4.藤堂のアシスト
笹倉の執拗な嫌がらせは続く…!
笹倉の容赦ない攻撃により、ストレスがたまる一方の俊作。精神的に追いつめられていくだけである。
しかし、その間も伸子や佐知絵、会田が気遣ってくれているおかげで、なんとかギリギリのところで自我を保つことができている。
中でも佐知絵は、就業時間中はあまり傍目にはわからないが、出退社時などに出会うと少し大袈裟に心配そうな顔をする。
会田「羽村さん、かなりお前のことを心配してたぞ」
初めはたいしてそれを気に留めなかった俊作だったが、会田にそう言われてはどうしても気になってしまっていた。
会田は人の噂話には敏感である。
更に会田はこうも言った。
会田「もしかしたら、彼女、お前に気があるんじゃねぇの?」
俊作は一気に恥ずかしくなった。
俊作「ちょっと、変な冗談やめてくださいよ!」
そう切り返すのが精一杯だった。
しかし、よく思い返してみると、確かに佐知絵は「もしかしたら自分に気があるんじゃないか?」と思えるようなそぶりを見せているといえば見せていた。
仕事の帰りが同じタイミングになると、二人は渋谷駅まで歩いてくる。
二人の分かれ道となる渋谷駅に着くと、佐知絵は、「柴田さんは、もうまっすぐ帰っちゃうんですか?」などと言って、もう少し構ってほしそうな顔をするのだ。
しかもそのようなことが2〜3回あったので、俊作も一度「じゃあ何か食ってく?」と食事に誘おうとしたことがあった。しかしその日は都合が悪いとのことで断られてしまった。
更にいうと、この頃彼女は女性らしさを強調した服装、つまり胸元が大きく開いた服やボディラインがくっきり出るような服を着て来ることが多い。
株式会社マグナムコンピュータの内勤女子社員に服装の規定はないが(外勤女子社員はスーツ着用が義務づけられている)、こうも色っぽい恰好をされては、健全な一男性である俊作も目のやり場に困ってしまう。
そういえば、最近仕事中に佐知絵とよく目が合うようか気がする。まさかとは思うが、会田の言うことも一概に否定することはできない……。
そんな中、俊作の状況が好転しそうな気配が見えてきた。
“顧客取り上げ事件”から2ヶ月経って、ようやく藤堂部長に相談する機会を得たのだ。
得た、というよりは、らしくないミスを連発する俊作を心配して、藤堂の方から二人で話す機会を設けてくれたといった感じだ。
まだ暑さが残る、ある日の夜、宮益坂交差点付近にある小さな居酒屋“ぼんぼん”。
この店は藤堂の行きつけである。女将の人柄と料理に母親の温かさを感じる、というのがいちばんの理由だそうだ。俊作も藤堂に連れられて何度か来たことがある。
カウンター席に着く二人。
藤堂「ほれ、お疲れさん」
ビールで一杯になったグラスを、藤堂は俊作の目の前に差し出した。
俊作「あ、お、お疲れ様です」
緊張気味にグラスを合わせる俊作。
藤堂「何でそんなに固くなってんだよ。昨日今日会った間柄じゃあるまいし」
俊作「すいません、なんか最近、藤堂さんとサシで飲む機会がなかったもんですから…」
先述の通り、以前は仕事帰りに俊作は藤堂と二人で時々この店へ飲みに来ていたのだが、藤堂が昇進してからはそんな機会もめっきり減ったため、俊作にはこの時間が懐かしく、かつ配属当初の緊張感を思い出させるものとなっていた。
藤堂「あぁ、そういやこうしてお前と飲むのは久しぶりだったな。オレも部長になってからは会議がいっぱいあって忙しいしな」
言うと、藤堂はグラスのビールを一気に飲み干した。すかさず俊作が瓶を差し出す。
藤堂「おぉ、すまん。そうだ、何か食い物頼むか? 腹減ってんだろ?」
俊作「はい。おつまみじゃなくて普通にメシ食っちゃってもいいですか?」
藤堂「あぁ、いいよ。そんな遠慮すんなって、オレの前なんだから」
俊作はお言葉に甘え、この店のオススメである水沢うどんを注文した。
群馬県にある水沢観音の近くで生まれ育った女将が作る、自慢の一品だ。俊作もこれが大のお気に入りだった。非常にコシがあって食べ応えも十分な上に、女将の地元で採れた舞茸の天ぷらが入っているのが人気の秘密である。
藤堂「…柴田よ、お前さん最近らしくないミスばっかしてるけど、何かあったのか?」
おいしそうに水沢うどんを啜る俊作に、もういいだろうと藤堂がこの日の本題を切り出した。
俊作の手が止まる。
今噛んでいるうどんをしっかりと飲み込んでから、俊作はこの数カ月にあったことをゆっくりと話し始めた。
藤堂「…そうか、笹倉とそんなことが…」
ことの全てを聞いた藤堂は、カウンターの方を向き、そう言いながらため息を吐いた。
俊作「確かに、白鷺堂の件について言えばオレのミスだと思うんです」
藤堂「まぁ、そうだな。小さいことだけど、最後にもう一度見直しをするのは大切なことだからな」
俊作「はい…。でもそれだけで顧客を取り上げるなんてありえるでしょうか?」
藤堂「いや、それはやり過ぎだろう。過失の度合いにもよるが、この場合まずはお前が誠意を以て信用の回復に努めるべきだと思う」
俊作「実はオレもそう思うんです。だけど、あの課長の下にいると、なんだか自分が間違ってんじゃないかって……」
藤堂「柴田は笹倉に嫌われてるからなぁ。お前の行動や言動が受け入れられないんだろうな」
俊作「どうして嫌われたんだろう……」
藤堂「そればっかりは、オレも笹倉じゃないからわからん。だがこのままだとお前さんがやばい。何とかしないとな」
俊作「…なるでしょうか?」
藤堂「いや、何とかしなくちゃいけないんだよ。営業職ってさ、“ただ数字をあげりゃいい”みたいなところあるだろ?」
俊作は小さく頷く。
藤堂「もちろん数字をあげることは最重要事項だ。でもな、それ以前に、己のモチベーションを上げさせてくれるような職場環境を作らなきゃいけないんだよ。…まぁ、これを言うとキレイ事だとか理想論だなんて批判されるんだけどな」
藤堂は苦笑いをしながら枝豆に手を伸ばした。
俊作「…オレはそんなことないと思いますよ。藤堂さん、法人営業一課にいた頃はいい環境作ってくれてたじゃないですか」
藤堂「まぁ、あれはお前や、他のみんながちゃんとついて来てくれたおかげだよ。だが今はどうだ?」
俊作「今は……」
俊作は言葉に詰まってしまった。
藤堂「オレが見る限り、今の法人営業一課は決していい空気だとはいえんぞ。実際、ここ数ヶ月の課での売り上げも落ちてきてる。いかにモチベーションが大切かがわかるだろ?」
俊作「は、はい…。そうですね」
藤堂の力強い目に、俊作は何も言えなくなっていた。
藤堂の指摘通り、現在の法人営業一課の空気は一人の男によって汚染されているといっても過言ではない。しかも俊作自身はいちばんの被害者である。
藤堂「ちょっと笹倉と話し合ってみるか……」
藤堂が、今度はカウンターの奥を見つめながら独り言のように言った。
翌日、俊作は午後一番に笹倉から呼び出しを受けた。
笹倉「このチクリ魔。おめぇ部長に何を吹き込みやがった?」
いきなり何という切り出し方だろう。
俊作「…何のことですか?」
だいたい察しはついていたが、俊作は念のため何の話かを確認してみた。
笹倉「とぼけやがって。オレに客を取り上げられたからって部長に告げ口するヤツがあるか! おめぇ弱すぎる小学生か! 今朝“白鷺堂の担当を柴田に戻してやれ”って言われたよ」
弱すぎる小学生って、なんてセンスのない例えだろうと俊作は思った。イマイチわかりづらい。そもそも俊作に、笹倉の言動をしっかりと噛み砕いて解釈しようなんてつもりは微塵もないのだが。
しかし藤堂はさっそく行動に移してくれたようだ。彼の、このフットワークが軽いところはいつでも感心させられる。
俊作「…白鷺堂は、ボクにとって初めてのお客様ですからね」
笹倉「あーうるせーな! とにかく、部長に頼んだって無駄だぞ! 絶対客は返さねーからな」
まるでガキ大将のような怒鳴り方だ。小学生はどっちだ、と俊作は言いたくなった。ここまでくると、もう笹倉は意地を張っているようにしか見えない。
さっさと返してくれればいいのに。
やはり、すんなりと返してくれそうにはないようだ。事態は持久戦に持ち込まれそうな雰囲気だった。
しかし、それから半月ほど経ったある日、俊作は再び笹倉に呼び出された。
笹倉「白鷺堂だけどなぁ……あそこの担当をお前に戻すよ。今まですまなかったなぁ」
俊作「…え? ほ、本当ですか?」
笹倉「あぁ。でも今はまだ担当が会田だから、あいつが次に行く時にでも一緒に行って引き継ぎの挨拶をしてこい」
笹倉が、なんだか気色悪く映った。
こんなに優しい口調で話すのは初めてだからである。
俊作にとっては逆に怪し過ぎる光景だ。
今度は何を企んでいるのだろう。
何故ここへきて急激に態度を180度変えたのか。
しかし、ここでヘタに笹倉の胸中を詮索して機嫌を損ねられたりでもしたら白鷺堂の担当返還はご破算になる――そう判断した俊作は、黙って笹倉の指示を受け入れることにした。
とにかく、俊作に大事な顧客が戻ったのだ。