18
「流石にアルバート家のご令嬢と言えど、この時間に謁見の申し出がないのは……」
そう困惑気味に言われ、メアリが呆然としたまま「そうよね」と小さく返した。
あれからアルバート家の屋敷を抜けだし、たまたま近くにいた者に馬車を出させ王宮まで来たは良いが、警備の者に訪問理由を問われメアリもこれと言った明確な理由を説明出来ずにいた。
なんとなくアリシアに会いたいと、そう想ったのだ。
だが考えてみればアリシアは王女の身分で、随分と暗くなったこの時間に気軽に会えるわけがない。
とりわけ今のメアリは自分の心情さえも把握しきれず、口にする言葉もどれも的を射ていない。いかに王女と懇意にしているアルバート家の令嬢と言えど、王宮の警備を任された者として今のメアリを通すわけにはいかないのだろう。それが彼の仕事なのだから無礼とは思わない。
それでも追い返すようなことはせず落ち着かせようと宥めているのは、相手があのアルバート家の令嬢だからか、それとも涙目で、それどころか雑に拭ったせいで目元を赤くさせているメアリを不憫に思ったか。
「申し訳ございません。現在王女様は両陛下と食事中です。急ぎの用でないならまた明日にでも」
「そう……そうよね……ごめんなさい、無理を言ってしまって」
警備の言葉を聞き、メアリが弱々しげに項垂れる。
そうして諦めて踵を返し、さぁ帰ろうと歩きだし……揺れるスカートから聞こえてきたカチャリという音に小さく息を飲み、意を決したかのように再び振り返った。
「あの、一度だけ! 一度だけで良いんです、アルバート家の令嬢ではなく……私が、友達のアリシアさんと話がしたいと、そう言っていると伝えていただけないでしょうか……!」
警備員の腕をとり往生際悪く頼み込むメアリの姿は到底普段の彼女らしくない。それも、王女を「友達」と口にしたのだ。無礼きわまりないのは勿論、この発言は変わり者のメアリらしくもなく、そして完璧を誇るアルバート家の令嬢らしくもない。
これには警備の者も目を丸くさせ、そしてメアリを宥めるようにその肩に手を置き「かしこまりました」と深く頷いて返した。
「たとえアルバート家のご令嬢と言えど、急用でもなくこの時間に王女様にお通しすることはできません。ですが、王女様ではなくアリシア様の元に来たご友人を追い返したとあれば我々が叱られてしまいます」
そう苦笑しながら告げ、背後にいたもう一人に声をかける。
一礼して去っていった彼はアリシアを呼んできてくれるのだろうか……と、そんなことをボンヤリと考えながら待っていると、屋敷の奥がざわつき始めた。
そうして「メアリ様!」と声をあげて走ってきたのは、勿論アリシアである。ピンクのワンピースと三つ編みに結った金の髪を揺らし、真っ直ぐにメアリの元へと駆けてくる。
「メアリ様、どうなさったんですか!?」
「アリシアさん、私……」
「お一人で来られたんですか? アディさんは?」
「アディは……彼は……」
言い掛け、メアリの瞳に涙がたまる。ここに来た理由を、アディを置いてきた理由を、隣に彼がいないことを、それらを思い返せばまた心臓が締め付けられるように痛み始めたのだ。ここが王宮で、近くに両陛下がいると分かっていても涙が溢れてくる。挨拶をしなくてはと口を開けば、掠れた声と嗚咽だけが漏れた。
それを見たアリシアが何かを察したかのように頷き、メアリの手をギュと強く握った。
「誰かメアリ様のご自宅に向かってください。メアリ様がここに居ることを、責任をもって送り届けるので迎えは不要ですと伝えてください」
「はい、かしこまりました」
「メアリ様とお話がしたいので庭園の人払いと、それと暖かい紅茶をお願いします」
「直ぐにお持ちいたします」
メアリの手を握ったまま、アリシアが近くにいたメイドや使いの者に指示を出す。
そうして改めてメアリに向き直ると、相変わらず人懐こい笑顔を浮かべ
「庭園に花が咲いたんです。外灯に照らされてとても綺麗なんですよ。是非ご覧になってください」
と穏やかな声でメアリを誘うのだ。
その一連のやりとりにメアリが涙を浮かべた瞳でジッとアリシアを見つめ
「……貴女、なんだかまるで王女様みたいね」
と呟いた。
通された庭園は月明かりと外灯に照らされ美しく、時折風が吹くと草木が揺れてザァと涼しげな音が響く。その長閑な空気と柔らかな月明かりがメアリの気持ちを幾分落ち着かせ、暖かい紅茶が喉を通るたびに心臓の締め付けを解き、ティーカップの半分程を飲み終えた頃にはメアリも大分落ち着きを取り戻していた。
そうしてゆっくりと先程までのことを話しはじめる。
アディと婚姻届にサインをしたこと。彼が何かをしたいと言うから、そのために結婚した。彼のためなら考えるまでもない決断だった。
だというのに突然アディから「愛しています」と言われ、どうして良いか分からなくなってしまったのだ。
「ずっと変わらないで一緒に居られると思っていたのに、今更この関係が男と女になってしまうのかと思うと……なんだかアディが別人になってしまうようで……」
時折目元を拭いながら辿々しく話すメアリに、アリシアが一つ一つ丁寧に頷いて返しつつ、テーブルの上で力なく握られたメアリの手を優しくさすった。まるで子供を宥めるようなその動きが恥ずかしく、それでいて暖かな手が心地良いとメアリが僅かに瞳を細める。
泣きはらし、身形を整えることなく王宮まで来てしまった。自分は今どれだけ情けない姿をしているのだろうと、そんなことを思えば動揺に更に恥ずかしさが混ざるが、その反面、握られた手の温かさと夜の暗さに徐々に安堵を感じ始めていた。
「ねぇメアリ様、私最近パトリック様と一緒に居るととても落ち着くんです」
「落ち着く……?」
「はい、パトリック様とお付き合いし始めた頃は会う度に胸が高鳴って、パトリック様の仕草一つ一つに胸がしめつけられて、抱きしめられると震えそうな程に緊張してドキドキしっぱなしだったんです。でも……」
「でも?」
「今はパトリック様の腕の中にいると落ち着けるんです。あんなにドキドキして緊張で頭が真っ白だったのに、今はパトリック様の腕の中がどこよりも落ち着く場所なんです」
照れくさそうにアリシアが笑う。そうして何かを思い出したかのように「あ、でも」と付け足した。
「今でもパトリック様のことは格好良いと思ってますよ。この間もお父様と難しい話をされていて、その時にふと私に気付いて笑いかけてくれたんです。真剣な表情がふっと柔らかくなった瞬間のあのお顔は、それはもうドキドキするほど眩しくて愛おしくて」
「あと三回惚気たら、私帰る」
「冗談ですよぅ」
グスンと鼻をすすりながらも冷ややかに言い切るメアリに、アリシアがプクと頬を膨らませた。
そうして改めて「それでですね」と再び話し始める。
「最初の時はもっとパトリック様と一緒に居たいって、どうしたらもっと一緒に居られるんだろうって、そう考えていたんです。でも今は『これから二人でどう過ごしていこう』って、そう考えるようになったんです」
照れくさそうに、それでも嬉しそうにアリシアが微笑む。
パトリックのことを考えているのだろうか、柔らかなその笑みはメアリの知る恋する少女の微笑みとは少し違い、いつの間にか伴侶を愛おしむ包容力すら感じさせるものになっていた。いつ変わったのか、そう思い返して見るも明確な時期などなく、それでもアリシアの表情は昔の彼女とはどこか違っていた。
愛していると自覚し、愛されていると誇り、それが彼女の笑顔を変えたのだろうか……。
「考えるまでもなく一緒に居て、だからこそ、その先を考える。恋が愛に変わるってこういうことなのかなって、最近思うんです」
「恋が、愛に……」
「メアリ様はきっと、アディさんに恋をするより先にそういう関係になったんです。だから、今改めて恋をして、戸惑っているんじゃないですか?」
ね、と同意を求めてくるアリシアに、メアリが戸惑いを見せた。
彼女とパトリックの話は素敵だと思う。誰もが憧れるような話だ。まさに恋物語の王子様とお姫様ではないか。
だがそれに自分とアディが当てはまるのかと考えれば、やはり今一つピンとこない。なにせ今まで恋愛など関係ないと思っていたのだ。
夜更かしして読みふけった恋物語も思い描く王子とお姫様のお話に過ぎず、自分とは無縁の世界の話だと思っていた。
「でも……私恋愛なんて出来ないと思って……。だってパトリック相手にだって、そんな感情一つ抱かなかったのよ」
そう呟くように訴えるメアリに、アリシアがクスと小さく笑みをこぼした。
「メアリ様は、いずれパトリック様と結婚すると……そう考えていたんですよね」
「えぇ、そうよ……」
「それはパトリック様なら家柄が釣り合うからですか?」
「家の関係もあるし、それにパトリックは優れてるから伴侶として申し分ないし。私の性格も知ってるもの」
「それにパトリック様は背が高くて格好良くて頭が良くて優しくて男らしくてそれでいて時々可愛くもありますもんね!」
「……あと二回」
「冗談ですってばぁ」
着実に減っていく残数にアリシアが再び拗ねた表情をする。
そしてメアリの手を優しく握ると、「でも」と笑いかけた。
「でもねメアリ様、メアリ様がパトリック様との結婚を考えていたのは、それだけじゃありませんよね。だってメアリ様の元には今たくさんの結婚の申し出が来ているのに、全て断っているでしょ」
そう笑いかけるアリシアに、メアリが確かにその通りだと頷いて返した。
流石にパトリックと同じレベルの男が山ほど……とはいかないが、それでも殺到する申し出の中には彼と同じような『誰もが焦がれる王子様』が居た。爽やかで見目の良い文武両道な青年、年上の魅力と包容力を持った紳士、果てには『まるで王子様』といった比喩どころではなく近隣諸国の王族関係からも申し出があったのだ。
だがそれら全てをメアリは断っていた。
どんなに見目が良くても、どんなに優れていても、断るのが気が引けるほど高貴な相手でも、メアリが変わり者だと承知しそれも魅力の一つだと言ってくれるような相手でも、それでも全ての申し出を断っていた。
父親が苦笑を浮かべながら「好きにしなさい」と言ってくれたのを申し訳ないと思いつつ、それでも
「パトリックのような人がまた現れてくれるのを待っている」
と、言葉にこそしないが、そんな空気を漂わせて男達の辞退を促していた。
だが、けっしてメアリは嘘をついていたわけではない。確かに使い勝手の言い断り文句だと思っていたが、事実パトリックのような人を待っていたのだ。
結婚しても良いと思える相手。見た目でもなく、家柄でもなく、性格でもなく、
「パトリックなら良いと思っていたのよ。家柄がよくても、性格がよくても、パトリック以外は……」
ポツリポツリとメアリがこぼす。
そうして最後に「だって……」と吐き出すように呟いた。
いつだってあやふやにしてきた、唯一にして絶対に譲れない理由。パトリックとの結婚なら受け入れられた、そうなるべきだと考えられた、たった一つの理由……
そうよ、だからパトリックなら良いって思えたのよ。
だって彼だけなんだもの、彼だけが他の男の人と違ってた。彼だけが……
「パトリックだけが、私の一番近くにアディがいることを当然だって受け入れてくれたのよ……」
今までうやむやにして考えずにいた理由をようやく口にした瞬間、メアリの瞳から堰を切ったように涙がこぼれだした。
他の男性はどんなにメアリに対して下手に出ていても、アディに対しては違っていた。彼を下がらせ、遠ざけ、なかには直接的に「馴れ馴れしく彼女に接するな、身分を弁えろ」と言って叱咤する者までいたのだ。
もちろんそれはメアリとアディの『主人と従者』を越えた仲の良さが原因なのは分かっているが、それでも彼がいることが当然と考え今まで過ごしていたメアリには、彼を遠ざけようとする者こそが自分の世界を壊す侵略者でしかなかった。
何も知らないくせに!と何度心の中で吠えたことか、彼のことも、自分のことも、何一つ知らないくせに、「婚約者候補」というだけで私の世界を壊さないで!と。
だがパトリックだけは違い、メアリの隣にアディが居ることに文句を言わずにいた。エスコートされてパーティーに行くときも、親が「せっかくだから二人で」とわざとらしく準備した茶会でも、彼はアディが居ることを当然として、叱咤することも下がらせることもせず、それどころかそうあるように物事を進めてくれていた。
従者としてジッと立っていたアディを見上げて「どうした、座らないのか?」と不思議そうに声をかけてくれたのはパトリックだけだった。食事に行くときも、いつだって三人分の予約をしてくれた。
だからこそパトリックとの結婚なら受け入れられた。互いに身分が釣り合うと体の良い理由をつけて、本当は変わらずアディと居る未来のために……。
没落も、婚約も、描いた未来にはいつだって彼がいた。
アディと一緒なら北の大地も大学も、どこだって悪くない。そうずっと考えていたではないか。
「メアリ様、ご自分の気持ちに気付かれたのならもう大丈夫ですね。だって、これからずっとアディさんと一緒なんですもの」
「ずっと……」
「えぇ、だってメアリ様とアディさんは結婚したんですから」
嬉しそうに告げるアリシアに、メアリがキョトンと目を丸くさせた。
そうしてポツリと「そうね、結婚したのよね」と自分自身で確かめるように呟いた。
「でも……それってなんだかとても変な順番なんじゃない?」
物心着いた時には既に一緒にいることが当然と気付かぬ愛を抱き、結婚して、そして恋をする。
まるで逆回しに辿っているような恋愛など聞いたことがないと不安げに訴えるメアリに、アリシアが「そうですね」と笑ってメアリの頬を撫でた。
擽るように軽く涙のあとを拭われ、メアリが僅かに目を細める。
「確かにちょっとおかしいけど、でもメアリ様らしいと思いませんか?」
「……それって、私がおかしいってことかしら?」
「えぇ、そうですよ。変わり者で時々不思議なことをして、意地悪で厳しくて、でも誰より優しくて、分かりにくくて分かりやすい、そんなメアリ様にはピッタリじゃないですか」
「……貴女も言うようになったわね」
涙目ながら睨んでくるメアリに、アリシアが「でも」と付け足してメアリの手を両手で握りしめた。
「でも私は、そんなメアリ様が大好きです」
と、そう真っ直ぐ告げられた言葉にメアリが僅かに目を丸くさせた。
そうしてゆっくりと頷いて、まだ涙が残った瞳で微笑みながら握られた手を握りしめて返す。
「私も……私も貴女が大好きよ、アリシアさん」
自分の気持ちを素直に告げれば、それを聞いたアリシアが一瞬キョトンとし「嬉しいけど、駄目ですよメアリ様」とクスリと笑った。
「今それを私に言ったら駄目ですよ。私、嫉妬されちゃいます」
「嫉妬?」
誰に?とメアリが首を傾げる。
それを見たアリシアが柔らかく微笑み、真っ直ぐにメアリを見つめていた視線を僅かに上にずらした。
まるでメアリの背後に誰かいるかのように。
「ねぇ、アディさん」
と、そう楽し気に話しかけるアリシアの言葉に、メアリが「え……」と小さく声をあげ、慌てて振り返った。
その瞬間、吹き抜けた風がザァと音を立てて草木を揺らし、メアリの銀糸の髪と、背後に立つ人物の錆色の髪を揺らした。