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「なにが『愛と恋は別の味』よ! 薄ら寒いったらありゃしないわ。恋人なんて作るわけないじゃない!」
メアリが怒りに任せて声を荒らげるのは、パーティー会場から少し離れた一室。耳を澄ませば会場の音楽や談笑が聞こえてくるが、よっぽど大騒ぎをしなければこちらの声は届かないだろう。
マウロから逃げた後、主催を捕まえて「ちょっと目眩が……」と訴えこの一室を用意してもらったのだ。仮病というなかれ、薄ら寒い美辞麗句や侮辱に事実目眩を起こしかねない。
そのうえ、不調を訴えている最中も男達は看病を名乗り出てきた。アディが居るというのに自分が肩を貸すだの言いだし、果てにはお姫様だっこをしようとする者まで出始める。
アディが守るようにメアリの腰を掴んで連れ出してくれたものの、それでも着いてこようとしたのだからよっぽどだ。もしや部屋の外に控えているかも……とメアリが扉の外を凝視すれば、念のためにとアディが外の様子を窺ってくれた。
誰もいないという彼の言葉に、メアリがようやくほっと胸を撫で下ろす。フェイデラの男達はそれほどまでにしつこいのだ。
「いったい何なのよ……。今までも社交辞令や媚び売りで褒めてくる人はいたけど、あれほど強烈なのは初めてだわ。果てには美の女神よ、美の女神!」
「美の女神はともかく、夫の前で既婚者を誘うのはマナー違反どころの話じゃありません。それなのにダン様はまったく気にかけていなかったし……。そういえば、ダン様は『メアリとアディはフェイデラの挨拶に慣れていない』と仰ってましたね」
「あれがフェイデラの挨拶なの!? やたらと私の手にキスしたがって、手から出汁でも出たのかと思ったわ!」
私の手なんか美味しくないわよ! とメアリが死守した己の手を庇う。
メアリに群がる男達は決まってメアリを褒めそやし、そして右手を求めてくるのだ。もちろん手の甲にキスをするためである。
すんでのところで引き抜き、アディに守られ、となんとか防げてはいるが、これはゆゆしき事態である。
「それに、マウロが言っていた『秘密の共有』って何のことかしら……。もう、何もかもわけが分からないわ! なんなのよこの国は!」
キィ! とメアリが怒りを露わに、傍らに置いてあったクッションを力強く……とは流石に借り物なのでいかないが、ポスンポスンと軽く叩く。
そんなメアリをアディが宥めるも、彼の表情も渋い。妻が目の前で口説かれ、それどころか恋人に名乗り出ようとする者まで現れたのだから当然だ。
これを冷静にやり過ごせと言うのが無理な話。メアリを宥めてはいるものの、アディの胸中も穏やかではない。
「たとえお嬢の手から出汁が出ていようが、お嬢を口説いて触れていいのは俺だけです」
「そうね。出汁は出てないけど、私に触れるのも口説くのもアディだけよ」
アディの断言に、メアリが小さく笑みをこぼして彼へと片手を差し出した。
幾度と知らぬ男にキスをされそうになった右手だ。それを思い出せば忌々しく、もし手を引き抜くのが間に合っていなければ……と想像するだけで寒気がする。
これは早急に記憶を上塗りしてもらわければならないだろう。
そしてそれは、甘く愛しい上塗りでないと駄目なのだ。
だからこそメアリが強請るようにアディの目の前で軽く手を揺らせば、彼も意図を察したのか嬉しそうに表情を緩めて手を取ってきた。大きな手に包まれ、メアリの手が引き寄せられていく。
もちろん寒気もしなければ鳥肌も立たない。むしろ擽ったいような期待が胸に湧く。
「お嬢ほどの人物に恋人の一人や二人必要だっていうなら、俺が二人分だろうと三人分だろうとお嬢を愛して俺に恋をしてもらいます」
「そうね。でも『メアリ』って呼んでくれる恋人なら考えちゃうわ」
「ご冗談を……。俺を愛して、俺に恋してください。ねぇ、メアリ」
錆色の瞳を愛おしそうに細めて、アディがメアリの手の甲へとキスを落とす。
手の甲に、指に、指先に……と、まるで自分のものだと主張するかのようだ。なんて甘くて、そしてほんのりと熱い。そのうえ『メアリ』と呼ばれれば、キスをされた箇所から熱が伝って全身が溶けてしまいそうだ。
先程の記憶も薄ら寒さもどこへやら。今すぐにアディに抱きつきたくなる。
もっとも、今はパーティーの真っ最中。それも体調が優れないと言ってこの部屋に逃げ込んできたのだ。さすがにここでいちゃついたりはしない。
それに……、
「メアリ! 具合が悪いって大丈夫か!? アディの背が高すぎて、見上げ続けたからに違いない!」
「メアリが不調を訴えるなんて……。やはり隣に無駄に背の高いやつがいるせいだ……。高低差で体調を崩したんだ……」
ラングとルシアンが勢いよく部屋に飛び込んできたのだから、甘いムードも一瞬にして四散してしまう。
この突然の兄達の登場に、メアリもアディも目を丸くさせて硬直してしまった。……アディはいまだ、メアリの手にキスをしたまま。
ラングとルシアンもこの光景は予想外だったのだろう、彼等も同様に呆然としている。ロベルトだけが一人遅れて現れ、
「お二人とも、メアリ様は休んでいらっしゃるんだから間抜けなことを言わずに静かに……。おっとこれは失礼しました」
と白々しい言葉と共に後ろ手でパタンと扉を閉めた。
シンと嫌な沈黙が漂う室内に、カチャリと施錠の音が妙に大きく響く。
微かに聞こえてくるパーティーの音楽や笑い声もどこか別世界のようだ。
そんな沈黙の中、ラングがゆらりとアディへと近付いた。足取りが覚束ないのは怒りのためか、見れば握られた拳がふるふると震えている。
「アディ、お前は無駄に背が高くなっただけに飽きたらず、まさかパーティーの最中にメアリを襲うとは! なんて不埒で疚しく無駄に背が高い男だ!」
「お、落ち着いてくださいラング様、これには事情があって……!」
「事情……。なるほど……メアリを一室に押し込み襲う理由があるのか……。よし聞いてやろう、そして納得出来ない理由だった場合、アルバート家の全ての権力を使ってお前の身長を縮めてやる……!」
「ルシアン様も、話を聞いてください。これは、そのですね……」
ラングとルシアンに詰め寄られ、アディの額に汗が浮かぶ。
次いで妙案が浮かんだのか、錆色の瞳をカッと開いた。
「お、お嬢が美の女神になりかけていたので……!」
と、これである。
アディの発言を受け、再び室内が水を打ったように静まりかえる。
その沈黙を破ったのは、「そうか……」というラングとルシアンの低い声。
二人はアディの目の前に立つと、ほぼ同時にガシリと彼の肩を掴んだ。ラングは右肩、ルシアンは左肩、と左右から押さえられ、アディの表情がより引きつる。
「美の女神なら仕方ない! メアリは確かに麗しく愛らしいが、妹が美の女神になったら困るからな!」
「そ、そうですよね……。俺も、妻が美の女神になったら困ります」
「確かにメアリは可愛く聡明だし、美の女神とたとえるのは納得だ……。だが実際になられたら困る……。妹が人でなくなるのは耐えられない……」
「ご理解いただけて幸いです。俺も妻が人でなくなるのは耐えられませんからね」
納得するラングとルシアンに、アディが引きつった笑みを浮かべて頷いて返す。自分自身で言い出しておきながら納得されたことに理解が追いついていないのだろう。
ちなみにロベルトはと言えば、チラと横目でメアリの様子を窺ってくるだけだ。彼の視線を受け、メアリは「ならないわよ」と伝えておいた。美の女神になってたまるか。
そんなやりとりでメアリの無事を確認したのか、ラングとルシアンが深く息を吐いた。その様子には若干疲労の色が見える。
「会場に来るなり女性に囲まれて大変だったんだ。メアリを探そうにも次から次へと来て、ようやく居場所が分かったら具合が悪くて休んでるって言うじゃないか。心配したよ」
疲れたと訴えるラングに、同じ目にあったルシアンも頷く。
アルバート家の次期当主候補である彼らが人に囲まれるのは珍しくない……のだが、それが女性ばかりというのは珍しい話だ。
普通であれば、挨拶をしようとする他家の当主や、同年代の子息達が彼らを囲む。今ならばアルバート家の跡継ぎについて有力な情報を得ようとする者もいるだろう。
だがそれらはみんな男だ。
ラング達を囲む女性といえば、夫と連れだって挨拶にくる夫人や、日頃からやりとりのある近しい者か。彼らに憧れている女性達は、そばで声を掛けられるのを待つか、もしくは親や知人を介して挨拶をしてくるぐらいだ。――「アリシア王女は元気良く声をかけてくるな」「パルフェット嬢は震えつつ近付いてくる」と、一部例外はいるものの――
「私なんて誉め倒しのうえに美の女神だって言われて、あげくに手の甲にキスをされかけたのよ!」
「手の甲に……。カレンおばさんも知らない男に手にキスをされていたな。まさかカレンおばさんも美の女神に!?」
「おばさまも被害にあってたの!?」
「あぁ、それもダンおじさんが見ていたにも関わらずだ。カレンおばさんは上機嫌だし、ダンおじさんも特になにも言わないしで、俺達の方が慌てたよ」
なぁ、とラングがルシアンとロベルトに同意を求めれば、二人も目撃したらしく肯定してきた。深刻そうな表情を見るに、嘘や冗談とは思えない。
曰く、ラング達が見つけたときカレンは若い男達に囲まれ、そして数人からは手へのキスを贈られていたらしい。
それも夫がいる近くで。だがその光景を目撃していたダンは怒ることも妻を守ることもせず平然としていたらしい。
それどころか、慌てふためきダンの気をそらそうとするラング達を「どうしたんだ?」と宥めさえしたというではないか。
「普通なら怒るはずよね……」
どうして、とメアリの眉間に皺が寄る。
そんな中、軽いノックの音が室内に響いた。
メアリが返事をすればゆっくりと扉が開き、顔を覗かせたのはカレンとダン。二人は室内を見回し、メアリがベッドの縁に座っているのを見ると安堵したように表情を緩めた。