初彼氏
「今すぐ別れるに一票」
向かいの席に座る親友からの辛らつな一言に私は口を噤んだ。
平日昼間のカフェは混雑しているわけではないが、閑散ともしていない。皆、それぞれのおしゃべりに興じている。
リクが中学生だと判明した次の日、私は親友のうーちゃんを呼び出して、リクとのことを相談した。で、今までの経緯を話してうーちゃんが下した結論がこれだった。
「……やっぱりダメかな」
「ダメだと思ったから、私のこと呼び出したんでしょ」
う……鋭い。
うーちゃんは右手を差し出して言った。何だろう。頭の中が疑問符でいっぱいになる。うーちゃんはそれに気づいたのか、ほらと言って催促してきた。
「さっさとケータイ出して。今すぐ別れるってメールを打つ」
「……リク、ケータイ持ってない」
「は?今までどうやって会ってたの?」
「……えっと、会うたびに次の待ち合わせしてた」
うーちゃんが呆れたように盛大な溜め息を吐き出した。「あんたのことだから、どうせ次も会う約束しちゃったんでしょ」
本当に鋭い。私は小さくなって頷いた。
口をつけていたカップをカチャリと置くと、うーちゃんはすごく真面目な顔をして言った。
「その次の約束、行くの止めなよ」
「え、でも……」
「栞さ、そこで別れ話できる?」
できないでしょ。と、うーちゃんの目が言っていた。正直言うと、できないと私自身も思う。だってリクの顔を見ちゃったら、そんなこと言えるはずがない。
「大学生と中学生じゃ絶対釣り合わないって。その彼にはかわいそうだけどさ、連絡先も聞いてないんならこのままフェードアウトして、もう会わないのが一番だよ」
反論できる言葉が見つからなかった。十代の六歳差ってすごく大きい。今は浮かれているからいいかもしれない。だけど、きっといつか歪みが生じる。うーちゃんはその時のことを心配してくれているのだ。
私だって友達から同じことを相談されたら、反対すると思う。私はうーちゃんの言葉に小さく頷いた。
その後は、しばらくうーちゃんからのお説教が続いた。そもそもナンパで出会いを見つけようとしたことをダメ出しされた。そして男友達を紹介したのにと責められた。そうか。そういう出会い方もあるのか。
自分が小さい世界しか見ていなかったことを思い知らされた。
翌週末の二時。私は駅前広場にいなかった。自宅のベッドで、何をするでもなくぼんやりとしていた。
時計の針が静かに動く。リクとの待ち合わせ時間からどんどん離れていく。その様子を何もせずに眺めていた。
もうリクと会わない。うーちゃんと約束して、そのとおりにした。だけど気持ちは、まだもやもやとしていた。
うーちゃんの言うことは間違ってないと思う。大学生と中学生がつき合うなんておかしい。そう思うけど、心のどこかで納得していない自分がいるのを感じていた。
だって、目を閉じれば思い浮かぶのはリクのことばかりだから。ゲームが下手くそなこと。子供みたいにムキになったこと。一緒にはしゃいで楽しんでくれたこと。歌がすごく上手なこと。優しく頭を撫でてくれたこと。
―――「もしも私がずーっと来なかったらどうする?」
私ははっとして、起き上がった。急いで着替えて、コートを羽織る。コートのボタンを閉めている時間ももったいなくて、前を開けたまま家を飛び出した。
冬の風が冷たく、全身にぶつかってくる。大学生になってからは全速力で走ることなんてしなくなったから、すぐに息が上がる。冷たい空気が肺に流れ込んできて苦しい。だけど私は足を止めなかった。
―――「待ってるよ」
あの言葉が本当なら、きっと今も……。
駅の時計を見上げると、もう六時になろうとしていた。
いつもの駅前広場に着いて、私は息を吐き出した。呼吸が上手くできなくて咳き込む。真っ暗な空の下、街灯が辺りを照らす。人々が行き交う中を、私は見回した。
時計台を見上げると、六時を過ぎていた。いつもリクが帰る時間。ようやくその理由がわかった。中学生が夜遅くまで出歩いてちゃいけないもんね。
もう帰っちゃったかな。
諦めかけた時、時計台の下のベンチに座る人影が視界に入った。私は乱れた呼吸を静めながら、そっと彼に近づいた。
「リク」
私が呼びかけても、リクは顔を上げてくれなかった。当然だ。きっと怒っている。謝らないと。
口を開きかけた私を制するように、リクが手に持っていた紙袋を私の方へぐいっと差し出した。
「…………迷惑だったら、捨てていいから」
静かな声でそう言うと、リクはその場から駆け出して行ってしまった。慌てて名前を呼んだけど、振り返ってくれなかった。
どうしよう。これで終わりなのかな。
渡された紙袋の中を見る。次の瞬間、私の足は駅舎に向かって走り出していた。
これで終わりになんかしたくない。だって六歳年下だって、中学生だってリクは私が初めて好きになった、初めての彼氏なんだから。
紙袋の中には、ピンクのガーベラの花束とメッセージカードが入っていた。
『しおりへ
遅れちゃったけど、誕生日おめでとう
しおりに初めて会った時、正直言うと驚いたけど、でも一緒にいて楽しかった
中学生ってこと、黙っててごめん
年下だってわかったら、がっかりされると思ってたんだ
しおりにまた会いたかったから
彼氏になってって言われて、すごく嬉しかった
しおりのことまだ知らないことばかりだけど、僕はしおりが大好きです』
駅のホームには電車が到着していた。乗降する人たちの中にリクの姿を見つける。電車の発車を告げるアナウンスが流れる。私は無我夢中でリクの上着を掴んだ。
車両のドアが閉まり、プアーという間の抜けた音と共に電車がゆっくりと走り出す。
息が切れて、顔を上げられない。でも震える手が掴むリクの上着の感触が、彼がそこにいることを教えてくれていた。
「……電車、行っちゃたんだけど」
「ごめんっ!」私は反射的に謝った。それから精いっぱいの言葉を告げる。「でもまだ……次に会う約束してないから」
「今日の約束すっぽかしたくせに?」
リクの声は静かで、だからこそ余計に怒っているように聞こえた。四時間も待たせたのだ。怒らせてしまって当然だ。
私は一つ息を吸い込み、呼吸を落ち着けた。それでもまだ、声が震えそうだ。
「……ごめんね。約束破ったばかりだから信じてもらえないかもしれないけど、聞いてほしい」やっぱり声が震えた。それでも今伝えないと、もう二度と伝えられない。リクに伝わらない。「私今までみたいに……ううん、もっとリクに会いたい。リクが好きなの。……リクの彼女にしてください」
「六歳も下の中学生でいいの?」
「いいよ!中学生でもおじいちゃんでも好きになったのがリクだったんだもん。私はリクがいいの」
断言すると、リクが堪りかねたように吹き出して笑った。「おじいちゃんでもって、守備範囲広すぎでしょ」
指摘されて私は顔が熱くなるのを感じた。でも本当のことだし。でもでも本当におじいちゃんだったら、デートとかってどこに行くんだろう。ゲームセンターとかボウリングはもう行けないかな。
私がどうしようもない想像に頭を悩ませていると、もうすぐ電車が着くとアナウンスが流れた。リクが帰っちゃう。顔を上げると、リクがいたずらっぽく笑って言った。
「明日、二時に駅前広場で待ってるから。また明日ね、しおり」
電車が到着し、今度こそリクは乗り込んでしまった。私も止めなかった。ドアが閉まって、発車する直前に、リクが私を振り返った。
約束、できた。明日リクに会える。
ホームに呆然と立ち尽くす私を避けて、電車から降りた人たちがホームから去っていった。
翌日、私は全速力で駅の階段を駆け上がっていた。すれ違う人たちが、驚いたように道を譲ってくれた。ありがたいけど、それでも遅刻は確定だ。
私のばかばかばか。よりによって昨日の今日で、電車に乗り遅れるなんて。
当然のことながら、駅前広場の時計台の下でリクは不機嫌そうな顔で待っていた。ひたすらに平謝りしたけれど、拗ねたように口を利いてくれない。
「……してくれたら」
「え?」
リクが何か小さく言った。聞き間違いじゃないことを確認したくて、聞き返したら「何でもない」って言って歩き出しちゃった。
何でもないことない。私はリクの腕を引いた。振り返ったリクの頬に、口づけをする。
「これで、許してくれる?」
上目遣いに、恐る恐るリクを見上げる。もちろん恥ずかしくないなんてことなかったけど、リクが許してくれるなら、私の羞恥心なんて気にするほどのものじゃない。
「……しょうがないなぁ」
そう言ってリクは私の手を引いて歩き出した。その耳が赤くなっていることが、ちょっと嬉しい。私は上機嫌になって、リクと繋いだ手をぶらぶらと揺すった。
私の名前は西園寺栞。二十歳になったばかり。
年下の中学生だけど、かっこよくて優しくて、時々かわいい、初めての彼氏ができました。
願わくは、彼が私の最初で最後の彼氏でありますように。