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緩やかな振動を続ける馬車の中で、メアリはアンナから預かっていた絵はがきを眺めていた。
アンナの父親が出稼ぎ先から送ってきていたという絵はがき。
紙は劣化し、描かれている風景も掠れて宛名や文字に至ってはくすんで読めやしない。
お世辞にも質がよいとは言えない紙質のはがきに、これまた同様にあまり良いとは言えないインクで文字を綴ったのだろう。数年で劣化するのも無理はない。
それに、保管状況に関しても良かったとは言えない。
アンナ曰く、彼女の母親はこの絵はがきをしまいこんでいたという。
だが、せっかくの夫からの絵はがきなのに、そんな雑な扱いをするものだろうか。
「……もしかして、見たくなかったのかしら」
ポツリとメアリが呟いた。
手にしている絵はがきは随分と昔の日付で止まっている。アンナが生まれる直後くらいだろうか。
もしも抱いた仮説が正しかったのなら、アンナの母親がこの絵はがきをしまいこんだ気持ちも分かる。
「……お姉ちゃん、どうしたの?」
ついと服の裾を引っ張られ、絵はがきに視線を落としていたメアリがはたと我にかえって顔を上げた。
アンナが様子を窺うようにこちらを見ている。彼女だけではなく、アリシアやパトリックも不思議そうにメアリを見つめ、アディが代表するようにどうしたのかと尋ねてきた。
「べ、別になんでもないわ。ちょっと考え事をしていただけ」
「そうですか? もし気分が優れないようでしたら、一度アルバート家に戻ってお休みになられた方がいいかと思いますが」
「大丈夫よ。だ、大丈夫……大丈夫だから、クッションを隙間に詰めてこないで!」
狭い! とメアリが喚き、傍らに詰め込まれていたクッションをズボっと抜いた。
よく見ると覚えのない目新しいクッションだ。聞けば先程訪れた花畑の売店で買ったという。まさかこの移動の最中にも増やすとは……。
思わず「今後クッション購入は禁止!」と声をあげ、手にしていたものは向かいに座るアリシアへと投げつけておいた。きゃー! と黄色い声があがり、アリシアに当たる直前にパトリックの手に止められる。
「メアリ、体調が優れないようなら俺も休憩を取った方がいいと思う。当初の予定より長旅になるかもしれないしな」
「パトリックまで、心配しすぎよ」
「君の立場上、どうしようもないとしても無理はすべきじゃないだろ」
だから、と珍しく粘ってくるパトリックに、メアリが眉間に皺を寄せた。
立場上、とはどういうことだろうか。
パトリックの観察力と鋭さはメアリも一目置いている。もしやすでに彼はメアリの妊娠に気付いているのかもしれない。
メアリがふんと荒く息を吐き、アディを睨みつけた。ほらバレちゃったじゃない! と鋭い視線で咎める。
「さすがパトリックだわ。でも私にも立場ってものがあるの、黙っていてちょうだいね」
「あぁ、分かってる。おいそれと公表できることじゃないもんな」
意図を汲んでくれるところもさすがパトリックだ。
不思議そうにメアリとパトリックに視線をやり「何ですか? 何のお話ですか?」と頭上に疑問符を浮かべているアリシアとの差といったらない。
パトリックにばれてしまったことは想定外だが、彼ならば言いふらしたりはしない。当然パーティーもパレードも開かないはずだ。
メアリの立場や影響力も分かっているはずだし、いざとなれば協力してくれるだろう。ばれてしまったのは悔やまれるが、その相手が彼で良かった。
「アリシアさんに強請られても言っちゃ駄目よ?」
「隠し事なんて酷いです。こうなったら何としてでもパトリック様から聞き出すしかない……。今こそ必殺の一手を使います!」
そう得意げに告げ、アリシアがズイとパトリックへと詰め寄った。
甘えるのかもしくは色仕掛けか、とメアリとアディが彼女の次の行動を見張る。――ちなみにアディがアンナの頭に手を置いているのは、アリシアが色仕掛けに出たら目を覆ってあげるつもりなのだろう――
パトリックも愛しの妻には強く出られないのか「お手柔らかに」と苦笑を浮かべている。
はたしてアリシアは何をするつもりなのか……。
と誰もが目を見張る中、彼女はおもむろにパトリックの手を己の両手で包んだ。細い彼女の手が、しなやかでいて男らしいパトリックの手を包む。
麗しい男女が手を取り合って見つめ合う。パトリックの濃紺の髪が揺れ、アリシアの金糸の髮の輝きを増させる。なんて美しい光景だろうか。
そうしてしばらく二人は見つめあい……、
「アリシア、俺はチョコレートじゃ釣られないからな」
と、パトリックがため息混じりに肩を落とした。
ゆっくりと開かれる彼の手の中には、コロンと転がる小さな包み。
「そんな……! 必殺の一手が失敗するなんて!」
「まったく、いったい何を仕掛けてくるかと思ったら……。アンナ、チョコレートは好きかい?」
パトリックが穏やかに微笑み、渡されたチョコレートをアンナに譲る。
ピンクの包みの可愛らしいチョコレートだ。アンナが嬉しそうに受け取り、さっそくと包みを開けだした。パクンと口の中に放り込みコロコロと転がすと途端に表情を綻ばせる。
それを見るパトリックはもちろん、必殺の一手が失敗したはずのアリシアも嬉しそうだ。
おおかたアリシアは自分の『必殺の一手』が失敗し、パトリックからアンナにチョコレートが渡ることは予想済みだったのだろう。自分は既にアンナと仲良くなったので、今度はパトリックとの仲介をと考えているのか。
微笑ましい光景に思わずメアリが笑みをこぼした。
彼等はきっと自分達の子供にもこうやって優しく接してくれるだろう。もしかしたら我が子のように溺愛してくれるかもしれない。
「役に立ちそうだから、手伝いくらいはさせてあげても良いかもしれないわね」
ツンとすましてメアリが告げれば、言わんとしていることを察してアディが苦笑を浮かべた。
ガタン、と馬車が止まったのは、雑談を続けていた最中である。
目的地に着いたわけでもなく、いったいどうしたのかと誰もが窓の外を覗く。
「メアリ様、こちらにいらっしゃいましたか」
「あら、ロベルト」
窓からひょいと顔を覗かせたのはロベルトだ。
どうやら新たな情報を掴んで馬車を追いかけてきたらしい。
だがその内容はあまり好ましくないもののようで、「少しお話が」と告げる彼の声は普段よりも少し低い。
切れ長の瞳がアンナを一瞥するのは、彼女には聞かせられないと言いたいのだろう。
「アンナちゃん、ちょっとお外で休憩しましょうか。私と一緒に後ろの馬車に行って、追いかけてくる二人を逆にビックリさせましょう」
アリシアが悪戯気味な笑みを浮かべてアンナを誘う。
それを聞き、アンナもニンマリと笑みを浮かべて大きく頷いた。どうやらロベルトから漂う深刻な空気には気付いていないようだ。
ひとまずアリシアにアンナを任せて見送れば、彼女達と入れ替わるようにロベルトが馬車に乗り込んできた。
深く一息吐く彼を労い、どんな情報を持ってきたのかと話を促す。
「アンナの身元が分かりました。彼女はシルビノから来たようです」
「シルビノ!? 国を一つまたいで来たってこと!?」
「えぇ、子どもの行動力には驚かされますね。ラング様とルシアン様の国内逃亡がまだマシだと思えるほどです」
「お兄様達は子どもじゃないのよ。……と言いたいところだけど、現に私達のあとをつけてきてるし何も言えないわね」
「屋敷に残って業務をお願いします、と伝えておいたんですけどね」
ロベルトが錆色の瞳をより鋭くさせる。きっと彼の脳裏には自由奔放で行動力にあふれすぎている二人の主人が浮かんでいるのだろう。表情には出ていないが、ひしひしと怒りの気配を感じさせる。
メアリが許可を出せば、今すぐに後続の馬車に乗り込んでいきそうなほどだ。
その後どうなるか……と思い浮かべ、今はアンナの問題だと思考を切りかえた。あまり想像したくない。
「とりあえずお兄様たちのことは置いといて、どうしてアンナの身元が分かったのに浮かない顔をしているの? 確かにシルビノは遠いけど、馬車をかっ飛ばせば明日の朝には着くじゃない」
「……それなんですが」
浮かない表情でロベルトが話し出す。
それはメアリが予想をしていた以上に過酷なものだった。
アンナはシルビノのとある領地で暮らしていたという。
父親はアンナが生まれる前に出稼ぎに出ており、彼女が赤ん坊の頃こそ定期的な便りを寄越し時には顔を見に戻っていたが、数年前から音沙汰がなくなったらしい。
ロベルトの調べによれば、父親は仕事を求めて各地をさまよい、その果てに別の女性と出会い、そこで家庭を築いてしまったのだという。以降アンナ達のもとへは帰ることも連絡もせず今に至る。
ロベルトが語る話に、メアリが息をのんだ。妻子を残して別に家庭を設けるなど、なんて薄情な話だろうか。
「だからアンナのお母様は絵はがきを隠してしまったのね……」
「頼れる親族もおらず、女手一つで子供を育てるのは苦労したことでしょう」
「それで無理をして倒れてしまい、アンナが父親に助けを求めてきた……。あの子はまだ父親が自分達の為に働いていると信じてるのね」
幼い子供に突きつけるには辛すぎる現実だ。
もしかしたらアンナの母親は、幼い娘が傷つかないように父親の現状を隠していたのかもしれない。
「調べたところ、アンナの父親は錆色の髪に同色の瞳だったそうです。彼女は母親からそれを聞き、最後に届いた絵はがきに書かれていた場所で見つけたアディを父親だと勘違いしたのでしょう」
ロベルトの推測は理にかなっている。
……かなっているが、これほど悲しい話はない。
その憤りは誰もが抱いているのだろう、とりわけアディは悲痛そうに顔をゆがめ、窓の外を眺めている。
アリシアに連れ出されたアンナがラングとルシアンと遊んでおり、事情を知らなければ楽しげな光景として映っただろう。時折アンナがあげる高いはしゃぎ声はなんとも子供らしい。
あれほど小さな少女が、自分達に背を向けた父親をそうとは知らずに探し歩いていたのだ。
それも国を越えてまで……。
倒れた母親を助けるために必死だったのだろう。その胸中を思えばメアリの目尻に涙が浮かぶ。
一人の大人として、いずれ子を持つ者として、これを見捨てるわけにはいかない。
「アンナの家に行きましょう。あの子のお母様に話を聞いて、必要ならアルバート家が支えるわ」
「お嬢、よろしいのですか?」
「もちろんよ。アンナはアディの子どもじゃないけど、今の私にはあの子を家に返しておしまいなんてできないわ!」
メアリが意気込んで告げれば、アディが安堵の表情を浮かべた。パトリックも苦笑しながらロベルトと「これぞメアリ」「さすがお嬢様」と頷き合っている。
だがそんなメアリの決意を制止するように、ロベルトが「ですが一つ問題が」と話し出した。
「問題?」
「アンナの住んでいた地域です。治安がよろしくないようで、言ってしまえば……貧民街といったところでしょうか」
あまり口にすべき言葉ではないと考えているのか、声を潜めてロベルトが話す。
その言葉にメアリとアディが息をのんだ。対してパトリックが「そういえば」と口を開く。眉間に皺を寄せた、爽やかな彼らしくない険しい表情だ。
「聞いたことがあるな。シルビノはその土地の管理を殆ど領主に任せていて、地域によっては貧富の差が激しいらしい」
「それであの子の父親も出稼ぎに出なきゃいけなかったってこと? そんなの許されないわ!」
「許されないと言っても他国のことだし、俺達が口を挟めば問題になりかねない。それに国を一つ跨いでるんだ」
簡単には話を進められない。そうパトリックが訴える。
それに対してメアリは考えを巡らせた。
脳内に地図を思い浮かべる。自国とシルビノは確かに国を一つまたいでいる。
だがその跨いでいる国は……。
「私達が口を挟めないなら、私達以外に口を挟ませればいいのよ」
そうはっきりとメアリが告げれば、脳内に浮かんでいた地図の一国で、泣き虫な令嬢が両手を広げて歓迎してくれた。