32.「笹倉派」
電車が渋谷に到着した。
この電車は、折り返し東武東上線直通・急行川越市行きになるそうだ。
俊作は、横目でロック・ボトムの連中をチラリと見た。
何食わぬ顔をして電車から降りると、自動販売機でジュースかタバコを買うふりをしながらホームでたむろっていた。
明らかに俊作を待ち伏せる気だ。
一方の俊作はというと、ずっと座席に座ったまま寝たふりをしていた。
他の乗客が降りても、目覚めることなく腕を組んで寝たふりをしている。
そんな俊作の様子をロック・ボトムの連中が監視する中、「間もなく電車が発車します」という構内アナウンスが流れた。
続いて、発車ベルが鳴る。
ロック・ボトムの連中もさすがに焦り出したのか、ジュースを手にしたまま電車に乗り込もうとしてきた。
その瞬間、ぱちっと俊作の目が開いた。
ドアの寸前で思わず立ち止まるロック・ボトムの連中。
慌てて周りを見回し、発車ベルが鳴り終わる頃にようやく状況を飲み込む俊作(実は演技)。
「ようやく電車を降りるか」といった期待が見え見えのロック・ボトムサイド。
素早く地面を蹴り、電車を降りようとする俊作だが間に合わず。これも寸前でドアが閉まり、電車は川越市に向けて出発してしまった。
露骨に悔しがるロック・ボトムの連中を尻目に、電車はぐんぐん加速していく。
――うまくいった。
心の中でほくそ笑む俊作。
マンガ「ルパン三世」の主人公であるルパン三世が、かつて劇中で宿敵の銭形警部に追われた際、マンホールの中へ逃げ込んだことがあった。
銭形警部は直ちに周囲のマンホールを封鎖した。しかし彼は、ルパンが逃げ込んだマンホールだけは封鎖していなかった。ルパンがそのままマンホールの中を突き進んで行くと思っていたからだ。
常に冷静なルパンは、当然それを読んでいたのでマンホールの奥へは進まず、穴のそばでじっと身を潜めていた。
あとは銭形警部がいなくなるのを待つのみ。ルパンは難なく逃げ切ることに成功する。
その際、ルパンはこう言った。
「入口は出口にもなる」
長い前置きだったが、言いたいことは、俊作はこの理論を応用したということである。
例え「袋のネズミ」であっても、状況次第では袋の口が脱出経路になりうるのだ。
しかもこれは急行電車。渋谷を出ると新宿三丁目まで停まらない。
連中が後続の電車に乗って追いかけてきたとしても、新宿三丁目で丸ノ内線か都営新宿線に乗り換えることもできる。
更にいえば、新宿三丁目駅から徒歩で新宿駅へ行くことも可能である。
これだと簡単に追い付くのは不可能だ。
俊作は心の中で「やれやれ」と呟いた。
それからは敵に尾行されることなく、俊作は板橋の探偵事務所に辿り着いた。
純や伸子たちは既に到着していた。
俊作「待たせてすまん」
純「いやいや、こっちも今さっき着いたばかりだよ」
俊作は藤堂に気づくと、慌てて会釈をした。
俊作「藤堂さん、わざわざすいません」
藤堂「いやいや、気にすんなって」
俊作「のぶちゃんと米本も来てくれてありがとな」
米本「これぐらいお安い御用だよ」
伸子「何よ、改まっちゃって。お礼は全て解決してから言ってよ」
俊作「ははは、そうだな」
藤堂「それにしても酷い目に遭ったな。最初聞いた時は信じられなかったよ」
俊作「はい……まさか自分がハメられるとは思いませんでした」
藤堂「オレたちだってそうだ。お前がセクハラなんてやらかすはずないからな」
伸子「あの子、何考えてんのかな。柴ちゃんを悪者にするなんて。何か恨まれるようなことした?」
俊作「まさか。何でそんなことしなきゃいけないのさ」
伸子「そうだよねぇ……」
俊作「逆に聞くけど、周りから見てオレと羽村はどんな風に見えた?」
伸子「少なくてもセクハラをしてる感じじゃなかったよ。羽村さんだって親しそうにしてたし」
藤堂「そうだな。嫌がってるようにはみえなかったもんな」
俊作「やっぱり周りから見てもそうだったのか…」
純「まぁ、彼女の真意は彼女にしかわからないってことだ。オレらが調べを進めた上で問い詰めりゃしゃべってくれるんじゃないの?」
俊作「そうだな。早いとこ本題に移ろうか」
純「待った。もうすぐロッキーが来る。話はそれからにしよう」
それから程なくして創が事務所に到着した。仕事終わりに直行したようだ。
創「わりぃ、遅くなった」
純「おう、お疲れ」
俊作「これで全員揃ったな」
創「あ、俊作、こちらがお前の会社の方々で……?」
創は、様子をうかがうようにしながら俊作に尋ねた。
俊作「あっ、そうそう。先に紹介しとかなきゃな。えーと…オレと同期の高根さんと米本、それから上司の藤堂さんだ」
伸子「高根です。よろしくね」
米本「どうも。つーか何でオレだけ呼び捨てなんだよ」
藤堂「よろしく!」
創「あ、あの、黒木です。大山駅の近くでリサイクルショップやってます。俊作とは長い付き合いで。どうぞよろしくお願いします」
創は、仕事が終わったばかりだからか、無意識に営業スマイルになっていた。
純「うわっ、すげー営業スマイル。こんなロッキー初めて見た」
わざと純が冷やかす。
創「ウソつけ! お前はウチの店ェ手伝ってるからしょっちゅう見てんだろ!」
純「いや、今のは初めてだね」
創「うるせぇ! それよりか話って何だ!」
純「わりぃわりぃ。じゃあ、そろそろ本題に入るか」
俊作「藤堂さん、笹倉について心当たりがあるっていう話でしたよね?」
藤堂「あぁ」
米本「何ですか? その心当たり…って」
藤堂は、自分の中でタイミングをはかっていた。
「心当たり」の内容は重要な話だ。軽々しく話すわけにはいかない。
少し間をおいた後、藤堂は、俊作と伸子、そして米本の顔をさらりと見回した。
藤堂「――なぁ、“笹倉派”って聞いたことあるか?」
俊作「笹倉派……?」
伸子「な、何ですかそれは?」
俊作「“派”っていうことは、何かグループみたいなモノなんですか?」
藤堂「そうだ。いわゆる派閥ってヤツだ」
俊作「派閥……」
米本「その噂なら聞いたことがあります。ここ最近で急に大きくなった一派ですよね」
藤堂「うむ。しかも、そのほとんどは顔が割れていない」
俊作「顔が割れていない…ってことは、誰が笹倉派の構成員だかわからないってことですか?」
藤堂「そういうことだ。だが、社内の情報や社員のプライベートな部分にやたら詳しいらしい」
俊作「厄介だな、そりゃ。見えない所で監視されてるかもしれないわけじゃないですか」
藤堂「そうなんだよ。聞くところによれば、笹倉は笹倉派を使って自分の気に入らない社員のプライベート情報をつかむことで、いざ排除する時のネタにするらしい」
米本「やましいことがあれば、尚更だ」
俊作「なんと卑怯な……あ、待てよ。オレの場合はどうなるんだ? やましいことなんて一つもないぞ」
藤堂「だから、笹倉は事実を“捏造”したんじゃないか? ヤツに味方は大勢いる。どうとでもなるさ」
伸子「でも疑問ですよね。社内の評判があまりよくない人に、どうして派閥なんか作れるんですか?」
藤堂は、一つ咳払いをするとソファーに座ったまま姿勢を直した。
藤堂「……これも噂なんだが、笹倉はコネ入社らしいんだ」
伸子「えっ!?」
俊作「藤堂さん、それホントですか?」
藤堂「あくまでも噂だよ。だけど、社内で結構メチャクチャなことやってもクビにならないところを見ると、その可能性は高い」
創「いや、その噂はどうやらホントみたいですよ」
手帳を片手に、創が話の輪に入ってきた。
俊作「そうなのか?」
創「あぁ。昨日マグナムコンピュータの元人事担当がウチの店に来てな。その人はもう定年退職してんだけどさ、笹倉の採用に関わってたんだって。そしたらよ、“大事な取引先のご子息様なので、十分注意した上で採用にあたるように”って通達が会社の上層部からあったそうだ」
純「なるほど、そんなこと言われちゃ採用せざるを得ないよな」
俊作「だけどよ、どうしてマグナムコンピュータを選んだんだ? 他にも選択肢はあるだろうに」
伸子「他に雇ってくれる会社がなかったとか?」
創「そういう理由もあったんだろうけど、実際その取引先ってのは当時の社長の幼なじみが経営する会社だったらしいんだ」
俊作「なるほど、友達の息子じゃあ就職の世話をしないわけにはいかないからな」
藤堂「しかもヤツの家は大事な取引先だ。ヘタに人事的な処罰を加えて後で文句を言われたら、会社の損失に繋がる」
伸子「だから好き勝手できるのね……」
少しばかり話がそれようとしたところで、俊作が何かに気づく。
俊作「でも藤堂さん、どうしてそんな話をするんです? 今日何かあったんですか?」
藤堂「あ…そういえば柴田にはまだ今日あったことを話してなかったな。すまんすまん」
藤堂は、人事部長宛てに送ったメールの件について話した。
俊作「――なるほど、そういうことでしたか。メールを送る時に笹倉派の誰かに盗み見られたかもしれないっていうんですね?」
藤堂「あぁ。そうでなければ合点がいかない」
純「うーん……可能性がないわけじゃないけど、難しいんじゃないですかね」
藤堂「難しい?」
純「だって、メールを盗み見るってことは、パソコンの画面を見なきゃいけないじゃないですか。画面を見るといっても、一瞬だけパッと見たんじゃあメールの内容はわかりませんよね?」
藤堂「それはわかる。じっと凝視しないといけないよな」
純「はい。でも考えてみてください。藤堂さんの席はどこにありますか?」
藤堂「――!」
純「部長なので、営業部全体が見渡せる窓側に位置してますよね?」
わかりやすく言うと、営業部のフロアが仮にバスケットボールのコートだとしたら、藤堂の席は、ちょうどセンターラインとサイドラインが交わった所にある。
純は続けた。
純「あの位置でパソコンを盗み見するには、かなりリスクが高いんですよ。非常にばれやすい」
藤堂「言われてみれば……。だが、それならどうやってメールのことを知ったんだ」
純「……わかりません。見当がつかないです」
米本「ハッキングでもしない限り不可能だと思いますよ」
――ハッキング?
俊作は、ついさっき聞いてきた話を思い出した。
そう、湊刑事の話だ。
あの時はにわかに信じがたいところはあったが、藤堂の話を聞くと、その可能性も捨てきれなくなってきた。
状況が自分と似ている。
もしかしたら、もしかすると……?
俊作「クラッキングだな。可能性がないわけじゃないぞ」
米本「え……?」
伸子「社内でパソコンの覗き見をしてる人がいるってこと?」
俊作「まぁ可能性の話だけどな」
藤堂「そいつは無理なんじゃないか? 社内ネットワークはシステム部が監視してるはずだ。クラッキングなんかしたらすぐに足がつくぞ」
俊作「クラッキングをするためのソフトウェアを使った…としたら?」
藤堂「な…何だって?」
米本「そんなモノあるのか?」
俊作「まだ未確認だけど、存在はしてるらしい。それを使えば、もしかしたらネットワーク上に足跡を残すことなくクラッキングできるかもしれない」
米本「むぅ……それはちょっと突飛な推論だな」
米本は低く唸った。
純「その情報、どこで仕入れた?」
俊作「湊さんだ」
純「えっ? 湊さんって…あの湊さんか?」
俊作「あぁ。あの湊さんだ」
創「えっ、マジ?」
純「マジかよ!」
俊作「オレもビックリしたよ。あの人、警視庁捜査一課に今月から移ったんだって」
創「へぇ―……」
純「だけど、そんな偶然もあるんだな」
俊作「いや…それがな……偶然っちゃあ偶然なんだけどよ……」
純「何だ?」
俊作は、昼間の出来事を話した。
純「そうか……敵に遭遇しちまったか」
俊作「すまん」
純「いや、しょうがねーよ。目の前で困ってる人たちを見過ごすわけにはいかないからな。むしろ、それで湊さんに再会できたんだ。味方してくれるんだろ? 少しは前向きに考えなきゃな」
俊作「……そうだな」
純「それに、そのカフェの兄妹は黒野を知ってそうだしな」
俊作「ああ。特に妹さんがな。ヤツの仕事先とか知ってそうだったし。それに敵の一人が、“妹のほうは昔黒野に捨てられた”って言ってた。なんだか濃い関係がありそうだぜ」
純「うむ……それは本人に聞いてみる必要があるな。彼女自身は辛いだろうけど」
俊作「そうだな。事件に早くケリをつけるためだ。彼女にはちょっと我慢してもらおう」
純が、タバコに火をつける。
そして、ゆっくりと煙を吐いた。
ミーティングはまだ続く。
俊作も知らなかった恐るべき派閥の存在。
一体、誰が構成員なのか…?




