第106話 切り札
サランダは肩で息をしながら、ぐっと奥歯を噛みしめる。
「ハァ……ハァ……ッ」
止まらぬ汗。乱れる視界。鉛のように重い体。明らかなスタミナ切れの兆候であった。
『ギ、ギギ……』
時を併せて、ブリジットの自家製爆弾で吹き飛んだ巨大蜘蛛の一匹が、ヨロヨロと起き上がった。見るからに弱っているが、まだ生気は失われていない。攻撃的な光りを宿した赤い目玉がそれを物語っている。
「空気を読みなさいな」
ブリジットが言った。ケチがついたと顔をしかめる彼女の右手には、当然のように予備の魔導銃が握られていた。
「あいつは、ハァ……自分が、ハァ……やるッス……!」
「あ、お待ちなさいっ」
ブリジットの制止を振り切るように、サランダが駆け出す。本当は立っているのも辛いが、疲れて動けないは通用しない。冷静さを欠いて仲間の忠告を無視したのは自分だ。なにより身内の仇を前にして、尻込みなどできようはずがない。サランダは生き残った巨大蜘蛛に向かって、猛然と拳を振り上げた。
「ハァァアアー!」
ガィンと鈍い衝撃音がテラスに響く。勢いよく助走をつけた右拳の打ち下ろしが綺麗に決まったのだ。
『……ギギギ……!』
しかしサランダの攻撃は相手をわずかに退かせただけで、致命傷には至らなかった。当たり前だ。あの大爆発にも耐えた個体が、たった一発の、それも疲労で衰えた拳打で倒せるわけがない。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
ならば連打で削るしかないのだが、今のサランダにはそれも厳しい。
……情けないッス。
サランダは荒い息を繰り返し、また奥歯を噛んだ。体力はあと少し。魔力もほとんど残ってない。マジックグローブの状態維持もあと数分が限度だろう。
こうなったら使うしかない。
「――バースト!!」
瞬間、サランダの五体が光を帯びる。それは魔力を使わずに身体能力を向上させる、Aランク冒険士サランダの正真正銘の切り札である。
サランダは強化された兎人の脚力で、大地を蹴り月下に舞う。
――ここで決めなければ勝機はない。
男装の麗姫は月夜を背に、ありったけの力を握った両拳に込める。
「オラァアアアーーッ!」
そして次の瞬間、遥か上空から振り下ろされた鉄拳ハンマーが、巨大蜘蛛の脳天を叩き割る。鼻を刺す異臭がした。飛び散った体液だろうか。視界が歪んでそれすら確認できない。
「ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」
サランダは押し寄せる疲労感から、今度こそ立っていられなくなった。
『…………ギギ!』
両膝を地面についてふらふらのサランダを嘲笑うかのように、それは起き上がった。サランダが倒した相手とは別の、ブリジットの奥の手に耐えた、もう一匹の個体である。
「結局一匹しか倒せてなかったのね……」
そう漏らすと、ブリジットは気持ち恥ずかしげに銃を構えた。
「あっ」
そして間の抜けた声を上げてしまった。起き上がったソイツが逃げたのだ。万が一にも勝ち目がないと悟ったのだろう。今しがたの死んだフリといい、この個体は他の四匹よりも知能が高いようだ。
「ちょ、お待ちなさい!」
ブリジットは思わず手を伸ばす。個体が逃げた先は開け放たれたテラスの入口だった。先ほどの爆風で扉が開いてしまったようだ。
『ギギギギギー!』
ガザガサと気味の悪い足音を響かせ、特大サイズの蜘蛛が部屋の中に入って来る。
「ひゃぁああ、こっち、こっちきたぁー!」
レオスナガル達の戦いに魅入っていた淳が悲鳴をあげる。高みの見物から一変して大ピンチ。おまけに少年は、未だにリザードキング戦の心の傷が癒えていないのだ。
「くく、くるなっ、くるなあぁああーッ!」
恐慌する男の娘に、迫りくる巨大蜘蛛。このままでは、また少年のガラスのハートは致命的なダメージを負ってしまう。
だが、そうはならなかった。
美しい姫の隣には、決まって比類なきナイトがいるものだ。
「ん」
グシャ!
まるで虫を踏み潰すように。リナの蹴りが蜘蛛の生命活動を完全に停止させる。文字通りの意味で一蹴した魔界の蟲を見下ろし、リナは満足げに唇を舐めた。
「とりあえず、これで一匹は確保なのです」
「キャアアアアー!リナお姉さまぁあー!」
黄色い声をあげてもう一人の美姫、弥生がリナに抱きついた。巨大蜘蛛を瞬殺した犬耳のナイトに少女はメロメロだ。一方――。
「リナさん、すごい……」
「とんでもありませんわ」
エメルナとブリジットが戦慄の表情を浮かべる。テラスで実際に戦っていた二人には分かる。最初に出てきた奴はともかく、あの巨大蜘蛛は決して簡単な相手ではなかった。まして丸腰のまま体術のみで倒すなど、神業以外の何物でもない。
「これが零支部ですか」
「化け物揃いですわね」
エメルナが息を呑むように声を漏らし、ブリジットもそれに追従する。これまでの常識を覆す超人集団。自分の目で確かめたからには認めざるをえない。銀髪と金髪の女冒険士は、感情の高ぶりを抑えるようにそれぞれの武器を握りしめる。
そして、そんな彼女達よりもさらに強いショックを受けた者がいた。
「なんで、リナっちまで、バーストを……」
サランダは息も絶え絶えに呟くと、極度の疲労から意識を手放した。
◇◇◇
「これは驚きましたね」
シャロンヌは感嘆するように言った。
「あれはまさしく『練気』の光。マスターの教えを受けずに、独学でかの境地に到達した者がいるとは」
「正確には、少し違う」
そう告げた天の顔は無表情だが、声には微かな苛立ちがあった。それは察しがいい者ならすぐに分かる、気分を害した返事だ。シャロンヌは一も二もなく頭を下げる。
「申し訳ございません。愚かな憶測を口にいたしました」
「いや、そう見えるのも仕方ない。実際、力の質はほとんど同じものだからな」
表向きは無表情を保ちつつ、天は慌ててフォローを入れる。別にシャロンヌの発言が気に食わなかったわけではない。ただあまりにもその展開が予想通り過ぎて、少しばかり頭が痛くなったのだ。
ちなみにその原因を作った人物は、現在テラスの石畳に突っ伏して意識を失っている。
「姉上……」
戦闘終了後に倒れたサランダを見て、天の肩の上にいたシラユキが心配そうに呟いた。
「大丈夫じゃろか……」
「安心しろ。いざとなったら俺とシャロでなんとかする」
「はい。お任せください」
天の言葉に、シャロンヌが高調子に返事をする。背筋を伸ばし、喜びつつも凛とした態度はいつもの彼女のものだ。心なしかその胸で眠るラムも心地よさそうにしている。これでメイドへのフォローはいいだろう。さて次はと天が顔を上げると、慌てて動揺を取り繕うシラユキと目が合った。
「し、心配無用じゃ! サランダ姉上のしぶとさは筋金入りじゃからな。ただの尻のデカい女だと思ったら大間違いじゃぞ!」
「わかった。あとで本人に伝えておく」
「のわっ」
兎人の姫君が可愛らしくのけぞる。戦闘時の緊張感はもうない。周りもすっかり戦勝ムードだ。
しかし、呪いの試練はまだ終わりではなかった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
それはテラスはおろか、王宮全体を揺るがすような激しい振動だった。
「な、なんじゃ⁉︎」
シラユキは咄嗟に天の頭にしがみつく。見れば、テラスと部屋のちょうど境に、巨大な魔法陣が浮かび上がっていた。
「……」
天はこきりと首を鳴らし、歩き出す。
巨大な魔法陣はすぐに消え、代わりに黒い底なし沼が姿を現した。そして次の瞬間、沼から大きな足が一本、まるで地の底から這い上がるようにして出てきた。
「うぁ、ぁ……」
「あ、ぁあ……」
淳と弥生が言葉を失う。ソレは足一本で先ほどの巨大蜘蛛を上回る大きさだった。
『――――』
ぬっと顔を出したソレは、餌を求めるように八つの目をギラリと光らせる。全てを押し潰すようなプレッシャー。圧倒的な存在感。ソレは紛れもなく、今宵最大級の――
「――よっ」
べチンッ‼︎
天のデコピンが蜘蛛の額をぶち抜いた。
『……………………………………』
ぷか……と。大きな大きな毛深い背中が沼に浮かぶ。天は素早くそれをドバイザーに収納すると、証拠隠滅とばかりに魔力でできた沼を足の裏で踏み消した。そして何事もなかったように、ドバイザーを尻のポケットにしまった。
「さてと」
「さてと、じゃないわいっ!」
ペチペチと頭を叩かれる。
「なんだよ、いきなり」
「それはこっちのセリフなのじゃ!」
シラユキがすごい形相で睨んでいる。どうやら説明が必要のようだ。
「まあ聞け。今の奴はテラスと部屋の境界に出現した魔石……モンスターだ。さらに足だけならまるまる部屋の中に入っていた。これはつまり、俺が手を出しても問題ないということだ」
「どうでもいいわそんなこと!」
ペチペチがベシベシに変わる。
「アレ明らかにボスじゃったじゃろ⁉︎ デコピン一発って色々とおかしいじゃろ⁉︎」
「最初の奴らも指パッチンで倒したろうが」
「ぐっ、お主はほんとに何者なんじゃよ!」
「指の力が異様に強い人だよ」
見れば分かるだろ。天はしたり顔で肩をすくめる。ベシベシがバシバシに変わった。
「フ……」
好き放題に頭を叩かれていると、テラスに佇むレオスナガルと目が合った。彼の傍らにいたエメルナとブリジットはあんぐりと口を開けていたが、彼だけはこちらを見て、ほんの微かに笑った。
「笑わない冒険士と聞いてたんだがな」
「何がじゃ?」
「べつに」
天はひらりと手を振った。冒険士最高位の男は、存外笑うのが苦手というわけでもないらしい。




