見下ろした。
「できればあいつらの訓練用に利用したいところだが、さすがに生け捕りにするわけにもいかんしな」
そして次の瞬間。
まるで宙を舞うように。
彼は月が輝く夜空へと躍り出た。
この夜の出来事を、きっと私は生涯忘れないだろう……
「さあ、殲滅開始だ」
暴悪な魔物が蔓延る戦場を、気高く翔けるその姿は、まさに神話の英雄。
彼の名は花村天。
これはだいぶ後になって知ったことだが
彼は、彼のことを知る名だたる英雄
数多の王族の皆から
こう呼ばれていた――
――史上最強の人型――