第156話 冒険士最強は
『ブオォーン!!』
ハイオークが咆哮する。
喉の奥から沸き起こる轟音は大地を震わせ、腐敗臭を伴った呼吸が周囲の空気を穢していく。その巨躯は岩石のように無慈悲で、手に持つ巨大な棍棒は一振りで城壁さえ粉砕しそうだ。
「上等じゃない」
マイは臆することなく前に出た。赤いノースリーブが微かに肌を透けさせ、ミニスカートから伸びる生足は戦場に咲いた鮮烈な色彩を放っていた。少女は愛用の薙刀を構えてハイオークを睨みつける。その眼光には譲れない己の矜恃が宿っていた。
「おしゃれは女の子の魂よ!戦場でもドレスコードがあるんだからっ!」
その言葉を合図に、マイは猛然と疾走した。ハイオークが棍棒を振り下ろす。地面が陥没し土煙が舞い上がる。しかし彼女の姿はない。滑るように地面を這ったマイはそのまま足元へ忍び寄り――
「そこよ!」
銀刃が閃いた。マイの薙刀がハイオークの片腕を切り飛ばす。激痛と憤怒の雄叫びを上げて、巨獣が残った腕で棍棒を振り回すも、マイは紙一重で宙に舞う。
「遅いわ!」
空中で回転しながら短剣を投擲する。それが運良くハイオークの右目に突き刺さった。だがまだ致命傷には至らない。ハイオークは呻き声をあげながらも棍棒を握り締め、執拗にマイを追う。
「しぶといわね……!」
確実に攻撃を当ててはいるが、マイの顔に余裕はなかった。相手は格上のハイオーク。ただ対峙するだけで体力は徐々に削られていく。たとえ重傷を負わせても、気づけばジリ貧になっているという理不尽。マイは改めてCランクモンスターの脅威を認識する。
「これがお姉ちゃんなら……」
もっとスマートに勝つ方法を見つける。マイはハイオークの棍棒をギリギリでかわしながら、そんな事を考えていた。
だが、生憎と自分は天才の姉とは違うのだ。
「痛っ!」
全身に鋭い衝撃が走る。烈しい棍棒の風圧で吹き飛んだ砂利が皮膚を裂いたのだ。
マイの頬に血が滲む。スカートから伸びる生足にもすでに擦り傷がいくつも刻まれていた。
「ったく……本当にしつこいんだから!」
噛みつくように悪態をついた瞬間、突然ハイオークの動きが鈍る。まさか悪口が効いたのかと一瞬錯覚したが、ハイオークの足元を見れば泥沼に嵌っていた。マイが事前に撒き散らしていた水の魔道具が功を奏したのだ。
「チャンス……!」
マイは勢いよく地面を蹴った。風を切る音とともに薙刀の刃が円弧を描く。その一撃は寸分違わずハイオークの膝を切り裂いた。
『ブアァアア!!』
断末魔のような絶叫をあげてハイオークの巨体が崩れ落ちる。沼に沈みながらもなお手足をばたつかせる巨獣に対して、マイは躊躇なく飛びかかった。
「これで終わりよ!」
そして一際高く薙刀を振り上げ――マイは渾身の力でそれを振り下ろした。
《魔装:閃裂》
鋭利な風の刃を纏った薙刀がハイオークの脳天に突き刺さり、そのまま振り抜かれた。
頭から胴にかけて鮮やかな切断痕を残して、ハイオークが地に倒れる。
そして二度と動くことはなかった。
「ふぅー……」
マイは大きく息を吐いて、額の汗を拭った。
そこで背後から声をかけられる。
「よくやったな、マイ」
「お姉ちゃん!」
マイが顔を輝かせて振り返ると、青い着物に身を包んだカナデが凛とした姿勢で立っていた。彼女の足元には無数のモンスターが倒れている。マイの邪魔にならぬようその他の敵を一掃していたようだ。
「ねえ、見た見た?あたし、ひとりでCランクモンスターのハイオークを倒したよ!」
「ああ、見事だった」
まるで自分のことのように喜ぶカナデを見て、マイはさらに気分を良くする。
「これも全部、Bランクの魔石をくれたシスト会長のおかげだね!」
「あ、ああ、そうだな……」
急に歯切れが悪くなったカナデに気づかず、マイの口はさらに軽くなる。
「偉くて強くて気前が良くて、やっぱり英雄はそういう人がなるべきよ」
「…………」
「そういえばお姉ちゃんは、レオスナガル様ともう会った?あたしは遠くから見たけど、ものすごい美形でオーラも凄くて思わず見惚れちゃったわ。どっかの英雄にも見習ってほしいよね」
「……………………マイ。尻をこっちに向けろ」
「え?」
バチン!!
カナデが勢いよくマイの尻を引っ叩いた。その手の形を模したような紅葉マークがスカート越しにもくっきりと浮かぶ。
「イッたーーい!!」
マイはあまりの衝撃に跳び上がり、痛みに悶絶しながら姉を見やる。
「お、お姉ちゃん、いきなり何するのよ!?」
「すまん。お前の尻を無性に叩きたくなった」
カナデはそっぽを向いて、倒したモンスターの回収を始める。
それから姉の機嫌が直るまで、マイはひたすら自分の尻をガードすることになった。
◇◇◇
平野一面を覆い尽くすモンスターの波は、無慈悲な砂漠の風のように止まることを知らない。
冒険士達はただ呆然と立ち尽くしていた。
しかしそれは迫りくるモンスターの大群に恐れをなしたからではない。
冒険士達が見ていたのは、たった一人の男だ。
Sランク冒険士レオスナガル。
彼は無数のモンスターを次々に斬り伏せていく。
もはやそれが戦闘なのか剣舞なのか分からぬほど、彼の戦いは美しく凄まじかった。
その場に居合わせた者達は、ただ一人の英雄に魅入っていた。
「なんだ……あの動き……」
「人の速さじゃない……」
防衛線に配置されていた兵士達の呟き声が風に乗って流れる。眼前に広がる光景はまるで神話の一幕のようだった。
雷光が煌めき、斬撃が閃く。
白い剣を手にした長髪の剣士が、大地を蹴り、虚空を舞う。
一体、また一体とモンスターが倒れていく。
その鮮やかな剣捌きは芸術品のようでありながら、同時に圧倒的な破壊の力を秘めていた。
「これが嵐の皇帝……!」
カズヤは息を呑みながら、信じられない光景に目を見開いた。憧れの存在、英雄譚の中の人物。まさか自分の目の前で、その力を目の当たりにする日が来るとは想像もしていなかった。
「ヤバいだろ、あれは……」
アマリンが上気した頬に手を当てて呟いた。普段は男勝りな彼女も、今は純粋に美しいものを前にした乙女のように瞳を輝かせている。
「Sランク冒険士とは、凄まじいものだな」
ハヤトが感嘆の声を漏らす。ただ彼に限っては他の者達と違い、ある程度の落ち着きがあった。
だから、その異変にもいち早く気づけた。
「気をつけろ、何かくるぞっ!!」
ハヤトの警告が飛び散る刹那―― 地面を突き破るように、紫紺の毛並みをした巨大な獅子が咆哮と共に現れた。
『ガウオオオオオオオオォッ!!!』
岩石を砕くかのごとき衝撃が大気を揺らす。
地面から現れた大型のモンスター。
その姿はまさしく怪獣だ。肉体を覆う紫の縞模様、背中からは蝙蝠に似た翼、尻尾の先端には赤く輝く蠍の尾が伸びている。
Bランクモンスターの中でも最強クラスと言われる魔物、マンティコアの出現だった。
「ひっ……!」
「ま、マンティコアだとっ!?」
冒険士達の顔から血の気が引く。最前線に立って場慣れした者達ですら冷や汗を浮かべる。彼らにとってマンティコアは絵物語の中の幻獣ではなく、死の象徴そのものだった。
だが――
「雷鳴斬」
彼らの目の前には、それすらも遥かに凌駕する生ける伝説がいた。
――閃ッ!!
電光石火。
紫電が曼荼羅のごとき紋様を描いて駆け抜ける。
瞬きをする間もなく、青白い雷に打たれたマンティコアは宙を舞い、地面に墜落した。
全身を丸焦げにされてなお暴れ続ける魔獣へ、銀の英雄は一切の無駄のない動きで接近し――
「終わりだ」
静かに告げると同時、白刃が水平に弧を描いた。
音もなく刎ね飛ばされた獅子の頭部が、地面に転がり落ちる。
残った胴体から毒の尾を断ち切り、魔物を完全に無力化すると、レオスナガルは剣についた汚れを払う。その姿は地上に降臨した雷神の如く荘厳であった。
ワァァァァアアアアアアッッ!!
冒険士達が爆発的な歓声を上げる。
恐怖に打ち震えていた彼らの顔は、歓喜と敬意で埋め尽くされていた。
「やった!」
「本物の英雄だ……!」
「嵐の皇帝、万歳!!」
「さすが冒険士最強だぜっ!」
称賛の嵐が吹き荒れる中、息絶えたマンティコアに背を向け、寡黙な英雄が口を開く。
「違う」
歓声がピタリと止む。
「冒険士最強は、私ではない」
レオスナガルは、静かに剣を構える。
「今の私では、彼の足元にも及ばない」
そして再びモンスターの大群に向かって駆け出すその姿を、冒険士達は呆然と見送った。
「ぼさっとするな!!」
ハヤトが大声で檄を飛ばす。
「一から十まで人任せにする気か!俺達も戦うぞ!」
そこでようやく皆が我に返って武器を握り直す。
マンティコアは倒れたが戦いは終わっていない。
モンスターの大群は、未だ衰えることなく押し寄せているのだ。
「そうさ、苦難に立ち向かってこそ冒険士だよ!」
「行きましょう、アマリンさん!」
アマリンとカズヤが気合いを入れ直して前線に戻っていく。他の冒険士達もそれに続くように武器を振るい始めた。ハヤトも雄叫びを上げてモンスターの群れに突っ込んで行った。
「ハヤトのやつ、なんかやけに嬉しそうじゃなかったかい?」
「憧れの英雄と肩を並べて戦えるなら、男なら誰だってやる気を出しますよ」
カズヤの言葉にどこか納得いかない様子のアマリンをよそに、ハヤトが最前線で奮闘する。
「さあ、どこからでもかかってこい!」
直立不動で盾を構えるハヤトの顔は、やはりどこか嬉しそうだった。
それから一時間後、スタンピードが発生して最大規模となるモンスターの大群は、なんとか死者を出さぬまま掃討された。
◇◇◇
日暮れ時。
夕焼け空がグラウンドを茜色に染める廃駅構内。
かつて都市のターミナル駅だったこの場所は今や戦略防衛拠点だ。
駅舎を改造した簡易テントの中では、斥候隊が緊張した面持ちで周辺監視を行っている。
「……やっぱ、俺だけでもハヤトのそばに行った方が良かったんじゃねーか?」
革鎧姿のナッツがシンプルな木製テーブルに肘をついてぼやいた。短剣の手入れをしながらも目線は出入り口に注がれている。
「またそれ?」
傍らで大斧を磨いていたバッシュが溜息をつく。オカマ言葉がトレードマークの大柄な男は、分厚い筋肉で覆われた腕を組みながら諭すように言う。
「天下のSランク冒険士がついてるのよ? そんな心配することないわよ」
「……あいつ、いつも無茶しやがるし」
「まあ、確かに猪突猛進タイプよねぇ」
バッシュは肩をすくめて微笑する。
「でも大丈夫よ。ちゃんと実績を積んで内面も成長したわ。 少し前までの危なっかしい坊やじゃない」
「……分かっちゃいるんだがよぉ」
ナッツはガシガシと頭を掻く。
現在、銀の翼パーティーは一時的に解散状態だ。リーダーのハヤトはもちろん、ナッツやバッシュも各防衛ラインのリーダーを任されている。なのでおいそれと防衛拠点を空けて加勢に行くわけにもいかない。
「そうだ、ミンリィちゃんの方はどうだったの?」
「……そっちも大変だったぜ」
ナッツは疲れた顔で溜息をつき、椅子を軋ませて天井を見上げた。
「なんとか魔石は渡せたんだけどよぉ……ミンリィのやつ『いらん』『使わん』の一点張りでとにかく苦労したぜ」
「あなたってつくづく苦労性よねぇ」
バッシュは苦笑しながら相棒の肩をポンと叩いた。
◇◇◇
深夜。
夜の闇に映える白いローブを羽織った三人組が、魔鳥の背から飛び降りる。度重なるモンスターとの戦闘で砂漠と化した荒野に、カオスラトス、レイギルバード、グレイマリアの三人は呼び出されていた。
「……」
「……」
「……」
荒野に降り立った三人は、誰に言われるでもなく無言で地べたに跪いた。
本来なら王族よりも上の地位にいる彼らが、一切の迷いもなく衣服を汚して地に膝をつく。
三人はひどく緊張していた。
彼らがいる場所はかつて草木が生い茂る自然豊かな大地だったが、今は見る影もない。地表は赤茶けた土塊と岩石がむき出しになり、所々に戦闘痕が残る荒地と化していた。
その荒廃した風景を一層無惨に彩るのが、三人の目の前に横たわる、超巨大なモンスターの亡骸だった。
『…………………………………………………………』
巨大な眼球が月光を反射して微かに輝く。ギョロリとした目玉に光はなく、大きな舌をだらりと出してぴくりとも動かない。ビル数棟分の大きさはある。太い四肢と岩のような頭蓋骨を持つ鬼型のモンスターだ。
Aランクモンスター〔ヘルオーガ〕
間違いなく死んでいる。にも関わらずその存在感は凄まじいものだ。まるで動く城塞のような質量と威圧感が死後も残滓として漂っていた。屍でありながら荒野の大気を歪ませる魔素。まさに冥府の鬼である。
そしてその鬼の頭部に――ひとりの青年が悠然と胡坐をかいていた。
くたびれたTシャツに古ぼけたジーンズという場違いな軽装にも関わらず、その佇まいには鬼を喰らう地獄の王のような迫力があった。
「そろそろ話せ」
びくりと三人の肩が震える。彼らは跪いたまま冷や汗に濡れた顔を上げた。
「お前らは知っているんだろ」
遥か頭上から放たれた言葉は、まるで耳元で囁かれたかのように真実を突きつける。
「このスタンピードを起こした、黒幕の正体を」
赤い満月を見上げて、天は淡々と言った。