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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

小さな光と深い闇

作者: 蛍石光

 俺の今の状況を説明できるのは、やっぱり俺だけなんだろうな。




 俺には彼女がいた。会社の飲み会で意気投合した派遣社員の愛理だ。優しくて可愛らしい子だった。そして、なんと言ってもエロかった。俺はそんな彼女に惹かれて付き合うことになった。

 それから数カ月後、上司からの辞令で北の地、北海道は札幌市へと転勤になった。本社勤務だった俺からするとまさに寝耳に水っていう感じだ。確かに出世はした。平社員から係長への昇格だからな。少し悩みはしたけれども彼女にも相談して決めた。任期は決まっていないけれども上司の『ま、3年ってとこだろ。』という言葉を信じた形だ。

 26歳の時だった。


 そして、北海道にやってきてから今年で5年目。勤務地は札幌よりも更に北の場所になっていた。


 上司の失態を部下がかぶる。よくある話さ。

 アイツも俺もクビにならなかっただけマシだったっていうくらいのさ。

 海辺にある小さな缶詰加工工場の工場長というのが三年前からの俺の肩書だった。全従業員は20名くらいで俺以外の正社員はたった一人。殆どがパートのおばちゃん。俺自身の給料は悪くない。むしろ高くなった。でも・・・関連会社のそのまた下請けの下請け。後はない。はっきりと通告されたも同然だった。

 俺が起こしてしまった失態がこうなっている原因だったら納得はできたんだけれどな。

 31歳にして俺の人生はここで終わっているようなものだった。


 札幌にいた間は彼女ともうまくやっていた。

 頻繁に会えたわけじゃないけれど、数ヶ月に一度はどちらかの家であったりしたものだった。でも、ここに来てからは・・・今の俺の立場上、簡単に休みなんて取ることは出来ない。朝から晩まで仕事に追われる毎日。早朝に運ばれて来る缶詰用の魚を受け取り、夕方までは作業。夜は夜で書類の整理に業務内容のチェック。やることが多くていくら時間があっても足りない。そんな毎日が続くうちに彼女とも疎遠になっていった。


『戻ったら結婚しよう。』


 そんな話をしていたことすら遠い思い出に変わりそうな頃。

 港に一人の女性がいた。溶け始めていた雪とともに消えてしまいそうな雰囲気をまとった女性だった。


 彼女の名前は『道下ゆかり』。この辺りの生まれではなく、結婚を考えていた男性にこっぴどく振られた上に貯蓄の大半を持っていかれたという絵に描いたような不幸な女性だった。27歳の彼女にとって今までの人生を否定されてしまったような気がして自暴自棄になって何も考えずにこんな所まで来てしまったらしい。


「もう・・・どうでもいいの。」


 彼女のそんな言葉と行動に俺の心は久しぶりに大きく揺さぶられた。ここにやってきてから3年間というもの、女性とは全く無縁な日々を過ごしていたからだ。

 下心がなかったのか?

 そう聞かれると無かったと断言できるほどに俺はできた人間じゃなかったことは認める。

 大学を出た後に一流企業に就職、4年間の本社勤務を経て出世と引き換えに転勤。そして、上司の不祥事をかぶり左遷。そんな男が女ひでりのまま生きていられるわけがないだろう。


「すべてを忘れて、ここで生きていけよ。うちの工場にパートの空きがあるから。」


 本当のところ、工場の人員に空きはない。でも、その辺りは職権を活かせばどうにでもなる。実際、勤務態度が良くないパートが一人いた。工場内の他の人間からも評判が悪く、三日に一度は欠勤するといった具合の女性。

 俺はそいつに解雇を告げた。一ヶ月の猶予を与えて。

 それは半ば『ゆかり』のために設けた一ヶ月だった。彼女が身辺整理をする時間だった。



 ゆかりはそれから1ヶ月も経たないうちに俺のもとにやってきた。正直に言えば本当に来るのかどうかは半信半疑だった。かすかに信じられたのはあの日、彼女と体を重ねた時の温もりだけだった。

 そして、ゆかりとの共同生活が始まった。

 俺の住んでいる家は会社が借り上げた民家だったから部屋は余っていた。その一室を提供し、代わりに色々な身の回りの世話をしてもらう。そういう条件だった。



 およそ1年後、俺とゆかりはまるで夫婦のような生活を営んでいた。

 あれほど苦痛でしか無かった生活に明るい光が灯ったかのような、そんな錯覚をしてしまうくらいに満ち足りた毎日を送っていた。


「ねぇ、あなた・・・私、妊娠したみたい。」


 ゆかりの言葉を聞き、俺は驚きとともに喜びの気持ちが湧いてきた。今や彼女は俺にとって無くてはならない女性になっていたからだ。


「そうか、いや・・・今更だけれど考えていたことがあるんだ。聞いてくれよ。」

「はい。」

「ゆかり・・・結婚してくれ。」

「・・・はい、あなた。」


 とても順調だと思った。腐っていた心はゆかりと生活することで癒やされていき、俺は一つの幸せを得た。そう思っていたからだった。

 準備をしておいた指輪を彼女の左薬指にはめ、俺達はお互いの愛を確かめあった。



 しかし・・・次の日。

 ゆかりはいなくなった。

 テーブルの上には一枚の書き置きと昨日渡したはずの指輪が置かれていた。



 この1年の間、とても楽しく生活をさせてもらいました。

 でも、それももうおしまい。あなたのお人好しっぷりには本当に愛を感じたわ。でも、それも全てはおしまい。あなたは私の話を信じていたようだけれど、全部ウソよ。

 結婚詐欺師なのは私。妊娠しただなんて話もウソ。あなたの気持ちを再確認したかっただけ。だいたい、そんなヘマをするはずがないじゃない。

 ここまで簡単な詐欺は初めてよ。工場の金庫の鍵を手に入れるまでって思っていたのに、1年もここにいることになるなんてね。自分の立場を忘れて本気になりそうな時もあったのは確かよ。意外だったけれどね。でも、私は目的を思い出したの。

 それじゃ、二度と会うことはないお人好しさん。

 さようなら。




 俺には手紙の意味がわからなかった。

 そして、工場から飛んできた社員の言葉を聞いて現実を理解した。金庫に保管されていた工場の金がごっそりと消えていたのだ。その額は一千万円弱。当然すぐに被害届を警察に出し、そして、俺はあっさりとクビになった。クビで済んだだけマシだったとも言えるが。

 あぁ、そうそう。俺の預金通帳からもほとんどの金が消えていたよ。残されていた数万円はゆかりの最後の優しさだったのかもしれない。



 そして今、俺は残された金を握りしめて札幌にいた。

 無職で住所不定の俺に仕事などを斡旋してくれる奴はいない。安ホテルに宿泊しハローワークに通い詰めてみるものの良い感触は得られない。しかし金だけは確実に減っていく。金が尽きそうになった時、俺はたった一つ残された小さなカバンを持って初雪がちらつきそうな寒空の中一人歩いていた。もう温かい寝床など期待できない身分に成り下がっていたから、なんの文句も言えない。

 繁華街をうろつき、日銭を稼ぐ方法を探すも世の中は思っていた以上に景気が良くない。あっという間に浮浪者となってしまった。


*****************************************


 俺は一体どのくらい期間、無為な生活をしていたのだろう。毎日のように聞こえてくる街角のクリスマスソングが鬱陶しいとも思わなくなってきていた。

 ある日の早朝。その時間は一日で最も寒くなる時間帯。繁華街近くの暖かい空気が出てくる場所で眠っていた時に声が聞こえた。


「なにしてんの、こんなところで。」


 若い女の声だった。俺みたいな人生が終わった人間に声をかけてくるようなやつがいると思わなかったから無視を決め込んだ。


「ちょっと、無視してんじゃないわよ。」

「・・・俺に言ってるのか?」


 寝転がったまま言葉を返した。


「決まってんじゃん。あんた、死にたいわけ?」

「そうだな。死んでも構わないのかなとは思ってる。」


 俺は女の顔を見ることもせずに答えた。生きるのも苦痛だった。いっそのこと、死ねるのならどれほど楽だろうと思っていたところだった。


「ふーん・・・見た感じ、浮浪者ってなりだけれどその話し方、ただの阿呆って感じじゃなさそうね。」


 一体何様のつもりだろうと思いながらゆっくりと起き上がり、声をかけてきた女の姿を見た。当たり前のことだが、目の前に立っていた人間は俺が知るはずもない奴だった。


「俺のような人間に話しかけている暇があったら、仕事をしたらどうだ?金のない俺には用なんかないだろう。」


 目の前にいるどこから見ても繁華街が似合う派手な服を着た女を睨みつけるようにしながら憎まれ口を吐いた。


「あれ、私は街娼とかじゃないんだけれど?こう見えてもキャバクラなんぞを経営する社長さんなんですけれどね。」


 腕を組みながら笑みを浮かべる女の顔をジッと睨みつける。


「ほう、だったらさっさと自分の世界に戻るんだな。夜の蝶は今の俺には無縁の存在だ。こんな人間に関わるとろくな事にならないぞ。だから、さっさと行けよ。」

「よくもまぁ、それだけの状態でそんなことを言えるわね。まぁ、薄汚れてはいるけれども小奇麗にしたらそれなりに良い見栄えになるんじゃない?あんたさ。」


 俺にはこの女が何を言っているのかわからなかった。


「これ、私の名刺。もし、もう一度人生をやり直したいって思うのなら・・・ここに来なさいな。」


 そう言って俺に現金と10万円を手渡し、女は去っていった。

 名刺には彼女の名前と会社の住所と電話番号と思われるものだけが書かれていた。



 俺は何かを期待していた。

 そう、俺の人生で最後の転機じゃないかって。これ以上悪い状況に転がるなんてことはない。そう考えると気が楽になった。

 この金で遊んでやろうかとも考えたが、あまりに意味のないことだと考え直した。



 そして俺は身なりを整えた後、女が渡してきた名刺にある住所にやってきていた。時刻は夕刻。企業訪問には遅い時間だったが、久しぶりに袖を通したスーツの感触は悪くなかった。

 あの女は自分のことを夜の蝶の社長と言っていたが、目の前にあるビルはどう見ても夜の世界のエリアには見えない。一流企業も名を連ねるオフィスビル。この中にあの女のオフィスがあるようだった。

 ノーアポで会えるとは思っていなかったが、俺には携帯電話だなんて文明の利器を持つ余裕がない身分だ。事前連絡などできるわけもない。受付の女に名刺を見せて『社長に呼ばれている。』の一点張りを通した。

 俺の言葉を半信半疑で聞いていたのは間違いないだろう。表情にも全てそれが現れていたからな。渋々と内線電話で確認を取りつつ、なおも俺の顔を疑いの眼差しで覗き込んでいた女の表情が突然一転して丁寧な対応に変わる。どうやら俺の言葉が真実であると証明されたらしい。俺にとっても驚きではあったが、それは全て包み隠したままニヤリと笑ってみせた。


 いい忘れていたが名刺に書かれた女の名前は『藤原瑞穂ふじわらみずほ』。本名なのか源氏名なのか。それはどうでも良かった。

 ただ、俺にとって最後のチャンスかも知れない。それだけだった。


 17階に到着しエレベータの扉が開くと、例の女が俺を待っていた。


「へぇ・・・私の思っていた通りのいい男じゃない。さ、こっちに来て。」


 今朝とは打って変わってキャリアウーマン風の見た目に変わっていたことに驚きつつも女の後を付いて行った。巨大企業・・・といった感じではないようだが、それなりの人数を抱えた会社ではあるようだ。


「どこに行くんだ?」

「私の部屋よ。あぁ、部屋と言ってもオフィスね。まずはそこで話をしましょう。」


 そう言われて連れて行かれた部屋は、このフロアで少し奥まったところにある殺風景な部屋だった。デスクとパソコン。それから本棚がある。一応の応接セットのようなものもあるが、それとて俺が見慣れていた高級品という感じではなく、一般的な事務用品に見えた。


「つまらない部屋だけれど、そこに座ってくれるかしら。」


 彼女の言葉に従い、俺は応接セットに腰を下ろす。特別座り心地が良いものとも思えなかったが、今の俺には十分すぎるものだった。そして、彼女が語りだすよりも先に俺が言葉を切り出した。


「なぜ、俺に声をかけた?こんな怪しい人間に。」


 そこで語られた話は俺にとっては予測することも出来ない意外な話で、渡りに船というよりも信じられないというしかない内容だった。


 彼女は以前に俺がいた職場の後輩だった。しかし、俺の異動後に彼女の父親が他界し、あとを継ぐものがいなかった会社を彼女が継ぐことになった。彼女の手腕によって業務を拡大中で好評を得ているのはキャバクラ。そして直近の目標はその二号店の出店。ちなみに本業は清掃業ということだから謎が深い。

 そして俺になぜ声をかけたのか。

 彼女は俺が異動する前から俺の存在を知っていたらしい。まぁ、自慢じゃないがそれなりに優秀だったという記憶がある、けれども今となっては過去などはもうどうでもいいことだった。結果としてあの頃の俺の働きが今のこの現状を生み出していると考えると素直に喜べない気持ちもあるのは事実だった。

 少し話が逸れたな。とにかく、彼女は俺のことを調査していたらしい。例の缶詰工場からの引き抜きを検討していた最中に件の事件が発生した。そういうことだったらしい。その後、様々なつてを用いて俺を探し、そして今朝、発見に至ったということだった。

 最後の重要な話。俺がここに呼ばれた理由。今までの経験を生かして右腕として働いて欲しい。そういう話だ。

 魅力的ではあるが怪しい話でもある。だが、今の俺に選択の余地なんてない。

 これ以上にいい話があるだろうか。そう思うしかなかった。


「よろしくお願いいたします、社長。」


 だからこその俺の返事だった。深々と頭を下げ、自分よりも若い女性に頭を下げる。30を少し超えた俺にとっての最後のチャンス。そう考えた。


******************************************


 俺は必死に働いた。

 彼女の期待に答えるためじゃない。

 今までの自分を変えるために働いた。

 その結果の副産物として俺はかなりの金を手に入れることになった。

 何をしたのか?そんなことはここで話すようなことじゃないさ。できることをやっただけだ。

 あのどん底生活から4年の月日が流れていた・・・



 ある日の朝。

 ベットで目を覚ました俺に彼女が声をかけてきた。


「ねぇ・・・結婚しない?」


 瑞穂のいつもの言葉だ。彼女は俺よりも2つ年下で俺は今年で35になる。


「その話は止めておこうよ。朝からするような話じゃないだろう?」

「でも・・・もう4年も一緒にいるのよ?」


 彼女には助けられた。人生を救われたと言っても過言ではない。そして一緒にいると言っても、彼女が押しかけてきたような関係だ。確かに俺も拒まなかったが・・・


「・・・」


 いつものようにタバコを咥え、火をつける。別に美味いとも感じはしない。ただ、会話を打ち切るだけの行為だったに過ぎない。


「いつもそうなのね。あなたの中には何か私にはわからない何かがあるのよ。」


 瑞穂の言葉の意味。俺にはよくわかっていた。

 あぁ、言っておくが俺は瑞穂を・・・社長を抱いたりはしていない。本当のことだ。


「4年って言っても、仕事上の関係での4年だろう?」

「そうね。私が押しかけてきてからは1年。でも、あなたも拒まなかったじゃない。」

「・・・」


 ため息を誤魔化すように煙を吐き出す。


「やっぱり、あの女が忘れられない?」


 あの女。誰のことを言っている?


「『ゆかり』のことは調べたわ。でも、どこにいるのかわからないの。ねぇ、もういいじゃない?あんな詐欺師のことは忘れて、私と一緒に生きてはくれないの?」


 道下ゆかり。あんな奴のことはどうでもいい。いや、正直に言えば金だけは取り返したいと思う。それだけだ。どちらかと言えば俺が引きずっているのは愛理のことだった。

 愛理と連絡を取らなくなって何年くらい経つだろうか。あの子は俺より3つ年下だったから、今は32歳になっているはず。高卒で派遣社員歴三年の彼女は優秀とは言えなかったが、一生懸命な子だった。結婚の約束もしていたのにも関わらず、自らの状況に悲観し、一方的に連絡を取らなくなり、挙げ句、行きずりの女に現を抜かして転落人生を歩んだ。

 かろうじて今を生きていられるのは、今ここにいる瑞穂のおかげではある。だから、瑞穂には感謝している。本当にな。でも、できることならば愛理には己の不甲斐なさをきちんと謝罪をしたいと思っていた。

 ただし、今となっては連絡を取ることすら出来ない相手ではあったが。そもそも、俺は彼女の電話番号も覚えていないのだからな。まったく、メモリーってやつは・・・便利だけれども、こういう時に困るんだ。


「そんなヤツのことはどうでもいいさ。」


 カラスの灰皿に押し付けてタバコの火をもみ消す。


「そうよね。あんな詐欺師、どこかでのたれ死んでいるに決まっているのだから。」

「さてね。憎まれっ子、世にはばかるっていうからな。どこかでよろしくやってるんだろう。まぁ、どちらにしたって今の俺には関係のない話だ。」


 そう口にした俺に瑞穂が後ろから抱きついてくる。


「私を抱いてくれないのは、どうして?怖い?また、騙されるんじゃないかって思っている?」


 その言葉に俺の体は素直に反応した。緊張が俺を支配したという感じだ。瑞穂の言う通りに、俺は女性に対して一種の恐怖心を抱いている。それが数年の間、一度も女を抱いていない直接的な原因でもあった。それに・・・いや、これを言うのは筋違いだ。


「・・・すまないな。」

「かわいそうな水樹みずき。私が癒やしてあげたいのに・・・」


 あぁ、水樹っていうのは俺の名前だ。今更になって名乗ることになるとは思わなかった。ちなみに苗字は木下。地味な苗字だろう?


「俺がこうやって生きていられるのは瑞穂のおかげだ。それだけで・・・十分に救われているんだ。本当に感謝している。だから・・・もういいじゃないか。」

「・・・そうよね。」


 衣擦れの音とともに、俺の体から瑞穂の温もりが消える。

「水樹は・・・何を求めているのかしら。」


 部屋から出ていく瑞穂はそう呟いた。


「俺が求めるもの・・・そんなもの・・・」


 再びタバコに火を着けながら、朝日が漏れてくる窓から外を見た。

 目の前を遮るものがない景色というのは本当に素晴らしい。32階にあるこの部屋の唯一の利点なんだろう。


「もう、求めたって無駄なんだ。平穏な人生なんてものはさ・・・」


 窓を開けてタバコの煙を外に吐き出す。自分のくだらない夢を吐き捨てるかのように。


********************************************


 その日は俺にとっていつもの日常とは少し違っていた。

 今や瑞穂の会社での取締役になった俺。たったの4年という異例の短期間での出世。あまりに出世が早かったのは俺が優秀だったわけじゃない。たまたま俺が手を下したプロジェクトが成功したというだけだ。周囲からの目はどうだったのか。そんなことは俺が言うまでもなく想像することはできるだろう?


「取締役。本日は新たな派遣社員の採用面接になります。」


 秘書まで与えられる身分になった俺の初仕事が今日の面接だった。


「そうか。ありがとう、結城ゆうきくん。」


 秘書の結城絵里奈ゆうきえりなに礼を言って椅子から立ち上がる。


「こちらが今回の履歴書になりますが、ご覧になりますか?」


 手に持っている数枚の紙を手にしながら尋ねてきた。


「そうだな・・・その方がいいかな?」


 軽く笑みを浮かべながら書類の束を受け取ろうと手を伸ばす。


「はい、こちらになります。」


 そう言って手渡された履歴書の束は意外に分厚い。10名分はありそうだった。


「やれやれ、結構いるんだな。」


 一枚ずつ名前を顔を確認していく。


「はい。ここから6名を選抜していただきます。先方へは本日中の決定をして頂きたいとの話を頂いております。」

「10人中6人。しかも今日中か。先方さんも大変なんだな・・・」


 4人目の名前と写真を見たところで俺の手が止まる。


「いかがされました?」

「い、いや・・・」


 4人目の履歴書の名前。確かに宮島愛理みやじまあいりとある。写真はあの頃よりも随分と老けたように見えるが、確かに・・・愛理だった。それにおそらく老けたのは彼女だけではなく、俺も同様だった。あの頃から10年近くの時が流れたんだ。仕方のないことだった。


「あぁ、こちらの女性ですか。派遣社員として複数の企業を経験しているベテランですね。しっかりと仕事をこなす優秀な人材だと先方からも伺っております。ただ・・・年齢的にもそろそろ・・・」


 結城くんの言いたいことはよく分かる。出来る派遣社員というのは正社員の奴らから疎まれる事が多い。しかも、きっちりと仕事をこなしても給料の変わらない派遣社員はそれなりの能力があり部署の数合わせができればいいということも多い。要するに多くのことは求めていないのだ。言い方は悪いが、まぁそういうことだ。


「そ・・・そうか。そうだな・・・」


 俺は動揺していた。まさか、愛理とこんな立場で再会することになるだなんて思ってもいなかったから。こんな偶然があるものなのだろうか。俺は己の運命を呪いながらも、何かが変わることを期待していた。


「では木下取締役、10時から面接となりますのでよろしくお願いいたします。」

「あぁ、わかった。」


 面接時間までは10分ほどある。面接官は俺ともうひとりいたはずだ。さて、誰だったのか・・・



 俺の秘書は本当に優秀だ。

 手渡された履歴書の順に面接が行われたからな。もしかするとこのくらいは当たり前のことは当たり前のことなのかもしれないけれど、俺にとってはありがたいことだった。

 なにせ、4人目が現れるまでに心の準備ができたのだから・・・


「いかがですか?取締役。」


 隣に座っている人事部長が俺に問いかけてきた。彼は俺よりも年上で間もなく60になろうかとしている。評判も上々で優秀な人材だと聞いていた。それだけに、中途採用のような俺が短期間でここまで登ってきたことに多少の反感もあっただろう。人間としては当然のことだ。

 俺が入社した時と比べて会社も急成長した。今や複数の居酒屋をチェーン展開も行い、キャバクラも複数店舗の出店。さらに現在はフレンチレストランの出店までもくろんでいる。そして本業であった清掃業も実に順調だ。年間収益は数十億円に達する。もちろん、俺の手腕のおかげなどと言うつもりはない。その多くに俺自身も関わっていたことは事実だった。だからこそ、古参の人間にとっての俺は鬱陶しい存在だったに違いない。


「そうですね。なかなか優秀な人材が多いのではないかと思われます。」


 笑顔を浮かべながらも心の中では落ち着かない気分になってきていたことは否めない。


「ふむ・・・そうですね。ですが・・・次の子は少し・・・年齢が行き過ぎていますね。優秀とは聞いていますが。」


 当然の判断だと思えた。派遣先の先方から聞いている希望給も他の人間よりも高い。コスパを求めての採用となる派遣社員という状況を鑑みると不採用と判断せざるを得ない。


「えぇ・・・そうなりますかね。でも、話を聞いてみることにしましょう。判断はそれからでも遅くはないですから。」

「そうですね。では、そうしましょう。じゃ、次の方を呼んでもらえるかな?」


 部長は面接室の扉の近くで待機している俺の秘書にそう声をかけた。彼女は無言で頷き、4人目の面接者に声をかけた。

 俺は・・・思わずツバを飲み込んだ。久しぶりに顔を見ることになることからの緊張だったに違いない。


「失礼いたします。」


 愛理が落ち着いた口調で挨拶をし頭を下げた。そして、頭を上げて面接官の俺達の顔を見た時、一瞬だけ驚いたような表情になったことに気がついた。もちろん、部長は気が付かないくらいの表情の変化だったと思う。


「お座りください。」


 部長の表情や口調が全く変わらなかったことも、それを意味しているのだろう。


「はい。失礼いたします。」


 面接そのものに手慣れた感のある愛理に驚きながらも、俺は若かりしときの日々を思い出していた。あの頃には予想することなどできなかった今の自分の状況を思い返しながら。


「では、いくつか質問をさせていただきます。あなたはうちでどのような仕事ができるとお考えですか?」


 部長がテンプレートのような質問を始める。この時点で彼の中では不採用ということなのだろう。優秀な人材であっても所詮は派遣。正規採用ではない以上は多くの仕事は任せられないのは目に見えている。ましてや中途採用を考えるつもりがないのならばなおさらだ。


「はい、私はこれまでに複数の企業で様々な業務に関わってまいりました。ですから、その経験を御社でも活かせると考えております。事務職ならば一通りのことはこなせると考えております。」


 それはそうだろう。今回の面接にやってきた人間は平均22歳。非常に若く、それに対応して希望給も安い人材だった。その中で異質ともいうべき愛理という存在。年齢も若くはない。なぜうちの要望に反した人材が派遣されてきたのかと首を傾げたくなる存在だった。

 このことは俺だけではなく、部長だってそう考えたはずだ。


「なるほど。これまでの経歴を拝見させていただきました。確かに・・・優秀なようですね。」

「ありがとうございます。」


 彼女の派遣履歴。一流企業を渡り歩いてきている。しかし・・・正規採用はなされない。派遣としては異例の勤務期間の長さが目につく。どの企業でも5年近く勤務。この時点で彼女の能力に疑いの余地がない。

 おそらくは有期雇用労働者の無期転換雇用に関する点で引っかかったのだろう。優秀であっても彼女は『高度専門的知識等を有する有期雇用労働者』に該当しない。契約延長、もしくは正社員への登用を申しでた際に却下されたの原因はこれなのだろう。


「しかし・・・我が社で希望しているのは『若くて優秀な人材』です。確かにあなたは優秀なのでしょう。申し訳ありませんが、この面接いかんではかなり厳しい結果になるかもしれません。」


 部長の言葉はあまりにもはっきりしすぎている。つまり、はっきりと不採用だと口にしているのと何も変わらない。しかも、年齢を理由に不採用だと言っているのだ。


「そう・・・ですか・・・」


 愛理の表情が少し曇る。ハラスメントと取られかねない言葉に彼女は何を感じているのだろう。


「では、改めてお聞きします。宮島さん。あなたを雇用するにあたっての我が社へのメリットをお聞かせ願いますか?」


 これもまた酷な質問だ。どうあっても落としたい。その意志しか感じ取れない問いかけだ。形式通りに3問程度の質問をするための前置きなのだろう。比較的良い言葉が聞けた場合は次の質問を。気に入らない回答だった場合は、不採用にする口実を得るための。


「私の経験は御社にとって・・・」

「あぁ、そうですか。あなたの『経験』は確かに素晴らしいですが。しかし、必ずしもそれがうちににとってのメリットではないと思うんですよね。なんというか・・・そう。決められたことをきちっとこなせる人材。それが希望なのですよ。ですからね?私の言いたいことはわかりますか?」


 非情な言葉だ。そう思った。


「はい・・・」


 そう返事をした愛理の拳がギュッと握られた。それと同時に目が伏せられる。


「では、面接は以上になります。」

「一つよろしいですか?」


 部長の宣言の直後、俺は口を開いた。


「もちろんです。どうぞ取締役。」


 俺の意外な言葉に驚いたのか、部長が目を大気く見開いている。まるで、『お前の言いにくいことを代わりに言ってやったのに、どういうつもりだ?』と言いたげに見えた。しかし、これで面接を終わらせるには早すぎる。そう思った。優秀な人間ならば何人いてもいい。これが俺の愛理に対する贖罪だったのか聞かれると・・・素直には答えられない。


「では・・・正社員を目指す気はありますか?」


 俺の言葉に彼女は驚きの表情を浮かべる。部長も顔を少し歪めているのは見るまでもなくわかった。


「・・・もちろんです。」


 短くではあるが愛理ははっきりと口にした。


「そのためには難しい課題がいくつもあります。中途採用の条件は厳しいとわかった上での言葉ですか?」

 おそらくは彼女が何度も挑戦しようといてたどり着けなかったものだろう。だからこそ、彼女の表情にほんの少しだけ揺らぎがあった。自信はない。でも、そうありたい。その思いだけは伝わってきた。


「取締役。今回の面接はあくまで派遣社員の面接ですよ?」


 部長の声は小さく、俺にだけ聞こえるように口にしたものだ。だから俺は軽く頷いてみせた。そしてこう答えた。


「わかっています。彼女の思いを聞きたかっただけです。」


 そして部長はため息を漏らした。


「最大限の努力をいたします。」


 愛理の返事はまたもや短い言葉だった。


「わかりました。本日はご足労頂きありがとうございます。面接は以上になります。」


 俺は部長の横顔を見ながら宣言した。


「ありがとう・・・ございます。」


 俺と愛理の再会は意外すぎる上に短い時間で幕を下ろした。

 こんな出会い方では・・・再び会うことは難しい。俺は雇用者側の人間だ。万が一、俺との関係が公になってしまった場合、彼女にとってはデメリットが大きすぎる。

 彼女が部屋から出て行こうとしている間、俺は彼女の懐かしい姿をただじっと見て瞳に焼き付けることしかできなかった。


「取締役、まさか、彼女を採用するつもりなのですか?」

「さて・・・どうでしょうか。ただ、彼女の経験。それは無下にはできないと思っただけです。」


 俺は努めて冷静に答えたつもりだった。


「彼女の職歴には取締役がかつてお勤めだった企業の名もありましたね。それが理由・・・などということでないことを信じたいところですが?」


 さすがに人事部長というところだ。よくわかっていると言いたい。


「彼女の職歴をみると確かにそうなっていますね。ですが、やはり、経験というのは何物にも代えられない部分はあると思うのです。私もいろいろな経験をしてきましたのでね。」


 うまく誤魔化せたのかはわからない。彼にだって俺のいう『経験』が多く蓄積された人間なのだから。


「確かに。その点は評価できますね。」


 何度か口の中で『なるほど』と言っていたように見えた。俺の言葉は正論ではあると思うが・・・果たしてこの場にふさわしい言葉だったのか。自分に問い返してみるものの答えは返ってこなかった。


******************************************


「今日の面接、どうだった?」


 瑞穂が食事中に尋ねてきた。

 ここは社内にある食堂。幹部クラスの人間も利用することはあるが、社長がやってくると緊張が広がっていくのは無理も無いことだった。


「特には何も。正社員の面接ではないですから。」


 俺は瑞穂にそう答えた。ここは社内。あくまでも社長と取締役の会話だ。


「そう?なんだか色々とあったような話を聞いているけれども?」


 意地の悪い笑みを浮かべているのは、人事部長からの話があったからに違いない。あの部長はバリバリの社長派閥。俺の椅子もその派閥内にあるのだろうけれども、自分の良しと思うように行動するタイプだ。社長と意見を対立させることも多々あった。


「・・・経験は大事。そういう話をしただけです。」

「そうね。経験は大事よ。あなたがそうであるようにね。」


 そう言いながら目を細める。派遣社員の採用権、最終的な裁量は彼女にある。彼女の判断に全て委ねるしかない。


「俺のことは・・・」

「ねぇ。今夜、久しぶりに飲みに行かない?うちの系列店でいいから。」


 彼女とは予てからと変わらず互いに体を重ねるような間柄ではない。そういう関係ではないが、この申し出を断る様な関係でもない。


「承知しました。」

「もう、そんな口調。イヤだわ。」


 そう言いながら笑みを浮かべ、一枚の紙を俺の前において立ち去っていった。

『いつもの店。21時。』

 そう書かれた紙を苦笑いを浮かべながら手に取り、ため息を漏らした。


「さて・・・仕事に戻るか。」


 俺は独り言を口にし、席を立った。胸ポケットに入っているタバコの存在を確認しながら。


******************************************


 なんとなくイヤな予感はしていたんだ。予感なんて信じているわけじゃない。ただ、今日は瑞穂と浮浪者だった俺が出会ってちょうど4年目。雪がちらつく寒い夜だった。あの日もこんな感じだったのかもしれない。


「私たちの出会いに乾杯。」


 瑞穂の第一声が俺を余計に不安にさせた。


「俺達の出会いに?」


 乾杯をしながら軽く笑みを浮かべた。俺たちのグラスは軽くふれあい、いい音を鳴らした。ここはうちが経営している少しオシャレな感じのバー。彼女はこの店がお気に入りで、プライベートのときは大抵ここの店で飲んでいた。俺も何度か彼女とここに来たことがあったが、いつも帰りは別々だった。もちろん、今日もそのつもりだった。


「水樹がうちに入ってくれてから業績は右肩上がり。あなたの手がけた仕事が大当たりばかりだったからよ。」


 嬉しそうな笑みを浮かべながらそう言った彼女は、社長としての顔だった。


「それはたまたまだよ。君の計画がうまく進んだだけさ。俺は忠実な犬のように働いてきただけさ。」

「そんなことないわよ。あなたがいてくれたおかげ。時には厳しく叱責してくれたじゃない。私にそんなことをしてくれるのはあなただけよ。」


 それはそうかもしれない。立場をわきまえること無く彼女に意見したことは多々あった。イエスマンだけの職場に未来はないのだが・・・それにしても俺はやりすぎなところがあったところを認めている。中途採用の新人が社長に意見。まさに滑稽だ。


「ふぅ・・・そういう事もあったな。」

「そうよ。出来ることならこの先もずっとそういう関係でいたいの。仕事でもそれ以外でも。」


 そう言って彼女は俺の肩に額を載せてくる。


「よしてくれよ。」

「どうして?」

「今までと同じでいいじゃないか?」


 目の前にはグラスに注がれたウイスキーがある。俺はあまり酒が強い方ではないからゆっくりと飲むのが好きなのだが、瑞穂はまるでザルなのではないかと思うくらいの勢いで酒を煽る。しかし、実際には酒に弱くすぐに潰れてしまう。今日もそうなることを期待していた。そうなってくれたら・・・この不思議な関係も終わり、愚痴を聞かずに済むのだから。


「よくない。私はもう、30を超えちゃったの。このままじゃ・・・一生独身ってことになっちゃうじゃない。」


 そんなことはないだろう。金も持っている上に結構な美人なんだから。いろいろな意味で引く手あまたというところだろう。


「・・・男を選びすぎるからさ。俺なんかを口説いている時間があったら他の男を探したらいいんじゃないのか?」


 俺の言葉を聞いて俺の肩から瑞穂の額が離れる。


「だって・・・仕方がないじゃない。水樹に惚れちゃったんだから。」


 瑞穂は今まではそのことをはっきりと口にしてきたことはなかった。薄々わかってはいたが・・・ここまではっきりと言われても何も感じない自分に多少の恐怖すら覚える。


「あはは、冗談はやめてくれよ。」


 軽く躱してみようとして軽口をたたいでみたんだが・・・


「冗談じゃないんだよ。惚れてもいない相手とサシでお酒を飲むほど安い女じゃないつもりよ。」


 真剣な表情だった。仕事中にも見たことがないほどに真剣な目つきで俺の顔を見ていた。


「・・・」


 なんて答えたら良いんだ。お互いにガキじゃない。いい年をした大人の二人だ。簡単に『はい、そうですか。』と言えるわけじゃない。だからといって、適当に煙に巻くことすら出来るような関係でもない。

 どう、答えたら良いんだ・・・


「ねぇ、冗談だろって片付けないでよ。私、これでもずっと水樹を見てきたんだから。新入社員として入社した時から。水樹は覚えていないかもしれないけれど。だからね。あの日、落ちぶれた水樹に会ったのは偶然なんかじゃないの。」

「な・・・なんだって?」


 驚きのあまりに少し大きめの声を上げて立ち上がってしまう。


「ほら、水樹。他のお客さんの迷惑になるから。座って座って、ね?」

「あ、あぁ・・・」


 意外すぎる言葉の連発に声も出ない。

 以前の職場で彼女が後輩であったという話は聞いていた。けれども、俺と瑞穂はあの日以前に出会っていただって?確かに俺が本社にいた期間と彼女の勤務期間は多少の被理があることは事実だ。けれども、いつだ?俺はいつ彼女と出会った?

 ゆっくりと腰を下ろしながらもひたすらに考える。しかし、答えはわからない。


「やっぱり、覚えていないんだよね。」


 ほんの少しだけ切なそうな瞳を俺に向けてくるが、今の俺はそれを気にしているほどの心に余裕はなかった。


「いつ・・・」

「新人研修の時。私は落ちこぼれだったから。何でもできて、優しくいろいろなことを教えてくれた水樹に勝手に憧れてた。」


 新人研修?確かに一度だけ指導係として先輩たちに同行したことがあったのは覚えている。しかし、あの時に瑞穂がいただって?


「私はね、配属先の希望も水樹のいる営業部に出したの。でも、やっぱり落ちこぼれだった私の希望なんて通るわけがないよね。事務職に回されちゃった。ううん、それについては良いの。私の適性は事務職にあったと思うから。今でも営業は苦手だしね。」


「そんな・・・ことが・・・」


 必死に思い出そうとしてみても瑞穂に出会ったことを思い出せない。あの時はなんでも仕事だと割り切っていた。感情なんてものを仕事に持ち込んだことはない。だからだろうか。研修中に落ちこぼれを出さないためと思っての俺の行為がいつの間にか彼女にとって好意だと勘違いをさせてしまう原因となった。


「わかってる。私の一方的な気持ちだったってことはわかってた。でもね、ずっと見てた。ストーカーだなんて言わないでね?本当に見ていただけだったんだから。水樹が栄転で北海道に行ったときも、それから・・・」

「あの件も知ってるってことか?」


 俺の問に瑞穂は無言で頷いた。


「そっか・・・」

「あ、安心してよ。水樹が出向処分になったあとだけれどね、内部告発があってアイツは背任の罪に問われてるから・・・って、もう、今更な話だよね。」


 瑞穂は乾いたような笑い声を上げて、そして突然笑うのを止めた。


「こんな話、するべきじゃなかった。絶対にしないって決めてたんだ。でも、私、知っていたから。水樹の彼女のこと。」


 驚きのあまりに声が出ない。それほどまでに俺のことを調べ上げていたとは・・・はっきり言って考えたこともなかった。


「宮島愛理さん。私よりも一つだけ年下の子。当時の水樹の彼女よね。」

「なんで知ってる?」


 驚きを超え、恐怖を感じ始める。『この女、一体どこまで俺のことを知っているんだ?』という疑問だけが頭の中に浮かんでくる。


「有名だったのよ。若手有望株の社員が派遣社員といい関係だって。社内の女子たちはスキあらば未来のある良い男漁りっていうのが定石でしょう?って・・・そうね、うん、嘘よ。私が勝手に聞きまわったの。色々なコネとかを使ってね。そしてやっとたくさんのことがわかった時に水樹は栄転。私は取り残された。でも、いつかは本社に帰ってくるはず。それを期待して・・・」


「無駄になったな。」


 心拍が上がってきているのを必死に堪える。いつも通りに冷静に。努力してみてもうまくは行かない。酒を飲んだせいもあって呼吸が早くなってくるのが実感できる。


「無駄・・・じゃなかったわ。だって、水樹は今、ここにいるんだもの。」


 明らかな恐怖を感じる。俺は・・・この女の手の平の上で踊らされていたのか?命の恩人という、最も重たい恩を押し付けることによって逃げることのできない枷をはめられてしまったのではないのか。


「そして、あの人を面接に呼んだのは私。派遣会社に指名したの。『宮島愛理』をね。そうして、現実を突きつけてやるつもりだった。水樹は知らないでしょうけれど、あの人もあなたのことを探していたのよ。ただね。人探しに使える金額が私とは雲泥の差だったってことね。その差がこの結果なのよ。あの人は水樹が私の会社で働いていることだけを知っていた。でも、まさか水樹が面接官だなんて思ってはいなかったでしょうね。だって、面接官を指名したのも私。そして、誰がどんな決定を下したとしてもあの人を採用することは私の一存で決定済み。そうして、私と水樹の関係をあの人に見せつけて・・・絶望させよう。そう思ったの・・・だけれどね・・・」


 恐ろしい話を一気にまくしたてたところで、深い溜め息を漏らした瑞穂。一方の俺は、目をそらしながらタバコに火を着けようとした。震える手のせいでうまく行かなかったが、何度も試みてやっと火をつけることができた。だからといって味など何も感じやしない。ただのクソのように煙たいモノが口の中に広がっただけだ。


「いまでも・・・あの人のことを?」


 瑞穂の言葉に俺はゆっくりと首を振る。


「それは・・・ないな。ただ、謝りたかった。不甲斐なかった俺を許して欲しかった。」


 そう、それはただの俺の自己満足。そういう意味ではマスターベーションと何ら変わらない行為のはずだったんだ。しかし、今までの話が本当だとするのならば・・・


「あの人の連絡先、覚えているんでしょう?」


 瑞穂の言葉にギョッとした。確かに覚えてはいる。しかし、それがどういうことを意味するのかがわからないほど俺もガキじゃない。公私混同はしないと誓を建てている。過去の過ちを繰り返さないために。


「いいわ・・・好きにしたら。でもね、覚えておいて。水樹を救ったのは私なのよ。あなたは私からは離れられないの。何があってもね。だって、こんな生活は手放したくはないでしょう?それに、あの人にはもう、水樹への思いなんてないと思うわよ。」


 重たい真実だった。

 俺は無言で席を立ち、自分の支払いだけをして店を出た。

 ちらついていた雪は雨に変わっていた。


*******************************************


 どこをどう歩いたのか。

 気がついた時には見慣れない景色の場所までやってきていた。とは言え、所詮は徒歩での移動範囲。自分の居場所はおおよその検討くらいはついていた。

 そして、雨を降らせている空を睨みつけた。

 携帯を取り出し、記憶した番号をプッシュしていく。何を考えていたのか、俺は愛理の連絡先に電話をかけていた。いくらなんでも非常識な時間帯。時計の針は既に23時を回っている。メモリ登録されていない携帯電話の着信など無視されるのが関の山だということはわかっていた。

 20回目のコールを最後に・・・俺は電話を切った。

 そう、そもそも繋がるはずがなかったんだ。



「水樹・・・やっぱり、あの人のことを愛しているのね?」


 雨宿りをするために銀行の入口付近に腰を掛けていた俺に声をかけてきたのは瑞穂だった。


「どうしてここが?」

「あなたの携帯、私が渡したものよね。GPSでの位置検索ができるわ。そして、あの履歴書に書かれていたあの人の番号はコレ。」


 瑞穂はそう言って見慣れないスマホをポケットから取り出した。


「そんな・・・」

「嘘だと思うのなら掛けてご覧なさいよ。この電話がなるわ。」


 瑞穂は無駄な嘘はつかない女だ。また・・・俺は瑞穂にしてやられたのだろう。ただ、不思議と怒りは湧いてこなかった。


「そうか・・・わかった。もう、終わりにしよう。」

「ダメよ。あなたは私と生きるの。絶対に離さないから。私はあなたを愛しているの。絶対に離さないんだから。」


 目の前に立っている瑞穂の表情を見て目を丸くした。それは明らかに異常とも思える表情だった。口を横に大きく広げながら目を見開き笑っているのだ。


「止めてくれ・・・もう、俺に関わらないでくれよ・・・」

「関わるな?ならどうするの?仕事もやめる?また、あの頃の一文無しに戻る?そんな勇気、ないでしょう?ね?だから・・・私の側にいなさいよ。絶対に幸せにしてあげるから。」


 幸せ・・・それは一体なんなのだろう。

 金持ちになること?

 飯を腹いっぱいに食うこと?

 もう・・・わからない・・・


「もう、いい。止めてくれよ・・・俺はお前のことが恐ろしい。どういうつもりなのかさっぱりわからないんだ。」

 俺は両手で頭を抱えながら大声で彼女に問いかけた。

 すると、彼女はうす気味の悪い笑い声を上げた。


「くくく・・・そうね、いいわ。この際だものね、全てを教えてあげる。あのゆかりって女。あれも私の差し金。宮島愛理と破局させて骨抜きにする。そして会社の金を奪ってゆかりには姿を消させる。これは全て私の計画。ゆかりは優秀なコマだったわ。まぁ、予定よりも時間がかかっていたけれどね。どうやら本当にあなたに惚れていたようだったわ。でも、それじゃ私のコマとして役に立たないじゃない?だから、あの子には世界から消えてもらった。水樹の心に大きな傷跡が残るようにね。そう言えばあの子の本名は何だったかしらね。うちのキャバクラに入ってきた役者志望の子ってことしか覚えてないけれど。」


 恐ろしいことを平然と口にしている彼女は、もはや正気とは思えなかった。そして・・・この期に及んでも信じたくはなかった。


「でも、それもこれも全ては愛する水樹のためだったの。あなたのことを思ってのことなのよ?あなたはあんなところで終わるような人間じゃなかったの。そのことはあなた自身が証明してくれたわよね?ねぇ、だから、わかるでしょう?私はあなたをどん底から救い出して、今の地位を与えたわ?それに何の不満があるの?一生私と一緒にいれば。何も困ることはないのよ?そんな生活、誰もが憧れるでしょう?働かなくても暖かい場所で寝られて、ご飯も食べられて、好きなものが買えて。そうでしょうっ!水樹っ。」


 限界だった・・・俺は。そして・・・恐らくは彼女も・・・


「俺はお前のおもちゃじゃないっ!」

「そうよ。水樹はおもちゃなんかじゃない。私の所有物なの。」


 ダメだ。もう・・・壊れてしまっているんだ。彼女も、そして俺も。どうするのが最善なのか、考えるまでもなくわかっていたんだ。

 無料ただほど高いものはない。

 知っていたはずだった。甘い言葉につられてここまで来てしまった俺が悪かったんだ。そして、環境のせいにして愛理を捨てた俺への報いなんだ。


「私の所有物でいなさいよ。もし、私を拒絶するのなら・・・」


 瑞穂の言葉に耳を貸すだけの余裕は俺にはなかった。


「無理だよ、瑞穂。もう・・・やめてくれ・・・」

「そう・・・わかったわ。」


 その言葉と同時に腹部に激痛が走る。


「う・・・な、なんだって・・・」


 膝がガクガクと震えだし、その場にしゃがみ込む。どくどくと熱く脈打つ腹部に手を触れると雨ではないなにかで濡れていることがわかった。恐る恐る目を向けると地面には真っ赤な血が広がっていた。


「み・・・みず・・・ほ?」

「私の思い通りにならないくらいなら、無くなってしまえば良いんだっ!」


 再び激痛が走る。今度は右肩に。そして次は背中。腕、再び背中・・・何度も何度も痛みが襲いかかってくる。


『やめてくれ・・・』


 声を出したつもりだったが、ヒューヒューと訳のわからない音が出るだけだった。


「さようなら・・・私のものにならなかった水樹。愛していたのよ。」


 その言葉を俺が聞き終わる前に、再び熱い何かが体の中に入り込んできたのだが、もう痛みは感じない・・・

 ただ、胸に深々と刺さっているナイフの柄が見える。

 そして、唇に何かが触れるのを感じた。よく知っている香水の匂いが間近で感じられる。



 あぁ・・・これが走馬灯っていうやつか。

 今までの出来事が全部思い出せるな・・・

 後悔はしないさ・・・

 だって・・・あぁ、全て俺の自業自得なんだから・・・アイツは悪くないだろう?


 自由に動かない震える左手でポケットからタバコを取り出して口に咥える。

『なんだよ・・・しけってるじゃ・・・ねぇ・・・』

 己の血で真っ赤になったタバコが口から転がり落ちた。



 翌日、一人の男の死体が発見された。発見者は皮肉にも付近を拠点にしていた浮浪者だった。死因は複数箇所を刺されたことによる失血死。しかし、男の顔には笑みが浮かんでいたという・・・


 この事件の目撃者はなく、防犯カメラには被害者以外の人間が写っていなかったとされている。だが、ここで描かれていた内容が真実であり、事実である。そして、犯人は未だ逮捕されてはいない・・・


 公表されてはいない事実として、残された映像には不審点があったとされる。

 男の死亡推定時刻付近の映像だけがないこと。

 死亡している男性に女性が近づき、すぐに姿が消えた。


 その女性がかつて結婚詐欺師として全国に指名手配された女に似ていた・・・というのは出来すぎた話かもしれない。


 そして、事件から5日後。

 男が生前に努めていた会社の社長が喪主となり、葬儀が営まれた。


 涙ながらに犯人逮捕を訴えた社長の姿に同情し、涙した人間が多かったという。

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[良い点] とてもスムーズに読み進んでいくことができました。 [気になる点] 最後がちょっと、私としては残念でした。 [一言] 宮島愛理への愛がすでにないのだったら、彼女へは正社員の道を、自らは社長と…
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