ニャルバート家の令嬢は没落をご所望です
その日メアリは普段通りメイドに髪を整えさせつつ、柔らかに揺れる銀の髪に笑みを浮かべていた。
あの強力縦ロールの呪縛から解き放たれてしばらく、やりたかった髪型はまだまだ尽きない。こっそりしたためて机の奥にしまっていた『やってみたい髪型リスト』もまだ半分どころか三分の一も実践していないのだ。
そんなメアリの気持ちが分かってか、メイドもまた嬉しそうに表情を綻ばせながら櫛を片手に、
「今日はいかがいたしましょうか?」
とメアリの顔を覗きこんでくる。それに対して好きな髪型を答えればメイドが見事な手腕で仕立ててくれのだ、毎朝おこなわれるメアリの至福の時間。
何を言ってもドリル、どうしようがドリル、果てにはメイドが無言で髪を解かしてドリルを整えて瞳を濁らせて去っていく、あの暗黒の時代はもう過去のことなのだ。
「今日はね、緩く流してちょうだい。こう、胸元でフワフワっとさせるの!」
「はい、フワフワですね。畏まりました」
「ドルルルルって感じじゃなくてフワフワよ!」
「はい、とびっきりのフワフワにいたしましょう!」
嬉しそうに髪型を指定するメアリに、対してメイドもまた声を弾ませて返す。
……と、そんな二人の会話にカリカリと不思議な音が割って入ってきた。自然と二人とも視線を向ければ、窓の外に一匹の猫の姿。
開けろと催促するように前足で窓をひっかいている。それを見たメアリが立ち上がり、招き入れるように窓を開けてやった。
「あなた、また来たのね」
そう話しかければ、猫は返事の代わりにぶんと尻尾を揺らしてスルリと部屋の中に入ってくる。
ふわふわの長く白い毛、いわゆる長毛種、その中でもとりわけ長い部類に入るのかも知れない。メアリがこの猫を初めて見たとき、昼寝をしており微動だにしないこともあって猫なのか毛の固まりなのか一瞬戸惑った程だ。
「貴族の令嬢たるもの、外出には従者をつけるものよ」
そう窘めつつヒョイと猫を抱き抱え、再びメイドの元へと戻る。
ドレッサーの上に猫を座らせ自分もまた椅子に腰掛ければ「最近よく遊びに来ますね」とメイドが話しながら髪に櫛をいれてきた。解かされる心地よさにメアリが僅かに瞳を細めつつ、目の前の猫を撫でてやる。
知り合いの令嬢が飼っている猫だ。以前に珍しい種類でかなり値が張ったと自慢しているのを聞いた覚えがある。どうやら行動範囲が相当広いらしく、こうやって頻繁にアルバート家に入り込んでくるのだ。
雲を撫でているようなふかふかの柔らかさ、これぞまさに猫っ毛。それを充分に堪能し、ふとメアリが猫の毛を指先で掬った。
一部がクルリと丸まっている。
猫にも癖毛があるのだろうか。クァ…と欠伸をしているあたり、もしかしたら寝癖なのかもしれない。
そんな猫の姿に、メアリが良いことを思いついたとニヤリと笑みをこぼした。
「貴族の令嬢たるもの、寝癖を晒すなんて考えられないわ」
そうわざとらしく猫の鼻先を突っつく。人懐っこい性格なのだろう、メアリにチョンと鼻先を突っつかれても動じることなく、それどころかグルグルと喉を慣らしながらペロリとピンクの舌で鼻先を舐めて返した。
その愛らしい姿にメアリが思わず表情を緩めつつ……
「……女の子よね?」
と、確認の為にふかふかの尻尾を持ち上げて覗きこんだ。どこをとは言わないが、雄雌の判別がつく部分である。
そこに無いことを確認し「失礼」と尻尾を戻す。
そうして猫の頭を擽るように撫でてやり、ドレッサーに置いてあった櫛を一本手に取ると撫でるようにその白いふわふわの毛をとかしはじめた。
メイドに頼んだとおり、メアリの今日の髪型は随分と緩く胸元に落ちておりドリルのドの字もない。流石にストレートとは言わないが、それでもウェーブがかかっているとも言えない、それほどの緩さなのだ。
対してメアリの腕の中でご機嫌に喉を鳴らす猫は、これがまた見事なまでに顔のサイドの毛をクルクルに巻き上げさせていた。
楽しげに猫の毛を巻くメアリと、それを見て自分もと乗りだしたメイドの二人で手がけた合作である。いや、施術の最中も猫は大人しく、逃げるどころか気持ちよさそうに瞳を細めていたのだから三人……もとい二人と一匹の合作と言えるかも知れない。
とにかく、そんな小さなドリルを装備した猫を腕に抱きながらメアリが部屋を出れば、待ちかまえていたアディが恭しく頭を下げた。
「おはよう、アディ」
「おはようございます、おじょ……」
「アディ?」
どうしたの? とメアリが不思議そうにアディを見上げる。だが彼からの返事はなく、錆色の瞳はこちらを、というより腕の中をジッと見つめている。
そこにいるのはクルクルに毛を巻かれた白猫。青い瞳は真っ直ぐにアディを見つめ返し、まるで応えるように「ニャーン」と声をあげた。
それを聞いたアディが改めて頭を下げる。恭しく、まるで従者らしく……そうして彼の口からでたのは
「おはようございます、メアリ・ニャルバート様」
というものだった。
「あんたね、主人を毛の巻き具合でっ……」
毛の巻き具合で決めるんじゃないわよ! と声を荒らげようとして、メアリがムグと出掛けた言葉を途中で飲み込んだ。
「良いじゃない、のってやろうじゃない……」
と視線でアディに訴える。
それに対してアディの表情に焦りの色があらわれるのは、もちろんメアリが怒鳴ってくると思ったからだ。
「え、止めないんですか!?」
とその表情が物語っているが、それに対してメアリがふふんと鼻で笑って返してやった。
「……お、お嬢。アリシアちゃんとパトリック様が遊びに来ておりますよ」
引くに引けないのだろう、アディがメアリ(人間)の腕の中のメアリ(猫)に話しかける。
ブンと白いふわふわの尻尾が揺れるのはメアリ(猫)なりの返事なのか。それを見たメアリ(人間)がメアリ(猫)を床に降ろしてやれば、まるで「さぁ行くわよ」とでも言いたげにメアリ(猫)がスタスタと歩き出した。ふかふかの尻尾が優雅に揺れ、アディが従者らしく後を追う。
「ところでお嬢、パトリック様が……お嬢ですよね?」
ちょいと失礼、とアディがメアリ(猫)に足早に近づき、ひょいとそのふかふかの尻尾をめくりあげる。
そうしてそこに無いことを確認して改めて話しかけた。
「パトリック様がお話があるようですよ」
「ニャーン」
「えぇ、資料は既にお渡ししてあります」
と、そんな二人、もとい一人と一匹の会話を、メアリ(人間)は数歩遅れて眺めていた。
終始無言である。なにせメアリは既にアディの目の前を歩いているのだから。
そうして屋敷の玄関へと向かえば、アリシアとパトリックが並んで……それも手を繋いで待っていた。
麗しい二人のなんとも仲睦まじい姿である。もっとも、二人の身分を考えれば些かイチャつき過ぎな気もするが、このアルバート家では見慣れた姿であり誰も気にかける様子はない。
そんな二人はメアリとアディの姿に気付くと揃えたように視線を向け……
「メアリさっ」
「アリシア、走らない」
一瞬にして走り出そうとするアリシアを、繋いだ手をグイと引っ張ってパトリックが制止した。
そんな二人に対し、アディが自らも挨拶をすると共に目の前を歩いていたメアリ(猫)をヒョイと抱き抱えた。
「アディさん、その猫ちゃんは?」
「お嬢、アリシアちゃんとパトリック様ですよ。ご挨拶しなくては」
ほら、とアディが腕の中のメアリ(猫)を揺すれば、応えるようにメアリ(猫)がぶんと尻尾を一度揺らした。
それを見たアリシアとパトリックが目を丸くさせたのは言うまでもない。が、メアリ(猫)の長い毛がクルクルと巻かれていることに気付くと顔を見合わせて小さく笑みをこぼした。
そうして、まずはアリシアがアディに……もとい、アディの腕の中にいるメアリ(猫)に対してスカートの裾を摘み上げて頭を下げた。
「ごきげんよう、メアリ様」
優雅なアリシアの挨拶に対して、メアリ(猫)が再び尻尾を揺らす。
次いでパトリックも同様に挨拶を告げれば、今度は可愛らしい声で「ニャーン」と鳴いて返した。
「このメアリ、良い性格をしてるわね」とは、パトリックにのみ鼻先をくっつけて挨拶をするメアリ(猫)を眺めるメアリ(人間)の感想である。
そうして中庭でのんびりとお茶を楽しみつつ、あれこれと話をする。
美味しいケーキのお店が出来ただの、国の内政に関して意見がほしいだの、コロッケの揚げ加減から隣国との親善に関してまで話の幅は広い。――広すぎな気もするが――
と、そんな盛り上がりの中、テーブルの上にちょこんと座っていたメアリ(猫)が目の前に置かれたカップにおもむろに手を突っ込んだ。ゆっくりと引き抜けばもちろん白い手は水で濡れそぼっており、それをペロリとピンクの舌で舐める。
そうして更にもう一度カップに手を突っ込み、ついた水を舐めとり、またカップに手を突っ込み……。
「さすがお嬢、なんとも優雅なテーブルマナーですね」
とは、水が滴ってビチャビチャになった机を拭きながらのアディ。
それに対しアリシアが便乗するように「本当ですね」とメアリ(猫)を眺めながら表情を綻ばせた。
「やっぱりメアリ様が一番優雅で女性らしくて……」
言い掛け、アリシアがふと思い立ったようにメアリ(猫)の尻尾をひょいと持ち上げた。
そうしてそこに無いことを確認して、改めて「女性らしくて素敵です!」と最後まで言い切った。
それに対してメアリ(猫)がふんと鼻を鳴らすのは、贈られた賛辞に当然だとでも言いたいのだろうか。次いで青い瞳をパトリックに向けて「ニャン!」と声を上げるのは、もちろん強請っているのだ。
「このメアリ、かなり強かだわ」とは、テーブルにこそ着きつつも会話に加わるでもなく紅茶片手に眺めていたメアリ(人間)の感想である。アリシアには尻尾を振るだけで対応しているのに、対してパトリックにはあの鳴き声なのだ。
まさに猫撫で声といった催促に、意図を察したパトリックが苦笑を浮かべてメアリ(猫)へと手を伸ばした。
「さすがはメアリだな、どんな令嬢でもきみの足元にも及ばない。アリシアと出会わなければ、迷いなく君を妻に……」
と、言いかけてパトリックが尻尾に手を伸ばした。
そうしてふかふかの白い尻尾をひょいと持ち上げようとし……「ニャン!」と制止の声をあげられて慌てて手を引っ込めた。
「おっと失礼」
申し訳ない、とパトリックが引いた手をメアリ(猫)の頭へと向ける。彼のしなやかな指がふかふかの毛をくすぐれば、直ぐ様ゴロゴロと喉を鳴らしてうっとりと青い瞳を細めてご満悦である。
ちなみに、パトリックに続いてアリシアもメアリ(猫)を撫でようとしたのだが、白い毛で覆われた手が突っぱねるようにしてそれを阻止した。どうやらライバル認定されたらしく、アリシアが切なげに「メアリさまぁ……」と唯一触れることを許された尻尾を揉んでいる。
そんな長閑な時間も終わり、ちょうど全員が紅茶を飲み終わったタイミングで誰からともなく立ち上がった。
パトリックはこの後メアリ(人間)の父であるアルバート家当主と話をする予定があるらしく、アリシアは王宮に戻ってダンスのレッスンがあるらしい。その身分もあってか、二人共なかなかに忙しいらしい。――それを聞いたメアリ(人間)が「忙しいならうちに来なくて結構よ!」とアリシアに対して暴言を吐こうとし、ムグと口を噤んだ。そんなメアリ(人間)の気持ちを察したかそれとも偶然か、メアリ(猫)がぶんと尻尾でアリシアの手を叩いた――
「それではメアリ様、またパトリック様がお戻りになる時間に遊びに来ますね!」
コチョコチョと鼻先を擽りながら告げてくるアリシアの屈託のない挨拶に、メアリ(猫)がぶんと尻尾で応える。
「メアリ、後でまた時間が空いたらお茶でもしよう。例の料理なんだが、もしかしたら国外で披露できるかもしれない」
その話を、と告げて頭を手で覆うように撫でてくるパトリックには「ニャン!」と愛らしい声で返す。もっと撫でてと言わんばかりに彼の手に額を寄せるのだからよっぽどではないか。
そんなあからさまな態度に二人が苦笑を浮かべて去っていく。
そうして残されたのは、メアリ(猫)とアディと、一歩離れてやりとりを眺めていたメアリ(人間)。
だがメアリ(猫)もなにやら用事があるようで、まるで「それじゃ私もここで」とチラと青い瞳で二人を一瞥するとふかふかの四つ足で歩き出した。
ぶぉんぶぉんと優雅に揺れる長毛種らしい尻尾のなんと見事なことか。
そんな真っ白でふわふわの後ろ姿を見送り、残された二人がふぅと息をついた。
「で、何か言いたいことは?」
「申し訳ありませんでした。今後は早期対応をお願い致します」
お嬢しか止めてくれる人がいません、と頭を下げるアディに、メアリ(人間)が溜息と共に肩を竦めた。
銀色の尻尾があったなら、ぶんと豪快に振ってやったのに。
本当は2月22日に書きたかったお話。
ねこあつめにはまってます。