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「お嬢!」
アディが声を荒らげると共にメアリの肩を掴み、半ば強引に引き寄せた。
次いで彼はいまだ呆然とするメアリを守るように、それを捕まえんと更に伸ばしてくる男の腕を掴む。
そう、男だ。
ここでようやくメアリは、自分の前に現れたものが男だと、それも見るからに怪しい男だと理解した。
目深に被った帽子、口元どころか顔の半分以上を覆ったマスク。人相を見られまいとするその風貌は不審としか言いようがなく、一寸遅れてメアリの胸に恐怖が湧く。
「ア、アディ……」
「俺が押さえています、早く逃げてください!」
「い、嫌よ。貴方を置いて行くなんて……」
置いて行くなんて出来ない、そうメアリが弱々しく呟く。
これがただの令嬢と従者であったなら、当然メアリはアディを置いて逃げるべきだ。夫婦として考えても、非力なメアリは逃げて助けを呼ぶべきである。アディに捕らえられてもなお男がメアリに対して腕を伸ばしてくるのだから、目的を考えても同様。
だけどアディを置いて逃げるなんて出来るわけがない。
そう考え、メアリが目を見開いた。決意を胸に、アディが男を取り押さえていることを確認して男の背後へと回る。
「アディ! そのままそいつを押さえておいて!」
「逃げてくださいってば!」
危ないから! と叫ぶアディの訴えを聞き流し、メアリは狙いを定めるとスカートの裾を軽く摘み上げてスッと片足を上げた。
逃げる? 無理な話だ。なにせ今のメアリの瞳には闘志しか宿っていない。
「このメアリ・アルバートの辞書に『玉砕』の文字はあっても『逃亡』の文字はないわ!」
そう高らかに宣言し、流れるような優雅さでメアリが蹴りを放った。しなやかで美しい足がヒュッと風を切る。
そうして迷いなく放たれた鋭利な一撃は、的確なまでに男の一部を強打した。どこにだの何を狙ってだのは言うまでもなく、ゴスン、と響いた鈍い音に続いて男が呻き声と共に頽れる。
それを見てメアリが得意気に胸を張ったが、対してアディは青ざめていた。
「お、お嬢……貴女って人は……」
「貴族の令嬢の嗜みよ! 人が来たわ、観念なさい」
勝利を確信してメアリが道の先を見れば、異変に気付いたか数人がこちらに寄ってくる。
だがその瞬間、男が己を奮い立たせるように顔を上げるとおもむろに立ち上がった。逃げる気なのだろう、させまいとアディが男の腕を掴む。だが男は強引にアディの手を振り払い、それどころか拳を握るや彼の顔めがけて振り被った。
メアリが咄嗟に悲鳴を上げ、よろめくアディの元へと慌てて駆け寄る。
「女のくせに調子にのるなよ!」
そう捨て台詞のように吐き捨て男が逃げていく。低く、どこか掠れた、すごまれると寒気がしそうな声。
耳に残るどころか纏わりつきそうな声だが、それでもメアリは今は男の声など気にしている場合ではないと割り切ってアディの様子を窺った。
「アディ、大丈夫!?」
「お嬢、怪我はありませんか?」
互いに互いを心配し合い、大丈夫か痛めていないかと確認し合う。
見ればアディの目尻に薄っすらと血が滲んでいる。最後の一撃を避けた際に男の手が掠って切れてしまったのだという。
本人はこれぐらい平気だと言ってのけるが、それでも押さえたハンカチに血が滲むのを見て、メアリはまるで己が怪我をしたかのように眉尻を下げた。
『女のくせに調子に乗るなよ』
というのが、去り際に男が発した言葉だ。酷く掠れた声で、未だにメアリの耳に残っている。
目深に被った帽子のせいで視線の向かう先こそ分からなかったが、それでもメアリに向けられた言葉であることに間違いはないだろう。あの場に居た女というのはメアリしかいないのだ。
だけどいったいどうして……と不安と共に溜息をつけば「お嬢、大丈夫ですか?」と心配そうにアディが顔を覗き込んできた。
彼の左目は黒い眼帯で覆われ、見ているとなんとも痛々しい。
「アディの方こそ、大丈夫?」
「えぇ、少し腫れてるぐらいで問題はありませんよ。眼帯だって、俺はつけなくても良いって言ったんですけどね」
治療をしてくれた医者に「目元に絆創膏じゃ様にならない」と着けさせられた、そう話しながらアディが笑う。
思い返せば、先程アリシア達が見舞いに来ていた時もアディは同じように話していた。それどころか、パトリックにだけは眼帯をめくって傷を見せていたのだ。それを見たパトリックが「手酷くやられたな」と返していたことも覚えている。
ちなみに、令嬢達に傷は見せまいと考えたのか、アリシアやパルフェットが覗きこむとすぐさま眼帯を戻してしまった。
そうして彼等が席を外して今に至るのだが、自分に見舞客が来ているというのにアディは一向に「お嬢が無事で良かった」としか言わない。
その表情には傷に対する苦痛の色はなく、それどころかメアリが無事だったことへの安堵すら見える。
チラと覗かせた目元の傷も、痛々しくはあるが本人の言う通り軽傷の部類だ。
結婚してもなおアルバート家の従者として働いている彼にとって、目元に絆創膏を貼るくらいならいっそ眼帯にしてしまった方が体裁も良いのかもしれない。
だけど左目を覆う眼帯は見ているだけであの瞬間を思い出させ、それと同時にメアリの胸に不安が蘇ってくる。そして同時に脳裏によぎるのは、最後に告げられた男の言葉。
「ねぇアディ、最後にあの男が言った言葉なんだけど……」
覚えてる? とメアリが問えば、安堵の色を浮かべていたアディの表情が一瞬にして真剣味を帯びたものに変わった。次いで一度深く頷くのは、彼もまたあの言葉を聞き、そして男の狙いがメアリであると気付いているからだ。
「あの男、いったい何を目的にお嬢を襲ったんでしょうか」
「きっと渡り鳥丼屋を邪魔する組織の仕業よ」
「野鳥を見守る会にでも睨まれてるんですか?」
「でもここで臆してはアルバート家令嬢の名が廃るわ。そもそも、女が調子にのって何が悪いのよ。どんどんのっていくわよ!」
意気込むメアリに、対してアディが呆れたと言わんばかりの表情を浮かべる。だが何か言ってやろうと開きかけた唇をムグと噤んだのは、メアリが「私達の渡り鳥丼屋だもの!」と告げたからだ。
その言葉に、アディが小声で「弱いなぁ」と呟く。もちろん興奮するメアリはそれに気づいていないし、そもそもアディがメアリに弱いのなど今更な話だ。
「そうですね、俺達の渡り鳥丼屋ですもんね」
「そうよ、私達の渡り鳥丼屋! 必ず成功させてみせるわ!」
「それでこそお嬢。どうぞ思うままに行動してください。何があろうと、誰が立ち塞がろうと、貴女は俺が護りますから」
そう告げられ、そして錆色の瞳で真っ直ぐに見つめられ、メアリの胸が途端に高鳴った。
咄嗟に庇ってくれた時の男らしさ、今のこの優しさ。大事がないと分かった今、眼帯をつけた表情は普段とは違う魅力を見せる。それらすべてが自分のものなのだ。
そう考えれば不安も闘志もどこへやら、胸には甘い多幸感が湧き上がる。そのうえ、アディがそっと手を伸ばしてメアリの手を握ってきたのだ。
細くしなやかだが節の太い男の指に絡められ、包み込まれそうなその大きさにメアリがうっとりと瞳を細めた。
「そうね、貴方が居れば大丈夫だわ。二人ならきっと大丈夫」
「えぇ、勿論です。俺は何があっても貴女の隣に居ますよ」
「……アディ」
「常に隣にいます。なんでしたら隣じゃなくても……そう、俺の膝の上に座ってくださっても構いません」
「まぁ、なんて大胆で熱意的なのかしら。それはそれとして、カウント3」
「もちろん夜も一緒です。これから毎晩、俺の部屋に泊まってください」
「カウント2」
「そうだ、今日から風呂も一緒に」
「節度ぉ!」
「ちょっと待って今カウント1が無かっ……!」
ゴスン、と鈍い音が響き、アディが脇腹を押さえて蹲る。
そんな姿を横目に、頬を赤らめたメアリが咎めるように――「毎晩アディの腕枕も素敵ね」と思ってしまった自分も含めて咎めるように――ふんとそっぽを向いた。
今は甘さに絆されている場合ではない。渡り鳥丼屋を着実に進めなくては。このメアリ・アルバートが脅しに屈すると思われるのは心外どころではない。
そう意気込むと共に、メアリがふと壁に掛かっている時計を見上げた。
「あら、もうこんな時間」
「……そう、いえば、来客の予定がありましたね……うぅ、後から響く……」
「ねぇアディ、急いで呼びにいってくれない?」
「……ちょっと回復してからで良いですか」
うぅ、と呻くアディにメアリがまったくと溜息をついた。
そうしてひょいと彼に合わせてしゃがみ、「回復のおまじないよ」と頬に軽くキスをしてやる。途端にアディが立ち上がり「今すぐに!」と部屋を出ていくのだから、これはもう頬を赤くさせて良いのか苦笑して良いのか、もしくは呆れていいのか難しいところである。