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メアリ・アルバートの人生は騒々しくもあるが順風満帆である。
やかましかったり直ぐ泣いたりする友人も出来たし、理解者も増えた。かつて向けられていた嫉妬の視線も今はなく、相変わらず『変わり者』ではあるもののそれを指摘する陰口もなくなり、最近は「そんな所が彼女らしい」と好意的に受け入れられている。
そしてなにより……愛する夫が常に隣にいてくれるのだ。生まれたときから、それどころか生まれる前から彼は自分を一番に考え隣に居て、そして結ばれた今は愛情を贈ってくれる。
これ以上なにかを望むのは傲慢というもの。
だけどそれでも、これ以上をと望んでしまうのが人間というものなのだ。
「そういうわけで、渡り鳥丼屋を本格的にオープンさせようと思うの!」
「だから、なんでそういう結論になりますかねぇ」
断言するメアリに、アディが呆れたと言いたげに返す。
場所はアルバート家の庭園、昼食を終えて二人で長閑なティータイムの最中である。
「相変わらず諦める気はないんですね」
まったくと言いたげに溜息をつき、アディがティーポットを手に取る。
優雅な所作でティーカップに紅茶を注ぎ、そしてメアリの前にそっと差し出した。
対してメアリはツンと澄ました表情で「諦める理由がないわ」と言い切った。次いで先程のアディに倣うようにティーポットを手に取るのは、もちろん彼に紅茶を淹れてあげるためだ。
「北の大地では安定した売上を出しているし、この勢いに乗じて市街地に店舗を持つのよ!」
そう話しながらティーポットを傾けて紅茶を注ぐ。
慣れないせいか紅茶がカップの中で跳ねてお世辞にも優雅とは言い難いが、まぁ問題はないだろう。淹れることに意義があるのだ。
それに、たとえ表面張力いっぱいに注いでしまっても零さなければセーフである。
そう割り切って、なみなみに注いでしまったティーカップをアディの前に差し出す。
「お嬢が意気込むと碌な事がないじゃないですか。どうせ今回も空回って終わりですよ」
あっさりと言い切り、アディがテーブルの中央に置かれたケーキスタンドからシフォンケーキを一つ取って皿に移した。
横にクリームを添え、上から細く線を引くようにベリーソースで波を描く。なんとも手馴れた動きではないか。ふっくらと焼き上げられた美味しそうなシフォンケーキが、彼の手によって芸術品のような輝きを放って食欲を刺激する。
それを差し出され、メアリが礼を言って受け取ると共に自分もと空の皿に手を伸ばした。
「あら失礼ね。今回もって、いつ私がそんな失態を犯したというのかしら」
「めざせ没落」
「やめて」
聞きたくないと拒絶し、メアリがケーキスタンドへと視線を向けた。
そうして先程のアディのようにシフォンケーキを一つ取る。その際、ちょっとバランスを崩してケーキが倒れてしまったが、まぁ大丈夫だろう。
「設備も整ってるし、内装もお洒落だし、まさに理想の渡り鳥丼屋よ」
生クリームを掬いながらメアリが店の内装を語る。シフォンケーキに寄り添うようにとスプーンを傾けた瞬間ボトッと不本意な着地をしたが、これも大丈夫だろう。
仕上げにソースで綺麗に波を……と狙いを定めるも、液体とも言い難い粘度のあるソースは扱いが難しく、ドバと一転集中してしまった。シフォンケーキのど真ん中が赤く染まる。
そうして気付けば、皿には美味しいそうとはお世辞にもいえない光景が広がっていた。
無残に横たわり崩れかけたシフォンケーキ、真っ赤なベリーソースが豪快に一点にかかり、皿のすみには今にも零れ落ちんとするクリーム。
到底、ケーキを盛った皿とは思えない。これはむしろ……、
「シフォンケーキ殺人事件、犯人のクリームが今まさに逃亡をはかっているわ!」
なんて不吉な! と不穏な空気を漂わせるメアリに、話を聞いていたアディが軽く溜息をつき、そしてメアリの手からヒョイと皿を取った。
「アディ、それ綺麗じゃないわ。ちょっとした事件現場よ」
「そうですか? おかしいですね、俺には世界で一番美味しそうに見えますけど」
「……美味しそう?」
「そうです。愛しい人が盛ってくれたケーキなら、事件現場だろうが何だろうが美味しそうに見えるものです」
アディのこの優しい言葉に、メアリの頬がポッと染まる。
まだケーキを一口も食べていないというのに、なんとも甘い空気ではないか。思わずうっとりとしながら彼が盛ってくれたケーキを食べる。程よくかかったベリーのソースが適度な酸味を感じさせ、それもまた甘さに変わる。
だがシフォンケーキの半分近くを堪能した頃にメアリが「でもねぇ」と呟いたのは、これほどまでに甘い時間を過ごしても、それでも浸りきれない悩みの種があるからだ。
「流通ルート、ですか」
とは、長閑なティータイムからしばらく、せっかくだからと散歩がてらに渡り鳥丼屋を見に行くことになったアディの発言。
隣を歩くメアリはこれに対してコクリと頷き、次いで参っていると訴えるように溜息をついた。
まるでその悩みと胸の内のざわつきを示すようにザァと風が吹き抜け、銀糸の髪が舞う。それを片手で押さえて溜息をつく姿は、誰が見ても悩まし気な憂いの令嬢だ。
そんなメアリを横目に、アディが「今日は風が強いですね」とふと空を見上げた。
快晴とは言い難く、空を覆った雲に日の光が遮られている。まだ日が落ちるには早い時間なのに薄暗く、吹き抜ける風もどこか湿気を帯びている。これは直に雨が降るだろう。
「お嬢、いくら脱ドリルが嬉しいからって、なにもこんな日に出かけなくてもいいじゃないですか」
「あら失礼ね。私べつに風が強いから出掛けたわけじゃないわよ。……きゃっ、また強い風が。セットした髪が乱れちゃう!」
「随分とまぁ嬉しそうに」
楽しげに悲鳴をあげ髪を押さえるメアリに、アディが付き合っていられないと肩を竦めた。
「それで、さっきの流通ルートの話ですが、何か問題があるんですか?」
「そうそう、その話ね。最短ルートを確保したいんだけど、一部の土地を所有している人が通行許可を出してくれないのよ。あらまた風が」
ふわりと舞う銀の髪を嬉しそうに押さえ、メアリが「参っちゃうわ」と話す。
「通行許可なら、アルバート家の名前を出せば良いんじゃないですか?」
「むしろアルバート家の名前が逆効果よ。随分と貴族嫌いな方みたいで、何度も手紙を出してるんだけど取り付く島もないの」
目下、渡り鳥丼屋計画の壁となっているのがこの流通ルートである。
他のルートも予備として確保しているのだが、それでも北の大地から市街地の店舗まで遠回りをすることになる。食べ物は鮮度が命、やはりここは最短ルートを確保したいところなのだ。
だが土地を所有している者からの返答は常に断りのものばかり。アルバート家の権威で無理に承諾させることもできるのだが、それはメアリの趣味ではない。
「先方にとっても悪い話じゃないはずだし。なんとか理解して貰えないかしら」
そう溜息を着きつつ、市街地の一角を歩く。
天候のせいか普段の賑わいは見られず、誰もが雨に降られる前に帰ろうと足早に歩き去っていく。通りがかった道も、晴れた時の賑やかさが嘘のように人の気配が無い。
「騙されてると思ってるみたいなの。私は本気で渡り鳥丼屋を開きたいだけなのに……」
「まぁでも確かに、あのアルバート家の令嬢から『渡り鳥丼屋を開きたいから通行許可を!』なんて言われても、にわかには信じがたいですね」
「渡り鳥丼屋への熱い想いとビジョンを便箋十枚にしたためても無理だったわ。こうなったらもう直談判で……きゃっ!」
直談判で説得するしかない、そう言いかけてメアリが高い悲鳴をあげた。
建物と建物の合間から、何か大きな物が飛びかかってきたからだ。自分の身体より一回り以上大きなそれが、現れるやいなやこちらに腕を伸ばしてくる。
これには流石のメアリも身構えるもことも出来ず、掴まれると思った瞬間にグイと強引に肩を取られて後ろへと引き寄せられた。