【第二話 ~沖弓~】6
野上先輩を襲った事故については、学校中の生徒たちがその一件に関しての投稿をしていたのですぐに概要を把握することができた。
野球部では午後三時十五分ごろから、内野ゴロの捕球と送球の練習を行なっていた。野上主将はエース投手だ。野上先輩が投げたボールを打席に立ったバッターが内野ゴロで打ち返し、それを内野手が捕球、一塁へ放る。修学院大附高の野球部は「守備」の試合で結果を残してきており、野上先輩を中心として、捕球送球ともにレベルの高い部員が多かった。そのため、正確に球を処理することは当たり前に、練習ではスピードに磨きをかけていたという。途中からは併殺狙いを想定し、二塁、一塁の順に送球するトレーニングに切り替えていた。
その練習の中で、一塁手がマウンドへ戻すときに投げたボールを野上先輩が取り損ねた。
野上先輩がばさりと倒れ、行き場を失った白いボールは宙を舞う。ピッチャーは立ち上がらない。部員やマネージャーが駆け寄り、状況を確認した誰かが救急車を要請する。グラウンドで練習をしていた他の部活も、何事かとにわかに騒めく。初戦間近の野球部にただならぬ予感が走る。
部員の一人が書き込んでいた内容によると、野上先輩は顔を覆いながら「すまん、すまん」と繰り返し謝っていたらしい。
全く部外者の沖弓にとってみても、控えめに言って、ショックの強い出来事だった。当初の目的を忘れて、しばらく野球部の事故関連の投稿を読み漁ってしまった。意外とまだ多くの生徒が学校に残っているらしく、投稿をスクロールしているあいだにも新しい書き込みが上がってくる。
改めて「リリー」の即時性を思い知らされるかたちになった。事故が起きてから正味一時間足らずで、すでに膨大な書き込みの量だった。「リリー」上で駆け巡った情報は中学や大学へも届いているらしく、すでに大学の野球チームからもコメントが出されていた。
そして、そこに学校がなんら関わっていないことに、沖弓は妙な気持ちの高ぶりを感じたのである。
権力の統治が及ばない世界で、情報が縦横無尽に行き交っている。情報を取得した個人は、各々のリテラシーのもとそれを解釈し、多少の編集を加えて再発信している。そしてまた別の誰かがそれを吸収し、解釈する。
まるで強力な独裁者が支配している国家の中で密かに改革の機会を狙っている反乱軍、もしくは民族として一致団結し独立を狙っている自治区のようだ。
〈彼は「リリー」に背いてしまったのかもしれない〉
そろそろ読み漁るのを止そうと思ったそのときだった。十数文字の文章が目に飛び込んだ。
その文章は、野上先輩の容態を案じる書き込みの中に紛れていた。ひっそりと紛れて、「リリー」上の誰からも相手にされず、しかしその十数文字はそこに存在した。
一見して不可解だし、場違いだし、見る者によっては不愉快で不謹慎だと、沖弓は思った。
しかしそれ以上に、その書き込みが意味するところを知りたいという好奇心が迫り出してきた。数秒間、その文字面を見つめてしまった。
投稿者は――
〈漆崎裕太〉
〈普通学科三年〉
所属は三年五組になっていたが、部活や同好会の欄には入力がない。コミュニティの所属情報も、クラスのみ。
過去の書き込みを遡ってみた。文章のみの投稿ばかりで、写真や動画は一切ない。更新は月に一回ほどあるかどうかで、頻繁ではない。特定の人間に言及しているものもなく、自分語りがほとんどだ。
そんな有様だから、当然リアクションもなく、拡散もされていない。彼の投稿が目に入ったとしても、多くの生徒は気味悪がってすぐに通り過ぎてしまうだろう。
沖弓はパソコンでノートアプリを立ち上げ、その名前、クラス、を打ち込み、いくつか気になった文章をペーストした。あとでスマートフォンからでもアクセスできる。
新規ノートのタイトルは――そう、「リリーの謎に迫るpart1」としておこう。
漆崎――先輩。
どうやら少し偏屈なタイプのようだが、我がメディア研究会のメンバーとはいい勝負だろう。
彼が調査の突破口になり得るかもしれない。
外が夕陽に染まり始めた頃、沖弓は喫茶店を後にし、家路についた。
自宅のある宮前平へ帰るには、一度渋谷駅に出てから田園都市線へ乗り換えなければならない。四、五十分、時間のかかる道のりだった。高校生の登下校時間としては、いささか馬鹿げていると、自分でも思っていた。
宮前平駅に着いた頃には、すっかり辺りは暗くなってしまっていた。夜の七時を回っている。他の乗客と一緒に駅から吐き出され、沖弓は歩く。
〈あのときグラウンドに行ってみれば、もっと詳しいことがわかったかもしれないのに〉
ピンクのワンピースを着た女の子は、口をとんがらせている。
「そんな野次馬みたいなこと、しない。『リリー』で十分いろいろなことがわかった。そうでしょ? それにもう子供じゃないんだから」
〈ふん〉女の子は短く返事をした。
「不満なの?」
〈別に。桃がいいならいいもん〉
「そう」
沖弓は振り切るようにして、ぐいぐい歩いていく。
女の子はそのまま夜の闇に遠のいていった。