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ケーキを食べ、そのうえメアリが「お腹がすいてるならこれも食べていいのよ」と差し出した渡り鳥丼も食べ、落ち着いたアンナが身の上を話しはじめる。
といっても子供の話だ。時系列はめちゃくちゃで、時には親恋しさに涙ぐんでアディに抱きついてしまう。それを急かすのも忍びなく落ち着くのを待ち、また一つ一つ彼女の話を聞いて紐解いて……と話を進めた。
おかげで、アンナが話し終えた時には既に日も落ち、夜と言える時間だ。
「……まさか、二日間も歩き通しだなんて」
思わずメアリがポツリと呟けば、それを聞いていたパトリックも真剣な表情で頷いて返した。
アンナのたどたどしい話を紐解けば、彼女は今朝どころか二日前の昼に家をでているというではないか。それからひたすら歩き続け、夜を越え、そうしてアディを見つけたのだという。途中で馬車にも乗ったというから驚きだ。
その最中、危険な目に遭わなかったのが奇跡と言えるだろう。
幼い子供が一人で出歩き、夜を過ごすとなれば何かあってもおかしくない。国内はおろか近隣諸国も治安が悪いわけではないが、それでも子供の一人歩きは危険だ。日中の長閑なおつかいとはわけが違う。
「こんな小さな子供が一人で歩いて、どうして途中で誰も保護してあげなかったのかしら」
「はっきりと『父親に会いに行く』と言っていたらしいから、それを信じたんだろうな。誰だってこんな小さな子供を見れば、そう遠くから来たとは考えないだろう」
「だからって……」
言い掛け、メアリがアンナへと視線を向ける。
食事を終え、話し終え、彼女はうとうとと船をこいでいる。二日間歩き続けようやく安心出来る場所を見つけ、たまっていた疲労が一気にきたのだろう。
いつ頃からか、もとよりたどたどしい話はさらに間延びし、返事も緩慢としたものになっていた。しばらく黙り込んだかと思えばカクンと頭を下げ、その衝撃ではたと目を覚まして再び話し出すことも幾度かあった。
これでは話し続けるのは難しいだろう。そう判断して誰からともなく話を中断すれば、ついに眠気に負けたのかアンナがポスンとアディの体に身を預け、ゆるやかな寝息を漏らし始めた。
アディがそっと小さな体を抱き抱える。くったりと四肢を伸ばしているあたり、完全に寝入っているのだろう。
「少し寝かせた方がいいですね。起きたらお風呂に入れてあげたいんですが……」
さすがに自分では対応出来ないとアディが困惑すれば、アリシアが「はいっ!」と小声ながらに威勢良く手を挙げた。
「私がアンナちゃんに付いていてあげます! お風呂も私に任せてください!」
「アリシアさん、いいの? うちに泊まることになるけど……。まぁ、あんたがうちに泊まるなんてよくある話ね」
「大丈夫です。私のお泊まりセットもパジャマもちゃんと置いてありますから。アルバート家のお風呂も勝手知ったるものですよ!」
「……この機に乗じて、うちに入り浸ってるのを正当化させようとしてるんじゃないわよね」
疑わしい、とメアリがアリシアを睨みつける。
だがアリシアはその言及を華麗に聞き流し、アディに近付くと腕の中で眠るアンナの顔を覗きこんだ。「可愛い寝顔」という声は慈愛に満ちているが、メアリにはどうしても白々しく思えてしまう。
もっとも、白々しくはあるものの、子供の扱いに長けたアリシアの助力はありがたい限りである。仕方ないとメアリはこの件については口をつぐむことにした。
「それじゃアリシアさん、アンナのことをお願いね」
「はい! ではアディさん、急がず、揺らさず、慎重に、アンナちゃんをベッドまで案内しましょう!」
メアリに頼まれたからか、アリシアが更に意気込む。
それに対してアディが苦笑混じりに肩を竦めることで応え、一礼……はアンナを気遣って出来ず、軽く頭を下げると部屋を去っていった。
「あまりよろしくない情報が」
と、ロベルトが入ってきたのは、ちょうど彼等と入れ替わるようにである。
ベッドにアンナを運んだアディが部屋に戻り、一息ついたところでロベルトが調べた情報を話し出した。
彼の指揮のもとアルバート家の使い達が調べた結果、国内にはアンナという迷子はいなかったという。
「それってつまり、国外から来たって事よね……?」
「捜索範囲は広げておりますが、さすがに他国の事となると……」
「アンナのお母様は入院していると言っていたわ。もしかしたら、誰も彼女が居なくなったことに気付いていないのかも……」
親さえも把握していない異国の迷子。となれば、捜し当てるのは容易ではない。
やはり頼りはアンナ本人になるだろう。だが無理に聞き出そうとしても彼女を怯えさせるだけだ。
これは長期戦になるかもしれない……。そうメアリが考えつつ、テーブルの上においてある絵はがきに手を伸ばした。
「それは?」
「この絵はがきを頼りに、アンナは父親を捜していたらしいの。出稼ぎに出ていた父親が送ってきたものらしいわ」
「出稼ぎですか」
「えぇ、それも随分と長いこと出稼ぎに行って帰ってきていないみたい。あの子は父親の顔も覚えてなくて、それでアディを父親と勘違いしてしまったのよ」
ロベルトに説明しつつ、メアリが一枚また一枚と絵はがきをめくる。
といっても絵はがきはたったの五枚。それも随分と古く、管理も雑だったのか紙が劣化している。住所が読めればすぐに解決できるのに、残念ながらそれも掠れて読みとれない。
唯一残っているのが絵はがきに描かれた風景だけだ。幼いアンナは、この絵はがきの景色を辿っていけば父親に会えると考えたらしい。
小さなポシェットにはこの絵葉書と、くしゃくしゃのハンカチ。それに割れたクッキーが数枚と、子どものお小遣いとさえ言えない少額のお金。それだけが入っていた。
父親探しの旅に出るには不十分な備えだが、幼いアンナが精一杯考えて用意したのだろう。それを思えば胸が痛む。
「あんな小さな子が、絵葉書を頼りに歩いていたなんて……」
溜息混じりにアディが呟き、メアリの手から絵葉書を一枚抜き取った。文字もなにもかもが掠れ、頼りの風景画すらも色あせてぼやけている。
これを頼りに歩くなど、心許ないどころの話ではない。無謀も良いところだ。
それでもアンナにとっては父を捜す唯一の手段であり、ポシェットから取り出す際も彼女は後生大事に扱っていた。
「だけど……」
そうメアリが小さく呟いた。
絵はがきの文字は掠れ、まともに読めるものではない。どれも随分と古ぼけており、数年は経過しているだろう。
アンナが言うには、家にはこの五枚しか絵葉書が無かったという。それも母親は箱にいれてしまい込んでいたらしい。
寂しげに話すアンナを思い出し、メアリが小さく溜息を吐いた。
長く出稼ぎに出て帰らない父親。唯一の便りも数年前から途絶えている……。
「お嬢、思うところもあるでしょうが、とりあえずアンナの親を探しましょう。父親のことはまず彼女を親元に帰してからです」
「そうね……。明日から馬車を出して、アンナが来た道を辿ってみましょう。ロベルト、引き続き捜索を続けてちょうだい」
メアリが命じれば、ロベルトが頭を下げる。
それに続くようにパトリックがロベルトを呼んだ。
「人手が足りないならダイス家からも出そう。メアリ、明日は俺も同行していいだろう?」
「あら、いいの?」
「さすがにアリシアほどじゃないが、俺も弟達の面倒を見て子供の扱いは多少心得てるつもりだ」
「そうね、懐かしいわ。お母様達が茶会をしている横で、パトリックはバーナード達に本を読み聞かせてあげていたのよね。……その隣で、私はカエルを手にしたお兄様達に追いかけられていたわ」
嫌な記憶が……とメアリが眉間に皺を寄せた。
ダイス家の知的な兄弟達と比べて、アルバート家の騒々しさといったらない。たいていはメアリの雷鳴のような悲鳴が響き、アディが駆けつけ、ロベルトが兄達をしとめて終いとなるのだが、それを含めて騒々しい。
同じように国が誇る名家なのに、なぜこうも違うのかしら、とメアリが内心でごちた。
家の事情はそれぞれとはいえ、差がありすぎる。
だが今はそれを悩んでいる場合ではない、アルバート家の騒々しさについて考えるのは後日だ。そう考え、メアリはふると首を横に振って雑念を掻き消した。――こうやって後回しにしてばかりいるせいで、いまだにアルバート家は騒々しいのだが――
「でも、パトリックとアリシアさんが同行してくれるなら心強いわ。ねぇアディ」
「えぇ、もちろんです。ですが、今回の件は俺がもちこんだ厄介事です。お嬢はお屋敷に残っていてくださってもいいんですよ。あまり遠出をせず、安静にしていたほうが……」
「安静? メアリ、どこか具合でも悪いのか?」
アディの言葉に、パトリックが案じるようにメアリを見つめてくる。
明らかな失言である。アディがしまったと僅かに表情を渋くさせ、ロベルトが咎めるように冷ややかに実弟を睨みつける。
対してメアリは涼やかな表情を保ったまま「ちょっとね」と誤魔化した。子供の相手は不得意だが、こういう時に取り繕って誤魔化すのは得意だ。
「体調が優れないなら、君はアルバート家に残っていた方がいいんじゃないか?」
「大丈夫よ。アディが心配性なだけだもの。それに、これは具合が悪いわけじゃないわ。私が受け入れるべきことよ」
穏やかに微笑み、メアリが己の体を両腕でぎゅっと抱きしめる。
こうすればお腹の子供も抱擁を感じてくれるだろうか。そんなことを考えれば愛おしさがより増していく。
「受け入れる……? まぁ、具合が悪いわけじゃないなら問題ないか。それじゃ、俺は一度戻って準備をしてくる。明日の朝またおじゃまさせて貰うよ」
「パトリック様、お送りいたします。出来ればダイス家によって人手をお貸し頂きたいのですが」
「あぁ、分かった。それじゃメアリ、アディ、失礼するよ」
パトリックとロベルトが同時に立ち上がる。
そうして二人が部屋を出ていけば、残されたのはメアリとアディ。深く一息吐くとともにメアリがアディの腕をペシンと叩いたのは、もちろん先程の失言を咎めるためである。
『安静にすべき』だなどと、ほかでもない勘の良いパトリックならばすぐに気付いてもおかしくなかった。
これに対してアディがクッションを一つメアリの脇に差し込んでくるのは詫びだろうか。今一つ分からないものの、メアリはもう一発きめてやろうと掲げていた手の矛先をクッションへと変えた。
ポスンと柔らかなクッションを叩き、呆れと怒りを訴える。
「まったく、迂闊なお父様だわ。ねぇ、そう思わない?」
わざとらしい口調で自分の腹部へと話しかければ、アディが困ったように頭を掻いた。
そうしてメアリとの距離を詰め、片手をそっとメアリの腹部へと触れた。優しくさするのは子供のためか、それともメアリの機嫌を直すためか。
「申し訳ありません。ですが、お嬢を案じてのことなんです」
「あら、案じてるのは私だけなのね」
酷い父親、とメアリがわざとらしく拗ねるように告げる。
それを聞いたアディが苦笑を浮かべたのは、メアリの言わんとしていることを察したからだ。
どことなく照れくさそうで、それでいて幸せで溜まらないと言いたげな表情。なんと締まりなく愛おしいのだろうか。
「お嬢と、俺達の子供を案じてるんです。ですからどうかご無理はなさらないでください」
「アディが一緒なら大丈夫よ。……でもそうね、身重の体で自室に戻るまでの道のりは不安だわ」
「それならご案内しますよ。なんでしたら、ベッドの中までご案内しましょうか」
「さっきの言葉は撤回してあげる。頼りになるお父様だわ」
クスクスと笑いながら冗談めいた言葉を交わし、アディに片手をとられてゆっくりとメアリが立ち上がった。
「そういえば、お兄様達が大人しいのが気になるわね。結局カエルもトカゲも持ってこなかったし」
「きっとラング様とルシアン様もお考えがあるんですよ。もしかしたら、お嬢や兄貴がアンナの件で掛かり切りになるから、その穴を埋めようとしてくださっているのかもしれません」
「そうね、さすがにお兄様達も今回は兄らしさを見せてくれるわね」
そんな言葉を交わしつつ、夫婦寄り添って、まるで間に子供を挟むようにメアリの自室へと向かった。
翌朝、アルバート家の屋敷から一台の馬車が発った。
乗っているのはメアリとアディ、そして今朝からずっとアディにくっついたままのアンナ。向かいにはアリシアとパトリックの姿もある。
……そして、その馬車が発って直後。
「前の馬車を追ってくれ!」
「……絶対に見失うな」
と、ラングとルシアンを乗せ、もう一台の馬車が出発した。