11
庭園には小さくシンプルな噴水があり、夜でも微かな音をたてて水を流している。
そんな噴水の水面を眺めていると、「来てくださったのですね」と声を掛けられた。密会ゆえに足音を潜めていたのか、振り返ればマウロが立っている。
夜の暗がりの中、月明かりを受けて佇む彼の姿は様になっている。……が、様になっているとはいえあくまで平凡の域を出ないのは、彼の見目やスタイルが極平凡だからか。
現にメアリは彼に見惚れることなく、すぐさま視線を噴水へと戻してしまった。軽い水音を立てて水面が揺れ、映り込む月はふよふよと崩れている。
「私は庭園に居るだけよ。誘いに応じた覚えはないわ」
「貴女が庭園に足を運ぶ、それだけでフェイデラでは応じたも同然です」
「身勝手な風習ね。それで、話ってなにかしら」
あまり雑談を交わす気にはならない、そう棘のある声色で返すことで訴え、メアリが用件を促した。情緒の無い早急さにマウロが肩を竦める。
だが彼とて逢瀬のやりとりはさほど期待していなかったのか、メアリの口調に怒りや落胆を感じている様子はない。肩を竦めるだけで、穏やかに微笑むと一歩近付いてきた。
「貴女の秘密を知っています」
「……秘密?」
「えぇ、貴女が持っている誰にも言えない秘密。アルバート家令嬢がここまでのし上がったのは、貴女の才知や人望ではない、その秘密のおかげだ」
「何の事かさっぱり分からないわ。戯言を聞かされるくらいなら、他の殿方達の褒め言葉の方がマシね」
ぴしゃりと言い切り、メアリが話はお終いだと屋敷に戻ろうと振り返った。
だがその瞬間に体を強ばらせたのは、数歩距離を置いていたはずのマウロがいつの間にか背後に迫っていたからだ。知らずに振り返ったメアリは彼にぶつかりかけ、慌てて後ずさろうとし……そして引いた足の踵がカツンと噴水にぶつかった。
挟まれた、退路が無い、そう己の迂闊さを悔やむ。
だが危機を感じるメアリに反して、マウロはいまだ笑みを浮かべている。口角をあげるだけの薄気味悪い笑みだ。
そのうえ「危ないですよ」とわざとらしくメアリの腕を掴んできた。痛みを感じかねないほどに強いが、はたからみれば『噴水に落ちかけた令嬢を助ける子息』とでも映るだろうか。
「これほど上手くやるとは、さすがメアリ様。すばらしい」
「……上手くって、どういう事かしら」
「そう身構えないでください。僕は貴女の手腕を褒めているだけです。……ゲームの通りにいけば没落をしていた貴女が、まさかアルバート家の当主候補にまで上り詰めるなんて」
マウロの言葉に、メアリが小さく息を呑む。
『ゲームの通りにいけば没落』とは、他でもないメアリが前世の記憶としてもっている乙女ゲームの出来事だ。
「貴方、なんでそれを……。でも私は貴方なんて知らないわ」
「えぇ、そうでしょうね。僕はゲーム上には居たのかすらわかりませんから」
「どういうこと……?」
「メアリ様、『モブ』という言葉を覚えておりますか? 特筆すべきこともない雑多の一人、存在すらもあやふや、名のない端役、それが僕です」
マウロの言葉に、メアリが小さく息を飲む。
彼の口から出た『モブ』という言葉。舞台等では端役と呼ばれる、いわば『その他大勢』である。
そのうえ、マウロ自身も、自分がどうゲームに関与していたか、それどころかゲーム上に自分というキャラクターがいたかすら定かではないという。端役という呼び方すら怪しい。
なるほどだから地味なのね、とメアリが心の中で呟いた。この空気では口が裂けても言えるわけがないのだが。
「僕は自分の境遇に嘆きました。ゲームを思い出したところで、端役には追えるストーリーも無ければ、フェイデラに生まれた身には主人公達に関係する事も出来ない。……だけど貴女は違う。ゲームの『メアリ・アルバート』のストーリーをうまく利用した」
どこか羨むように、妬むように、マウロが話す。
どうやら彼はメアリが前世の記憶を利用し、没落を回避、はてには今の地位を得たと考えたようだ。
メアリが僅かにたじろぐ。だがここで動揺を見せるまいと自分に言い聞かせ、冷静を取り繕ってマウロを睨みつけた。
「馬鹿げたことを言わないでくださる? フェイデラの男は褒め言葉が通じないと戯言を言い出すのかしら」
「貴女は誰よりも先にアリシア王女に声をかけたというではありませんか。まだ彼女の素性も分からず、身分違いの学園に通う民間人だったのに。それは彼女が王女であると確信があったからでしょう?」
「私が誰に声を掛けようと関係ないでしょう。あれは、見慣れない田舎娘が学園内でみっともなく迷っていたから、学園の品位が下がると思って声を掛けてあげただけよ」
「その後も、アリシア王女の出自について真偽を問われた際、貴女は確証も無いのに彼女の味方をした。間違えれば一族もろとも立場が危うくなるのは、他でもないメアリ様ならば分かっていたはずだ」
暴いてやったと言いたげに饒舌にマウロが語る。
次いで彼は再び笑みを浮かべると、メアリの腕を掴んでいた手から力を抜いた。今度は優しく、紳士的に、メアリの手を包むように触れる。
「この事を貴女の周囲が知ったら、どう思うでしょうか? 奇異に取るか、もしかすると卑怯と罵る方もいるかもしれません」
「……卑怯?」
「えぇ、貴女は全て知っていたのですから、これを卑怯と言わずに何と言いますか。貴女は一人だけ全て知っていて、それでも自分の利益のために黙っていた」
「違うわ……」
「違う? それならなぜ、大学部時代にパルフェット嬢を助けてあげなかったんですか? 彼女が婚約破棄される事は知っていたでしょう?」
わざとらしい大仰な口振りで話をされ、メアリの表情が僅かに暗くなる。
脳裏に浮かぶのは大学部時代の事、悲しそうにガイナスに婚約を破棄されたと話すパルフェットの顔。彼女の話をメアリは黙って聞いていたが、事前に道筋は知っていた。
確かに彼女を救えたはずだ。婚約破棄は逃れぬ道だとしても、先に話して心構えの時間ぐらいは与えられただろう。いや、そもそもリリアンヌを止めることも出来たかもしれない。
それを見て取ったのか、マウロが決定打のように声高に告げた。
「なにより哀れなのはアリシア王女です。お膳立てされた友情だったと知れば、さぞや悲しむでしょうね」
マウロの口から出たアリシアの名前に、メアリが躊躇いを見せる。
アリシアはメアリが前世の記憶があることも知らず、まして自分が乙女ゲームのヒロインだなどと考えたこともないだろう。そもそも『乙女ゲーム』なるものの存在すら知らないはずだ。
自分とメアリの出会いも、身分の真偽を疑われた際にメアリが信じてくれた事も、全て裏の無い友情だと信じている。
彼女だけではない。パトリックや兄達も、メアリの前世の記憶について知ったらどう感じるか……。
「それは……でも……」
「事実を明かさず築いた関係に何の意味がありますか。メアリ様、僕は貴女を前世の記憶ごと理解してあげられます。伴侶として貴女の人生を支えるなら、秘密を共有出来る僕こそがふさわしい」
マウロが囁くように告げる。どこか熱のこもった声。誘うような穏やかな口調に反して、言い知れぬ圧迫感を与える。
メアリが思わず後ずさろうとする。だがマウロと噴水に挟まれて退路は無く、そのうえ彼の手はゆっくりとだが確実に、メアリの手を己の口元へと引き寄せている。
手の甲へのキス、それがまるで契約の証のように思えてメアリの胸に焦燥感が湧く。
だが次の瞬間この窮地においてもメアリが安堵したのは、マウロの背後にアディの姿を見たからだ。
これ以上は許すまいとアディの手がマウロの肩を掴んだ。密会だと信じ込んでいたからか、不意を突かれたマウロが驚いてメアリの手を離す。その瞬間、解放されたメアリが後方へぐらりと体勢を崩した。
風が吹き抜けて木々を揺らし、男二人の睨み合いに緊迫感を増させる。ーーそれと同時に、パシャンと響いた小さな水音も掻き消したーー
「驚いたな、まさか隠れていたとは……。男女の密会に横入りとは、フェイデラではマナー違反ですよ」
「お嬢は庭に出ていただけで、貴方の誘いに応じたわけじゃありません。それに、俺はフェイデラの男じゃないので、自分の妻に自分以外の男が近付くのを許したりはしません」
「おや恐ろしい。浅ましい出自のくせに、アルバート家のメアリ様を独り占めですか」
「出自がどうだろうが、お嬢が……メアリが選んだのは俺だ。俺だけだ」
棘のある口調でアディが断言すれば、それに臆したのかマウロが距離を取る。
だがその態度は余裕を感じさせ、そのうえ去り際にアディの肩をポンと叩くと、
「すべて知っても、そう言えるか見物だな」
と牽制の一言まで残していく。
これはきっとアディに対して『メアリの秘密を握っている』と告げて優位に立ち、同時にメアリに対しても『秘密をアディにばらす』と脅しているのだろう。
そうしてマウロの背が見えなくなり、最後の一瞬まで睨みつけていたアディがクルリと振り返った。
「お嬢、ご無事でよかっ……」
良かった、と言い掛けたアディが言葉を止める。
そうしてゆっくりとメアリへと手を差し伸べてきた。身を屈めて、随分と下方へと……。
「……一応、ご無事で良かったです」
見ていられないと顔をそむけつつ告げてくるアディの言葉に、メアリは彼の手を取りながらゆっくりと立ち上がった。
そう、立ち上がったのだ。……尻もちをついた状態から。
スカートはずぶ濡れ、靴も濡れてしまっている。立ち上がればスカートの端からポタポタと水滴が落ち、試しに絞れば纏まった水が滴り落ちた。
言わずもがな、マウロから解放された瞬間にバランスを崩し尻餅をついたのだ。運の悪いことに噴水へと。深さが無かっただけマシと考えるべきか。
「こっちは跡継ぎ争いの真っ只中だっていうのに、フェイデラの男達はしつこく口説いてくるし、そのうえ前世の記憶に関して脅されるなんて……。はてには美の女神が水浸しよ。嫌になるわ!」
濡れた手をアディの上着で拭きながら――燕尾服の裾は手を拭くのにちょうどいい――メアリが不満を訴える。
そうして綺麗さっぱり手を拭き終えると、意を決したと表情を厳しくさせた。
「でもいいわ、口説いて脅すのがフェイデラのやり方だっていうなら、私だって私のやり方で進めさせてもらうわ」
「お嬢のやりかた、ですか?」
「フェイデラの男達をいちいち手で払うなんて私の趣味じゃないわ。最初から一掃すればよかったのよ。このメアリ・アルバートに釣り合うのはどれほどのものか、フェイデラの男達に知らしめてやるわ」
ニンマリとメアリが笑う。
それを見てアディが眉間に皺を寄せたのは言うまでもない。だがメアリの笑みに嫌な予感を浮かべても、アディには断る選択肢はないのだ。
出来る事と言えば、せいぜい「なにをなさるおつもりですか」と尋ねるぐらいである。
その問いに対し、メアリは不敵に笑うと颯爽と歩きだした。
スカートをヒラリと翻し……とはいかないのが残念なところだ。翻ればさぞや決まっただろうが、あいにくと濡れたスカートは足にまとわり付いている。
「最強の盾を呼び寄せるのよ。フェイデラの男達を一掃するわ!」
夜の暗がりの中、メアリの高らかな宣言が響いた。