7―5
夜道を歩くメアリの胸中は、未だかつてないほどに荒れていた。
混乱、動揺、それに自分の驕りへの苛立ち……。
「……最悪だわ、私」
誰にでもなく呟き、メアリが自分の額をおさえた。
今の時間、外にいる者は少なく、等間隔に構える警備員も誰も彼女の変化に気付く様子は無い。
メアリがらしくなく表情を青ざめ、動揺を露わに視線を泳がせていても、彼等はみな職務に忠実で暗い中へと視線を向けていた。
……驕っていた、と。
そうメアリが自分自身を罵った。
ファンディスクの内容は覚えていた。悪役令嬢メアリがそこに居ないことも、アディがアリシアと結ばれるルートがあることも、全て知っていた。覚えていた。
なにより、どのルートでも最後にアルバート家が没落するのだ。アディを雇い続けられるわけがない。
メアリは遠い地に追いやられ、アディは自由を手にしてこの地に残る。
考えれば分かることだ。いや、考えずとも始業式のあの日からずっと記憶としてあったではないか。
なのにどうして、没落の先に北の地に追いやられたとしても、そこがどんなに不便な土地であったとしても、全寮制の厳しい学校に閉じ込められるのだとしても……。
アディと一緒ならそれも悪くない、と。
なんで、そんなことを考えていたのだろう。
「嫌だわ私ってば、彼を自分のものみたいに……まるで悪役令嬢みたいじゃない……」
自分の傲慢さを小さく笑い、メアリが小さく自分の頬を叩いた。
傲慢な考えを追い出さなくては。北の地へ追いやられるのは自分一人だけ、彼は自由になってこの地に残るのだ。
当然のことだ。そしてきっと、それが最善なのだ。
アディは従者の役を解かれ、自分のやりたいことを始める。そこにアリシアとの関係があろうとなかろうと、生まれた家柄で一生を決められるよりずっと良い。
そう、それは分かる。わかっている。
それが分かっていて、どうして私はこんなに泣きそうに苦しいのかしら……。
自分の中で処理しきれない感情が渦巻き、メアリがふらふらと覚束ない足取りで屋敷へと戻り、自室の扉に手をかけ……ふと、背後から聞こえてくる足音に振り返った。
見れば、廊下の先からこちらに向かって走ってくるのは、つい先ほどまで話をしていたアディだ。
「アディ、どうしたの?」
「俺、色々と考えたんですが……」
よっぽど急いで走ってきたのか、ゼェゼェと息を上がらせるアディにメアリが首を傾げつつ、それでも「明日にしてくれないかしら」と言い捨てて部屋の中へと入った。
冷たい態度だとは思うが、今はアディと話をしたくない。今までこんなこと一度も無かったのだから、今夜くらい許してくれるだろう。
「お嬢……!」
「おやすみアディ、話なら明日聞いてあげるわ」
引き留めようとするアディの声にわざと就寝の挨拶を被せ、扉を閉めようとし……
「聞いてください、俺は!」
と、僅かな隙間に手を滑り込ませ、無理に押しとどめたアディの声にビクリと肩を震わせた。
随分と強い力で抑えているようで、扉を引いてもビクともしない。
彼らしくない強引なその態度に、メアリはいよいよをもってどうすればいいのか分からなくなり、力なくその名を呼んでアディを見上げた。
彼の真剣な瞳が自分を見ている。そんなこと数えられないほどあったはずなのに、今夜だけはこの錆色の瞳に射抜かれそうで、心臓が締めあげられる。
「ア、アディ……?」
「俺は、ゲームの中の俺が誰と何をしようが知ったことじゃありません。アルバート家が没落しても俺は貴女についていく。北の大地だろうが陸の孤島だろうが、貴方の隣が俺の居場所です!」
シンと静まった廊下に、彼の声だけが響く。
その余韻が消えるまで二人はジッと互いを見つめ合い、ようやく我に返ったメアリが慌てて視線をそらした。
「そ、そう……ありがとうアディ。とても嬉しいわ」
勢いに圧倒されたかのようにメアリが応え、扉を押さえる彼の手にそっと自分の手を添えた。
骨ばった男の手だ。対してメアリの手は細く白く、見比べればその違いは明確。
その明らかな違いに「いつからアディの手はこんなに男らしくなっていたのかしら」と、思わずそんなことを考えてしまう。小さい頃から世話役としてずっと側に居たはずなのに、今この瞬間になってようやく気付くなどおかしな話だ。
いや、一緒に居過ぎたからこそ気付けなかったのかもしれない。
「明日からまた頑張りましょう。私達には、没落という目標があるんだから」
「……えぇ、そうですね」
扉を押さえていた手を離し、アディが「おやすみなさいませ」と頭を下げる。
その従者らしい態度にメアリも応え、ゆっくりと扉を閉めた。
シンとした部屋の静けさと、部屋の寒さが肌を撫でる。
メアリはふらふらと部屋の中を横断し、窓辺に置いてあるベッドに倒れ込んだ。
身体を沈める布団の冷たさが心地良い。普段なら就寝前に布団を暖めておくのだが、今日はその必要性を感じられないほど、頬に触れる冷たさが気持ちよく、寝間着に着替えることもましてや布団に潜りこむことすら忘れて目を閉じた。
頭の中で色々なことがグルグルと回る。
考えなければならないことと考えなくてもいいことが混ざりあって、優先順位が崩れはじめる。
明日もまたアリシアに何か言ってやろうと企んでいたはずなのに、それが何であったか思い出せない。
アリシアの肩を抱くパトリックの姿や、嬉しそうに彼を見上げる彼女の表情が脳裏に浮かび、的外れなことばかりが頭の中に浮かんでは消えていく。仲睦まじい二人の姿。ファンディスクの彼等はどんなストーリーだったろうか、それすらも上手く思い出せない。
アディはゲームのストーリーなんか知ったことではないと言っていた。同感だ。その先にある『没落』さえ手に入れば、メアリはそれで満足なのだ。
ならばアディもその『没落』に巻き込んでもいいのだろうか。たかが主従という関係、それもアルバート家が没落することで雇用関係も解消されるというのに、彼を遠い僻地に道連れにしても良いのだろうか。
いや、そもそも自分の考える『没落の未来』には彼が当然のように居たではないか。
ならば今更どうして、いや、でもそもそも、だけど気付いたなら、だってファンディスクが、でもアディは……
「あぁなんだか、頭がボンヤリする……」
はぁ、と熱っぽい息を吐いて、メアリは枕に顔を埋めた。