短編9
「アディさんにメアリ様がメロメロになる秘策を教えてあげましょう!」
そうドヤ顔で告げてくるアリシアに、対して向かいに座るアディは至極冷静に「それはありがたい」とだけ返して己の持つ駒で盤上の敵を一つ弾いた。
それを見て、あー!とアリシアが悲鳴をあげる。
一国の王女にしては落ち着きなくはしたない悲鳴ではあるが、初心者だからとうんとハンデを貰っても負けが見え始め、その上でまた一つ駒を倒されたのだから叫ぶのも仕方あるまい。
「そんな、私のナイトが……逃げて、ビショップ逃げてぇー! ア、アディさん、メアリ様がメロメロになる秘策ですよ! 凄いですよ!」
「そうやって動揺させようとしても無駄だよ。はいまた一つ」
「きゃー、ポーンが! うぅ、ハンデいっぱい貰ってるのにアディさんに勝てない……」
「アリシアちゃんはハンデの効果をキングとクイーンに偏らせるから駄目なんだよ。なんなのそのやたら機動力が上がったキングとクイーンが前線で暴れまわるスタイルは」
「我が王家は自ら剣を持って戦うんです! あー、ナイトがまたしても!」
再びアリシアの情けない悲鳴があがる。
盤上はもはや勝敗は決したも同然の目も当てられない程の有り様で、仮にこれが実際の戦場であったならあちこちでアリシア軍の白旗がはためいていることだろう。
だがそんな惨状と言える状況を前にしてもアリシアは未だ瞳に闘志を宿し、徐に己のクイーンを取ると盤の中央へと滑らせた。
「アディさん、クイーンの一騎打ちといきましょう」
「それはもうチェスじゃないね」
「一騎打ちで私に勝てたら、メアリ様がメロメロになる秘策を教えてあげます」
「残念だけど、俺はあと三手で終わらせるつもりだから」
「この秘策、パトリック様はそれはもうメロメロになって、その日の予定を一瞬で片付けて一日中私を抱きしめて過ごしていた程です」
「………ふむ」
駒を動かそうとしていたアディの手が止まる。
三手先の勝利を得るためにとナイトに向けられていた指先がピクリと揺れ……そしてクイーンへと進路を変えた。次いで他の駒を盤上から降ろし、クイーンを中央へと差し出す。
「それで一騎打ちの内容は?」
「せーので同時に弾いてぶつけて、相手のクイーンを倒した方が勝ちです」
「もはやチェスの欠片もない」
そんな会話の末、まだ外も薄暗い早朝のアルバート家の客室にカツンと軽快な音が響いた。
「まったく! 朝っぱらからピクニックだなんだで騒がれて堪ったものじゃないわよ!」
そう怒りを露わにするメアリをアディが宥める。
時刻はすでに遅く、場所はアディの部屋。普段通りの就寝前の二人の時間である。
他愛もない雑談をし、今日のことを振り返り、明日の予定を確認し……という中でメアリがアリシアに対して怒り始めたのだ。だがいかにメアリが怒ろうと不満を訴えようとアディからしてみれば毎度のことで、まぁまぁと宥めつつも苦笑を漏らして彼女のティーカップに紅茶を注いでやる。
「でもパトリック様が夕飯前に連れ帰ってくださったじゃないですか」
ひとまずそんなフォローを入れておく。
といっても夕飯前まではきっちりとアリシアに振り回され、メアリの見送りの言葉は「預り所じゃないのよ!」だったあたり、この言葉もフォローとして効果があるかは定かではないが。
「パトリックもパトリックよ! 何かあったらすぐにその場で叱らないと駄目って言ってるのに、あの子の事に関すると甘くなって!」
「お嬢、そんなにドリドリ怒ってると髪が巻かれちゃいますよ」
「さり気なく火に油を注ぐんじゃないわよ!」
キィ!と喚くメアリをアディが苦笑混じりに宥め……次いで徐にメアリの隣へと移動した。それどころか宥めると見せかけて肩を抱く。
この大胆さにメアリも思わず目を丸くさせ、それでも今は流されまいと「誤魔化されないんだから」とアディを睨みつけた。
「お嬢、明日はお休みですよね。今夜は泊まっていったらどうですか?」
「さっきまで全力で火に油を注いでたくせによく口説けるわね。おあいにく様、今夜は部屋に帰って読みかけの本『犬の躾〜大型犬から小型犬まで〜』を読むのよ」
ふんとメアリがそっぽを向く。怒りは頂点に達しているのだ。
今夜こそあの本を読み終えねばならない! そしてパトリックに押し付けて読ませなくては!
そうメアリが決意をした瞬間、アディがグイと強引に抱き寄せてきた。その強引さにメアリが思わず声をあげかける。だが次の瞬間耳元で囁かれた言葉に怒りの言葉も叱咤も全て飲み込んだ。
「そんなこと言わずに……ね、メアリ」
と、その言葉のなんと甘く心を痺れさせることか。
普段の『お嬢』とも公の場での『メアリ様』とも違う。優しくて甘い呼び方……。
これにはメアリの胸も高鳴り頬が赤く染まる。見上げれば錆色の瞳が優しげにそれでいて誘うように見つめてくるのだから、強く抱きしめてくる腕に抗えるわけがない。
「も、もう……仕方ないわね……」
腕の中に大人しくおさまりそれでもメアリが精一杯の強がりを言えば、アディがクツクツと笑いながら額にキスをしてきた。
ぼんやりとメアリが目を覚ましたのは、そんなやりとりがあった真夜中。
寝惚けた意識でモゾと起き上がり、己の身体が何も纏っていないことに気付くとあらまぁと微睡む意識で手近にあったシャツを羽織る。これはアディの服かしら……と、腕を伸ばして袖口の余りを見て思う。随分と大きいが、寝巻き代わりに羽織るにはちょうど良いかもしれない。
そんな事を考えていると、隣で眠っていたアディがモゾと動きだした。
彼もまた上半身は裸。下は流石に下着ぐらいは履いているだろうが、メアリが起きたことで布団が捲られ肌寒さを感じたのだろう。
「ん……お嬢……? どうしました?」
そう尋ねてくるアディの声は随分と微睡んでいる。
目をこすりながらのその口調は酷く眠たげで、メアリは小さく笑みをこぼすと「なんでもないわ」とだけ答えて彼の胸元に寄り添うように再び横になった。
大きな手が銀の髪を梳くように撫でてくる。その心地良さにアディを見上げれば、錆色の瞳は今は閉じられ、薄く開かれた唇から微かな呼吸が漏れる。
寝惚けているどころではない、きっと意識の殆どは夢の中だ。
それでも頭を撫でてくる彼が愛しく、メアリがほんの少し体を伸ばすようにし、
「おやすみ、あなた」
と囁くと共にアディの頬にキスをした。
その瞬間、錆色の瞳がカッ!と開かれる。
「お嬢、今なにか言いました!?」
「さぁ何かしら。おやすみアディ」
「言いましたよね!? 呼びましたよね!? もう一回!」
「こういうのは不意打ちじゃなきゃ意味が無いのよ。さ、明日はパトリックを引きずってでも犬の躾講座に連れて行くんだから、もう寝るわよ」
「お嬢!」
抱き寄せ、頭を撫で、キスをして……と訴えるように強請るアディに、メアリはしてやったりと笑みながら心地良さの中で眠りについた。