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 カツン、と高い音を立てて騎士が一体弾かれ、メアリは思わず眉根を寄せた。しまった、と心の中で小さく呟いて盤上の一角を手薄にしていた己を悔やむ。

 だがいくら悔やんだところで失った騎士は生き返らないし、喪に服していては他の駒までも道連れにしかねない。失ったものを悔やむ暇があれば次の一手を考えるべき、一つの失敗に拘れば全てを失いかねない。

 戦場とはかくも過酷なものである。

 否、過酷なのは戦場だけではない。この戦場の裏にある『アルバート家跡継ぎ争い』もまた筆舌につくしがたいほどに過酷なのだ。

 兄妹で血で血を拭い、相手を蹴落とし、たった一つの玉座を奪い合う争い……。勝者には絶大な名誉が与えられ、敗者はそれを横目に去るしかない。

 そんな争いに身を投じているのだから、今更駒を一つ取られた程度で動揺してはいけない。そう己に言い聞かせ、メアリは形勢逆転の一手を放つために己の駒に手を伸ばした。

 今はチェスに集中すべき。見つめるのは盤上だけ、二色の駒が紡ぐ戦場だけを見なくては。余所見は駄目だ。


 暖かな湯気と香りを立ちこめさせる紅茶とか、生クリームを添えられたパウンドケーキとか、そういったものは見てはいけない。

 あと、チェスを続ける兄の嬉しそうな笑顔も視界に入らないようにする。

 ……それと、隠しているようだがチラチラと見えている『アルバート家兄妹仲良しチェス大会』の垂れ幕も視界から外しておく。


「ねぇラングお兄様、真剣勝負なんだからもう少し真剣な表情をしてくださらない?」

「おっと、すまない。しかしメアリとチェスを出来るのが嬉しく……いや、緊張してしまって、どうにも表情が緩んでしまうんだ。懐かしい、メアリにチェスを教えたのは俺達だったよな」

「違うわ、アディよ。お兄様達はすぐに駒をぶつけて遊びだすから教えるどころじゃなかったじゃない」

「そうだったか? メアリは記憶力が良いなぁ。さすが俺達の可愛い妹だ」


 上機嫌でラングが笑い、そうして盤面を見ると「おや、負けてしまった」と降参を示すように両手をあげた。

 その態度も、表情も、声色も、全てご機嫌である。もとより陽気な顔つきだが今はそれがピークに達しており、敗者の屈辱や悔しさは一切感じさせない。

 さらには盤上を片付けるや「今度は俺とだな……」とルシアンが向かいに座るのだ。元々鬱々とした表情とはいえ、今は嬉しさが隠し切れていない。ラングよりは分かりにくいがルシアンもまたご機嫌である。


「さぁメアリ、俺と仲良くチェスを……いや、跡継ぎ争いをしよう……。俺達のメアリは聡明だからな、きっと楽しい……いや、きっと命を削るような辛く苦しい戦いになるだろう……」

「ルシアンお兄様、表情が緩んでるわよ」

「陰気くさい俺の表情が緩む? そんなまさか……。いや、緩んでるな」


 自分の頬を押さえ、ルシアンが己の緩みきった表情を認めた。

 次いで、これは先程まで観戦していた緊張からだの、これから争うことへの武者震いだのと言い訳をしだす。そのどれもが表情を緩ませるには適さない、見当違いどころか全く真逆な言い訳なのは言うまでもない。

 だがメアリはじっとルシアンを見つめた後、「そうなのね」と納得することにした。

 世には喜怒哀楽の全てで泣く令嬢がいるのだから、緊張と武者震いで表情が緩む子息がいてもおかしな話ではない。


 ……多分。

 ひとまずそういうことにしておこう。


 とにかく今はチェスを優先すべきだ。

 そう己に言い聞かせ、メアリは「圧勝してその緩みきった表情を凍り付かせてあげるわ!」と宣戦布告をすると、己の駒へと手を伸ばした。



 結果、メアリはルシアンにも勝利する事が出来た。……のだが、最後まで彼の緩みきった表情が凍り付くことはなく、勝敗が決しても嬉しそうにしていた。

 感想戦の今だって変わらず、ルシアンもラングも緩みきった表情をして熱い戦いを振り返っているのだ。

 もちろん、その振り返りの全てがメアリ賛美に徹底されているのは言うまでもなく「鋭い一手だった」だの「この時に焦らず守りを固めるのは流石だ」だのと誉めちぎってくる。特に誉める事のない平凡な一手でさえ「この一手を放つときのメアリの上品な手の動き!」「ピンとのばされた指先、爪までも形が良くて美しい……」と誉めるのだからよっぽどである。

 これには流石にメアリもうんざりとし、背後で見ていたアディとロベルトを振り返った。


「ねぇ二人とも、はっきりと、正直に、嘘偽りなく答えてちょうだい。私とお兄様達の戦い、白熱して過酷だったかしら?」


 そうメアリが尋ねれば、問われたロベルトが麗しい顔つきで穏やかに笑った。切れ長の目が細められ、次いで彼の口から出たのは「えぇ、もちろんです」という言葉。その声色は普段とまったく変わらず、表情にも偽っている色は一つもない。

 対して彼の隣に立っていたアディはといえば、一瞬ムグと言い淀み、メアリに見つめられると露骨に顔を背けてしまった。実の兄弟だというのに反応の違いが顕著である。


「ロベルトは私達の戦いが白熱していたように見えたのね?」

「それはもう、見ている私まで手に汗を握る戦いでした。互いに一歩も退かぬという闘志がヒシヒシと伝わって参りましたよ」

「そう、そうなのね……。アディは? アディも手に汗を握ったの?」

「お、俺ですか? 俺は……白熱というよりほのぼのと、仲良さそうに……いってぇ!」


 しどろもどろだったアディが途端に声をあげた。ギロリと彼らしくない鋭い瞳で隣に立つロベルトを睨みつける。

 いったい何事かとメアリが驚いて様子を伺えば、ロベルトがアディの足を踏んでいるではないか。

 それも己の踵でアディの爪先を踏みつけるという踏み方。むぎゅうと全力の擬音が聞こえそうなほどである。

 あれは痛い、とメアリが心の中で呟いた。メアリも今まで幾度となくアディの足を踏んではいるが、爪先で彼の足先をきゅっと踏んでやる程度だ。メアリより頭一つどころか二つ以上背の高いアディからしてみれば、子猫が乗っかっているようなものだろう。

 対してロベルトはアディより背が高く、そして踏み方には一切の躊躇いも情けも無い。それでいて涼しい顔をしており、足下さえ見なければいつも通り凛とした佇まいの執事なのだから恐ろしい。


「ほら、メアリ様がお待ちだぞ、さっさと質問にお答えしろ。……余談だが、返答内容によっては今日一日すべての職務を放棄してお前の足を踏み続ける気でいるからな」

「実の兄だからこそ本気でやると分かって怖い……。兄貴は人の足を踏んでないで仕事しろ」

「安心しろ、俺は常に一日先の仕事をしているから問題ない。それよりさっさと答えろ」


 よりいっそう重みを掛けてくるロベルトに、アディが呻き声をあげる。

 そうして苦痛に眉根を寄せつつ、メアリへと視線を向けてきた。その表情が心なしか助けを求めている気もするが、割と頻繁に行われているやりとりなのでメアリは助けるより先に彼の返答を聞くことにした。


「アディ、貴方も白熱していたように見えた?」

「え、えぇ……そうですね。お嬢達の鬼気迫る戦い、お見事でした。皆様の背後に、それはそれは獰猛な猫……じゃなくて、虎が見えましたよ」


 苦しげな声でアディが言葉を紡ぐ。それを聞いてロベルトがさっと乗せていた足を退いたのは、きっと満足したからだろう。

 アディがようやく解放されたと安堵の息を吐き、そそくさとメアリの元へと避難してくる。情けないと言うなかれ、ロベルト相手では誰だってこうなる。彼に抵抗できるのは無頓着で神経の図太いどこぞの双子子息だけだ。


「メアリ様、私とそこの愚弟の返答でご満足頂けましたでしょうか」

「今の一連のやりとりを見せられて素直に納得するのも癪だけど、アディの足のために騙されといてあげるわ」

「そうですか、さすがメアリ様、お優しい。ではこれにて本日の跡継ぎ争いもお終いですね」


 パンッと手を叩いてロベルトが場の空気を一転させる。

 それを聞いてラングとルシアンが午後の仕事に戻ろうと立ち上がるのだから、これではいったいどちらが主従なのか怪しいところだ。


 そんな中、ラングが何かを思い出したかのように「そうだ」と呟いた。次いでルシアンと目配せをし、二人揃えてメアリへと向き直る。

 その表情は真剣そのもの。先程まで緩みきっていたのが嘘のようで、深い色合いの瞳は鋭さを見せている。小柄さと童顔が合わさり実年齢より幼く見られる彼らだが、真剣な表情を見せればさすがアルバート家子息といえる貫禄なのだ。

 思わずメアリまでも佇まいを直し「どうしたの、お兄様」と尋ねた。


「メアリ、お前に教えておかなければならないことがある。実は、アルバート家の跡継ぎになるために行わなければならない事があるんだ」

「行わなければならない事?」


 勿体ぶった口調で話すラングに、メアリがぐっと身を寄せて続く言葉を待った。兄からは張り詰めるような空気が漂っており、それほど重大な事なのかとメアリが思わず固唾をのむ。

 跡継ぎになるために何を行うのか……。じっと見つめることでメアリが先を促せば、ラングが一呼吸置いたのち、応えるようにメアリを見つめ返して口を開いた。


「アルバート家の跡継ぎになるためには、旅に出なくてはならないんだ!」


 ラングの言葉に、メアリはしばし茫然とし「旅……?」と眉根を寄せて首を傾げた。





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