19
「……アディ」
呆然とするメアリがようやく口にした名前に、呼ばれたアディがゆっくりと彼女の元へと近づき
「い、色々とお話するべきなんでしょうが……あの、とりあえず抱きしめても良いでしょうか」
と、両手を広げて許可を求めてきた。
ムードも何もないその発言に思わずメアリとアリシアがキョトンと顔を見合わせる。次いでアリシアが堪えきれずにクスクスと笑いだし、対してメアリが一瞬にして顔を真っ赤にさせて椅子から立ち上がった。
ガタン!と派手に音をたて椅子を倒しかねないあたり、メアリの動揺が窺える。もっとも、真っ赤に染まった顔を見れば余裕の無さなど一目瞭然なのだが。
「な、な、何言ってるのよ! ここをどこだと思ってるの!? 王宮よ!人目があるんだから慎みなさい!」
「大丈夫ですよメアリ様! 人払いしてますし、今の私は綺麗な庭園に釘付けですから!」
ガタガタと音立てて椅子を動かし、アリシアが背を向ける。
おまけに「庭園に釘付けで他には何も見えません!」とまで言って寄越すのだ。そのわざとらしさと言ったらなく、メアリが更に顔を赤くさせ「そういうことじゃないの!」と怒鳴りつけようとし……グイと抱き寄せられて出かけた言葉を飲み込んだ。
心臓が跳ね上がる。
回された手がまるで逃がすまいと背中を押さえ、一瞬で灯った熱が体の芯にまで駆け抜ける。
包み込むように回された腕が、押しつけられるように触れる胸板が、触れる場所全てがアディを男だと意識させ、メアリの体の中で逃げ場のない熱が高まりながら彷徨い続ける。心臓が跳ね上がり、鼓動と同時に甘い痺れが体全体を覆う。
溶けてしまいそう……と、小さく息を吐けば、そんな自分の吐息さえ熱を含んだように熱い。
恥ずかしい、緊張する。
背中に回された手が熱い、体中が熱い。
心臓が落ち着きを無くして痛いくらいに苦しい。アディの胸元から鼓動が聞こえ、それがまた自分の心臓の音と重なって体の中で響きわたる。
ゼロとも言える距離に、呼吸一つ一つが伝わってしまいそうで息を吸う行為さえ躊躇われる。呼吸の仕方を忘れてしまいそう……。
そんな緊張状態にありながらも、何より勝るのは幸福感。アディの腕の中に居ることが、甘く痺れるようなこの感覚が、たまらなく嬉しくて体中をとろけさせる。
そんな心地良い感覚にメアリが酔いしれていると、ふいにアディが体を離した。僅かにあいた距離すらも今になれば惜しく思え、メアリがふと彼を見上げ……小さく息を飲んだ。
抱きしめられていた時よりも彼の顔が近い…というか、近付いてきている。
誘うように少しずつ細められた錆色の瞳が妙に色気を感じさせ、メアリの心臓が限界だと鼓動を早める。
「ア、アディ……それは少し、早すぎないかしら」
「何を言ってるんですか、俺達もう夫婦なんですよ」
「えぇ、そうね……そうだったわ。でもね、流石に物事には順序というものがあってね」
あたふたと説得を試みるメアリに、アディがグイと強く抱きしめることで返した。
「俺がどれだけ待ったと思います?」
「どれだけって……どれだけ待ったの?」
アディの瞳に見据えられ、メアリが頬の熱を感じながらも譫言のように問い返す。心臓の音がうるさくて、自分で何を言っているのかよく分からない。勿論そんな状況なのだから、彼がどれだけ待ったかなど考えられるわけがない。
ただひたすらに体が熱く、心臓が苦しいほどに早鐘を打つ。
彼が何を求めているか、抱擁の後に何が待ちかまえているのか……流石にそれが分からないわけではない。恋愛に疎いとはいえ、知識がないわけではないのだ。だが分かっていても心の準備が出来ていない。
だからこそ時間稼ぎのように問い返せば、いままでのことを思い返したのかアディが瞳を細めた。
「さぁ、俺も分かりません」
「なによそれ……答えになってないじゃない」
「だって思い出せないほど昔から、俺は貴女しか見てなかったんです。笑っちゃうでしょ、この年まで惚れたのは貴女一人だけ。俺、これが初恋なんですよ」
そう苦笑めいて真っ直ぐに告げられる言葉に、メアリが更に頬を赤くさせ何かを言いかけ……口を噤んだ。
ずっと隣にいた彼は、それほどまで長く待っていてくれたのだ。待ち続けて、ずっと待ち続けて、そうして今ようやく抱きしめている。それほど長く待たせてしまったのなら、少しくらい急いでも……と、そう考え始めたメアリの頬にアディの手が触れた。
目尻を撫でられるとピリと走るような痛みが走ったのは、それ程までに泣きはらしたからだろうか。
「結婚してから告白なんて、こんな順番で驚かせてしまい申し訳ありませんでした」
「……本当に驚いたわ。驚いて、このざまよ」
貴方のせいだと訴えるように視線を向ければ、苦笑を浮かべるアディの顔が目に入る。
困ったような、泣きそうな、それでも嬉しそうな。なんとも言えないその表情は色気があり、格好良く、そして何より愛おしい。胸が締め付けられるようなその表情にメアリが見とれていると、その視線に気付いたのかアディが照れくさそうにコホンと咳払いをして、真剣な表情でジッとメアリを見つめ返した。
「生涯、貴女の隣を離れないと誓います。誰より貴女のことを考え、尽くしていきます。だからどうか、俺の主人ではなく……俺のお嫁さんになってください」
請うように、それでいて有無を言わさぬほどに真剣味を帯びた瞳でアディが見つめてくる。
溶けるようなその熱い視線に、この瞳に弱いのだとメアリが自分の中で呟き、応えるように目をつむった。
言葉での返事が思い浮かばない。何と言って返せばいいのか、今まで恋愛とは無縁だと考えて生きてきた人生では到底分かるわけが無く、だからこそ目を瞑り、これが答えだと訴えるように彼を見上げた。
頬に添えられたアディの手がピクリと反応したのが分かる。
あぁ、貴方も緊張してるのね……とメアリが心の中で呟くのと同時に、唇に柔らかな感触が触れた。
キスをしている。
そう気付いた瞬間の高鳴りと心地よさと言ったらない。
今まで何度もアディに触れたことがある。手を繋いだことだってある。だというのにこの男女としての触れ合いはメアリが想像していた以上に甘く、体全体を痺れさせ力を奪っていく。
夢のような、とはまさにこのことだろう。
体の力が抜けるようなその甘い喜びに酔いしれていると、ゆっくりとアディの唇が離れていった。
はぁ……とどちらともなく熱い吐息が漏れる。
そうして互いに視線を絡ませていると、アディが改まったように口を開いた。
「ずっと貴女を愛してました。これからもずっと、愛しています」
その言葉のなんと重く喜ばしいことか。
心臓の奥深くに沈み込み体中を包むような感覚に、思わずメアリの意識がクラリと揺らぐ。そうして熱に浮かされたまま
「私も……ずっと貴方を愛してたみたい」
と答えれば、アディの瞳が嬉しそうに細まった。
そうして互いに愛を確かめ合えば、再びアディがゆっくりと顔を寄せてきた。
あら、もう一回なの?とメアリが心の中で問いかける。
だが先ほどの甘い心地よさを思い出せば拒む理由などなく、メアリもまた瞳を閉じた。
柔らかな感触が再び伝う。
まどろむような浮遊感と、触れている場所全てに灯る熱が心地良い。
時折角度を変えては愛を確認するようなその甘いキスにメアリがうっとりと酔いしれ……ゆっくりと、それでも確かに深まっていく口付けにピクと眉尻を動かした。
なんだか先程のキスとは違っているような……。
確かに甘くとろけそうな心地よさではあるが、先程より随分と深くて熱っぽい。なんというか、これは進みすぎのような……。
そうしてついには、まるでもっと深いキスを誘うようにアディの舌がゆっくりとメアリの口内に入りかけ……
「節度ぉ!」
という一言と共に、迷い無く放たれたメアリの拳がアディの脇腹に埋まった。
「うぐっ……!」
というくぐもった声と共にアディが脇腹を押さえて崩れ落ちる。
「すいませんでした、調子にのりました……」
「次に箍をはずしたら接近禁止令出してお父様経由の交換日記からスタートさせるわよ!」
「そんな……一月と保つ自信がありません……」
呻きながらも情けない声で謝罪してくるアディに、メアリが「まったく」と息を吐いた。
つい流されて応じていたが、仮にもここは王宮なのだ。それも近くにアリシアがいる。……律儀に背を向け、おまけに耳を塞いでいるが。
「ア、アリシアさん。もうこっちを向いても平気よ」
気恥ずかしさを咳払いで誤魔化し、アリシアに声をかける。
気を使って両手で両耳を押さえていた彼女はその声に気付くと
「大丈夫ですよメアリ様、せっかくなんだからもう少しお二人で……」
と嬉しそうにクルリと振り返り
「ひぁー! アディさんどうしました!?」
と声をあげた。
「それじゃ帰るけど……ごめんなさいね、こんな時間に押し掛けてしまって」
「いいえ大丈夫ですよ」
微笑んで首を横に振るアリシアに、メアリが照れくさそうに笑って返す。
といっても、仮にもここは王宮。それもこんな時間に予告無く訪問してしまったのだ。両陛下には後日改めてお詫びと、アリシアを呼びに行ってくれた警備員達にはお礼をしなくては……と、そんなことをメアリが考えていると、隣に立っていたアディが
「俺も、パトリック様にお礼をしなきゃ」
と呟いた。
聞けば、数時間前までアディはアルバート家当主や司祭達と食事をしており、そんな中で王宮からの伝達を受けたのだという。
てっきりメアリは部屋にいるものだと思っていたのに、それどころか定期的に部屋の前まで様子を見に行っていたのに。むしろ時折は声をかけ、返事がないことに胸を痛めてすらいたというのに、まさか蛻の殻だったなんて……いつの間に!と、そんな驚愕すら覚えたという。
――この件に関して、メアリが平然と「部屋から出る術は扉だけじゃないわ」と言い切った。それに対してアディの返答は「えぇ知ってますよ、窓と天袋でしょ」である。だけどいったいどうして、恋に悩み胸を痛め涙する令嬢が窓や天袋から抜け出すと思うのか……――
そんな伝令を受けて今すぐに王宮に迎えに行こうと思ったのだが、それでも僅かに躊躇ってしまった。情けないと言うなかれ、今までずっとアルバート家の従者として生き、アルバート家に婿入りしてもなおその姿勢は崩すまいと考えていたのだ。だからこそ、当主やそれに匹敵する人物との食事で席を離れることが出来なかった。
そんなアディの背を叩いたのが、他でもないパトリックである。
「なに突っ立ってるんだ。あのメアリ嬢が、一度は俺の婚約者になったメアリ嬢が選んだ男なんだぞ、情けない姿を見せてくれるな!」
と。
それはまるでいつかのメアリの言葉のようで、それを聞いたアディはまるで金縛りが解けたかのような感覚を覚え、一礼すると慌てて部屋を出て馬車に飛び乗りここまできたのだ。
その話を聞き、メアリが驚いたように目を丸くさせた。
「馬車で来たの?」
「えぇ、酒を飲んでましたし」
「馬車酔いは平気だったの?」
「酒が入ると平気みたいです。……それに、酔ってる余裕も無かったみたいなんで」
そう照れくさそうに笑うアディに、メアリの頬が再びポッと灯った。
以前であれば聞き流せそうな言葉だが、彼と自分の気持ちに気付いた今は一つ一つが胸に甘く溶け込んでくる。だが今はそれに素直に酔いしれることも出来ず――なにせ今は人目がある。それもアリシア以外にも――ふいとそっぽを向いて「お酒の力は偉大だわね」と誤魔化した。
「アディさん、パトリック様がまだいらっしゃったら、私からもよろしく伝えておいてくださいね」
「あぁ、分かった……り……ました、です、アリシア様」
「その他人行儀、傷つきます……」
「流石に王宮だと普段通りにはいかないのよ。分かってあげてちょうだい」
アリシアとアディのやりとりが楽しいとメアリが笑う。
そうしてアリシアの手を取り、「ありがとう、アリシアさん」と心からの感謝を述べた。
「貴女の所に来て良かった。パトリックには私からもお礼を言っておくわ。貴女にとても良くしてもらったって……」
「メアリ様……」
ギュウと握られた手に、アリシアが嬉しそうに笑う。
そんなアリシアが「まだ伝えて欲しいことがあります!」と言い出せば、メアリが彼女らしくなく優しく笑って「なんでも言ってちょうだい」と答えた。
「「おやすみなさい、パトリック様」って伝えておいてください」
「えぇ、ちゃんと伝えるわ」
「あと、あと、「大好きです」とも」
「はいはい、伝えておくから」
「それに、「やっぱりパトリック様は素敵です」と「優しいパトリック様が大好きです」って伝えておいてください!」
「…………」
それに、それに、と嬉しそうに頬を染めながら恋人へのメッセージを託すアリシアに、メアリが微笑みを崩さぬまま
「さ、とっとと帰りましょ」
と冷ややかに言い放った。
残数ゼロ。なんともメアリらしい対応である。