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「メアリちゃん、具合はどう?」
「心配かけてごめんなさい、カレンおばさま。もう大丈夫よ。ちょっと、色々とビックリしちゃって……」
「そうよね、フェイデラの風習には慣れてないものね。説明しなかった私達の方こそ謝らなくちゃ」
穏やかに話しつつ、カレンとダンがソファーに腰掛ける。
その姿は相変わらず仲睦まじい夫婦そのものだ。数分前に妻が他の男に手にキスをされ、それを夫が目撃した夫婦とは思えない。
まったくもってわけが分からない、そうメアリが視線で問えば、カレンが穏やかに微笑んで話し出した。
「みんな驚いたと思うけど、これがフェイデラの風習なの」
「フェイデラの風習? あれが?」
「えぇ、そうよ。ここは『恋多き国フェイデラ』だもの」
楽しげに自国の愛称を口にするカレンに、メアリはもちろん、誰もが目を丸くさせた。
カレン曰く、フェイデラでは男が女を口説くのは当然の事。
むしろ、女性を褒め、口説き、そしてキスを贈るまでが挨拶とさえ言われているという。それは身分の高い女性ほど顕著で、褒められ、口説かれ、どれだけの男に求められるかもステータスの一つだという。
「だからって、結婚してる私に恋人を作るよう言うのはおかしいわ。不埒よ、侮辱だわ!」
「フェイデラでは既婚者が恋人を持っても咎められたりしないわ。身分ある者なら、伴侶の他に恋人の数人いても当然なのよ」
コロコロとカレンが笑う。妻の突拍子もない話に、夫であるダンは平然と聞いているではないか。
メアリがぎょっとして視線を向けても、逆に「なにがおかしい?」と言いたげに見つめ返してくる。
フェイデラは恋多き国。
そして恋多き事を咎めない国。
恋愛感情とは抑えきれないもの、ならば抑えなければいい……という自由奔放な考え方なのだ。伴侶の他に恋人を作るのは普通の事であり、一夫多妻ならぬ『一夫一妻、ただし恋人は別』である。
あっさりと言い切るカレンの話に、メアリはいよいよをもって目眩を覚えた。思わずクラリと頭を揺らせば、慌ててアディが背中を押さえてくれる。
それほどまでに衝撃的な事実なのだ。これをお国柄の一言で済ませてしまって良いものか。
「そ、そんなの知らなかったわ……」
「私達フェイデラの国民も、自分達の考えが他国じゃ受け入れられ難いって分かってるのよ。だからみんなあんまり他国に行かないの」
「だから外交が盛んじゃないのね……。確かにこれは来られても困るわ」
国内では許されたとしても、他国では『恋多き国』などと許されるわけがない。
既婚者を口説けば問題だし、未婚の令嬢であっても不必要に触れれば無礼と怒りを買う。下手すれば家柄の問題を通り越し、国家間の大問題だ。
それを理解しているからこそフェイデラの国民は国内で恋をし、恋人を作り、時折はメアリ達のようにふらりと訪れた者達に驚愕されているのだという。
「カレンおばさまは、ダンおじさまと結婚してフェイデラに嫁いできたのよね? 辛くなかったの?」
「フェイデラの風習は私に合っていたわ」
「……そう、それはよかった。私は無理……とんでもない国に足を踏み入れてしまったわ……」
メアリが目眩を訴えるように額に手を添える。それに対してカレンが肩を竦めて「大袈裟ねぇ」と言ってくるのだが、きっとこれがフェイデラに染まった人の思考なのだろう。
妻の危機にアディは眉間に皺を寄せ、ラングとルシアンが「まずい国に来てしまった」と顔を見合わせる。あのロベルトでさえも怪訝な顔をしているのだからよっぽどだ。
だがどれだけメアリが目眩を覚えようが、アディが青ざめようが、これがフェイデラの実体であり、そして信じられないことに恋多き国はこれでうまく回っているという。
フェイデラの風習に合わぬ者は国を去り、逆にカレンのように馴染む者を受け入れる。去るもの追わず、来るもの拒まず、なんとも分かりやすい。
「でも安心なさい、フェイデラの国民は無理強いはしないわ。みんな軽いけど、軽いからこそかわしやすいの。手で払えばふわりと飛んでいくわ」
「そんな、おばさま……」
「いいことメアリ、それにラングとルシアン。貴方達は跡継ぎを決めるためにこの地に来たのでしょう、これぐらいで弱音を吐いていてどうするの!」
カレンが厳しい口調で煽る。
それを受け、メアリはしばらく考え込み……そしてカッと目を見開いた。
そうだ、自分は跡継ぎ争いのためにこの地に降り立った。兄達を蹴落としアルバート家当主の座に就くのだから、男の一人や二人に口説かれて怖じ気付いている場合ではない。
たとえ馴染めぬ風習といえどもフェイデラでの外交を進め、その手腕を見せつけねば。群がる男達を片手で払えないような者に、名家アルバート家の当主など務まらない。
そう己に言い聞かせ、メアリはぐっと拳を握りしめると勢いよく立ち上がった。
先程見知らぬ男にキスをされかけ、そこをアディに甘く上塗りしてもらった右手だ。今は燃えさかるような熱を感じられる。もちろん目眩も起こらない。
「そうだわ、フェイデラがどんな国だろうと、私は見事に外交を進めてみせる! ラングお兄様、ルシアンお兄様、フェイデラの風習が嫌なら先に帰ってくれてもいいのよ?」
まるで勝利宣言のようにメアリが胸を張って言い渡す。
それを聞き、ラングとルシアンが同時に顔を上げた。
「せっかくのメアリとの仲良し旅行……じゃなくて、跡継ぎ争いの旅に出たんだ。こんなところで引くわけにはいかない!」
「それにメアリに群がる虫を排除するのも兄の仕事だ……。たとえこの身を犠牲にしても、なんだったら俺の右手を犠牲にして、俺達がメアリを守る……!」
メアリに続いて、ラングとルシアンもやる気を取り戻す。
その熱意、そして兄達が再び舞台に上ってきたことに、メアリは満足そうに頷いた。いずれ蹴落とすとはいえ、ここで早々に音を上げられては張り合いがない。
それに、兄達がそばに居てくれるのはやはり心強い。いかに迷惑で面倒くさくて五月蠅い兄達とはいえ、メアリを大事に思う気持ちは本物なのだ。とりわけフェイデラが恋多き国で誰彼構わず口説いてくるというのなら、彼等の妹溺愛ぶりは強い盾になってくれるだろう。
もちろん、そんなことを素直に言うわけないのだが。言ったが最後、外交どころではない大騒ぎになるのが目に見えて分かる。
「それじゃ改めてパーティーに挑むわよ。カレンおばさま、仲介をお願いね。フェイデラが恋多き国と分かったからには、もう驚いたり逃げたりなんかしないわ!」
「さすがメアリ、なんて力強いんだ! 俺達も負けてられないな! でも心配だからお兄ちゃんのそばから離れないでくれよ」
「俺達の可愛いメアリの右手、誰にも触れさせない……。触れさせないために、片時もメアリから離れるものか……!」
三者三様に意気込みつつ、メアリ達が部屋を出ていく。
その背には闘志が宿っており、まるでその炎を模すように銀の髪がふわりと揺れる。麗しい兄妹三人が並ぶ姿は壮観と言えるだろう、見つけた者達がさっそくいそいそと近付いてくる。
名家アルバート家の子息と令嬢。挨拶と親交を、中には誉めて口説いてあわよくばメアリの恋人に……と考えている者も少なくないはずだ。
そんなフェイデラの国民を前に、メアリは小さく拳を握った。
まだパーティーは続いており、そして跡継ぎ争いの旅は始まったばかりなのだ。
だけど、
「私の手にキスをしていいのはアディだけよ」
小さく呟けば、兄達が苦笑を浮かべるのが隣に立っていても分かった。