私と先生
屋上なんて、どこかの漫画みたいに開いてるはずもないから、サボるのに一番いいのは保健室。
本当に具合が悪いのが半分、サボりたい気持ちで行くのが半分、そんな感じで保健室に通い詰める私を、保険室の先生は、またか、と受け入れる。
受け入れるから、付け上がるんですよ、とは言わない。
感覚の鈍い指先を押さえたまま、その保健室の扉を三回ノックして、返事を聞くよりも先に開ける。
三回ノックで私だと分かっている先生は、またお前か、と眉を寄せてから、返事を聞いてから開けろ、と言って来るが、今日はそれどころじゃない。
います、って札が掛かってるんだから、いいじゃない、と思ってることは黙っておくけど。
「絆創膏、下さい」
後ろ手で扉を閉めながらそう言えば、先生の視線は私の指に向かって、瞬き。
それも一瞬で、スパァンッ、とデスクを叩いて立ち上がると、救急箱を引っ張り出し、私の腕を掴んで引っ張って、ソファーにぶん投げた。
安っぽい、黒い革張りのソファーは硬い。
その硬いソファーに体が沈み込むことはなく、ギシリ、と大きな音を立てて軋み、私の体もズキリ、と軋む。
生徒にこんなことをしていいのか、なんて言葉を吐き出すよりも早く、先生はソファーの上に倒れ込んでいる私の手見た。
ぽたり、テーブルの上に落ちた赤い液体。
先生は深い溜息と共に、何でそうなったんだよ、と吐き出す。
何でですかね、と思い返すのは放課後の教室。
別段変わったことはしていなかったつもりだ。
授業も帰りのホームルームも終わって、ちょっとトイレに行ってから、図書室に借りていた本を返しに行ったくらいで、その後は、教室に戻ったら、たまたまクラス委員長が仕事という名の雑用をしていたから、何となく手伝っただけ。
それで手伝っているうちに、カッターで指を切ってしまっただけである。
ぱっくりと切り裂かれた、皮膚、肉、肌、皮。
利き手が右なので、当然カッターを持っていたのは右手で、切ったのは左手だ。
左手の指――人差し指の腹がぱっくりと二つに割れていて、割れた部分は血の通っていないような白に変色してしまっていた。
なかなかに深く切ったようで、流れてくる血は止まらずに、先生が傷を見つめる今でもどくどく、ぽたぽた、痛いのか良く分からない。
あまりにも勢い良く、深く傷を付けると感覚が麻痺するらしく、ぼんやりとした思考で、私も傷を見つめる。
切り裂かれた肌の奥が見えて、ぞわり。
新鮮な赤い血の奥には肉が見えていて、赤黒い、動物の生肉を思い出せるような姿を見え隠れさせている。
自分の体だが、見えない部分が見えるのは気持ちが悪いと言うか、なんと言うか。
「痛くないんだけど、気持ち悪いです」
「……押さえとけ」
見た目が、と言うよりも先に、手近なボックスティッシュからざっざっ、と音を立てて何枚ものティッシュを抜き取った先生は、私の指先を包み込むようにして、それを持たせた。
はぁい、間延びした返事をする私を見て、二度目の溜息を吐きながら、救急箱を漁る。
その救急箱は、外などに行く時の出張用ですよね。
じっ、と見つめていれば中から取り出される脱脂綿やら消毒液。
傷洗った?なんて愚問だ。
洗えるわけがないじゃないですか、の言葉に、先生はティッシュと指を押さえる私の手を引き剥がし、ぱっくり割れた傷口に、消毒液のたっぷり含まされた脱脂綿を近付ける。
「先生」
「あ?」
「今時では消毒液なんてめったに使わないんじゃないですか?普通に出してますけど。それ、引っ込めてくれませんかね。だって、それ、元気な細胞ま……痛い痛い!!!!」
元気な細胞まで殺しますよね、と続くはずの言葉は、先生の無情な行動により、私自身の悲鳴でかき消される。
本当に痛い。
消毒液がたっぷり染み込んだ脱脂綿が、ゆっくりと確実に赤く染まっていく。
切った時から感覚が鈍くなっていて、痛みをほとんど感じなかったのに、傷口を抉るように、ごしごしぐりぐり、と消毒をしているから痛い。
痛覚が今更芽生えました、とでも言うように、痛みを訴えてくる。
悲鳴を上げ続ける私に対して、動くんじゃねぇよ、と聖職者にあるまじき喋り方。
がっつり手首を掴んでいるので逃げられない。
消毒液も染みて痛いが、ギリギリと音を立てている手首も痛い、骨が軋んでいる。
「昨日来なかったし、今日も来ないかと思ったわ」
ぐりぐり、いつまで消毒するんだってくらい時間を掛けて傷口をいじめながら、先生が呟いた。
悲鳴を止めて、はい?と首を傾げた私に、先生は「昨日来なかったろ」と一言。
離れていく脱脂綿を見ながら、そうでしたっけねぇ、と惚けた返事を返す私。
そんな私を一瞥してから、傷口に、これまたぐりぐりと力を込めて薬を塗り込む先生。
これ虐待とかそういうのに入らないのかな、痛い痛い、痛いです先生。
元気な細胞を殺され、消毒したはずの傷口に素手で薬を塗り込む先生は、鬼畜ドS性悪だ。
正直に言えば、サボり以外でも私は保健室を利用する。
例えば、図書室はそこそこ利用する方だが、テスト前になるとどうしても図書室が混むので、保健室に居座り勉強をしてみたり、授業で出た宿題が分からなくて、保健室に居座りやりながら教えを乞うてみたり。
どちらにせよどの教科でも教えてもらえるので、何かと頼りにしていたりするのは内緒だ。
そうして授業が気だるくなれば、具合が悪いので、と保健室に駆け込み、本気で具合が悪くても、具合が悪いので、と保健室に駆け込む。
保健室はいつだって快適だ。
冷房も暖房もあるし、氷嚢を冷やすための小さな冷蔵庫もあって飲み物を入れて置けるし、日当たりのいいベッドだってある。
だからこそ、私は保健室の常連であり、毎日のように保健室へ時間の許す限りやって来るサボり魔だ。
昨日は授業を真面目に受けていて、本当の体調不良も起こらずに、昼休みには図書室に本を借りに行っていたため、放課後しか時間がなかった。
当然、昨日も昨日で、放課後は保健室に居座り、宿題を見てもらおうと思っていたのだ。
だから鞄を持って保健室まで訪れたのに、妙な違和感を感じて足を止めた。
保健室の電気が点いていなかったのだ。
留守かな?と首を傾げてみたが、扉には、います、と札が下げられていて、先生の所在を明らかにしていた。
ならば何故電気が点いていないのだろう。
疑問に思いながら、その扉に手をかけようとした時に、微かな声が聞こえた。
当然ながら保健室からである。
音を立てないように隙間だけ開けた扉から保健室を覗き込めば、薄暗い保健室の中に先生と女子生徒。
顔は良く見えなかったが、女子生徒の方は肩を震わせながら先生に抱き着いて嗚咽を漏らしていた。
先生は眉を寄せながら、まるで苦虫を噛み潰したような顔をしながら、女子生徒の背中に緩く手を回していたのを覚えている。
流石に空気読んで帰ったでしょう、空気読まずに突撃していけるほど鋼メンタルじゃないですって、と心の中でボヤいていると、おらよ、と傷を叩かれた。
ズクン、ズキズキ、痛覚が完全に復活したらしく痛い、本当に痛い。
しかしいつの間にか手当が終わったらしく、傷口には絆創膏ではなくガーゼが巻かれ、テープで固定された後、包帯でぐるぐる巻きにされていた。
ちょっと大袈裟じゃないですかね、なんて私が言えば、お前にはこれくらいが丁度いい、と辛辣なお言葉を頂くこととなる。
「うーん、まぁ、アリガトウゴザイマス」
「誠意がないが仕事だからな」
消毒液やらガーゼやらを救急箱に戻しながら、先生は言うけれど、昨日のも仕事のうちだろうか。
パチンパチン、と救急箱を閉めた先生は、立ち上がってそれを棚に戻す。
正面から見ても横から見ても後ろから見ても、先生は先生だった。
短めの黒髪に、ちょっとばかりつり目で、言葉もなかなかにキツいが、話はちゃんと聞いてくれるし、手当だって完璧だ。
何だかんだ面倒見が良くて、何か書いたりする時には眼鏡かけちゃったりして、それがまた似合ってて、他の生徒からの人気も人望もある。
「……モテるのも分かりますわぁ」
ソファーの肘置きに左肘を置いて、はぁ、と漏らせば、振り向いた先生が眉を寄せる。
「お前……」その後に続く言葉は分からないが、私は先程、私の元気な細胞を殺していた時の先生の顔を思い浮かべた。
楽しそうに嫌味なくらいの意地悪そうな笑顔だった。
その笑みを思い出しながら、私は唇を引き上げる。
イメージは三日月みたいなカーブだ。
それを見て、先生の眉は更に寄せられて、眉間に深いシワが刻み込まれる。
「やだぁ、先生ったら。自意識過剰」
クスクス、ケタケタ、私の笑い声が保健室に響いて、先生が目を丸くして、勢い良く頭を叩かれた後に、未だに痛む指を掴み上げられる。
倍返しどころの騒ぎじゃないし、先生は先生で、私は生徒だということを忘れている、絶対に。
「ちょっ、先生。血が滲んでます。ヤバイです」
見てくださいよ、と掴まれていた指を先生の目の前に出せば、舌打ち一つ。
だから、先生は仮にも聖職者なんだからさぁ。
唇を尖らせれば鼻で笑われるから、私も笑い返す。
「昨日はたまたま、来れなかっただけですよ。明日からも毎日来ますもん」
再度取り出された救急箱を挟んで、私が言えば、先生が「サボんなよ」と今更な発言。
先生は先生で保健室の先生。
私は生徒で保健室でサボるのが好きな生徒。
ほら、私達は先生と生徒、これでいいじゃない。
赤黒く汚れたガーゼと包帯を尻目に、私は再度消毒液の洗礼を受けて悲鳴を上げた。