12
翌朝、アディが目を覚ましたのは随分と早い時間。
チラと視線を横にやれば、己の腕を枕にメアリが心地よさそうに眠っている。麗しい瞳も今は閉じられ、少し開いた口からは軽い寝息が漏れる。
熟睡だ。試しに銀糸の髪を手で梳いても起きず、指先で巻いて遊んでみても気づく様子すらない。自分の腕を枕にそれほど熟睡している事が愛おしく、軽く頭を撫でればくすぐったそうにモゾと一度身じろいで擦り寄ってきた。
むにゃむにゃと形良い唇が言葉にならない文句を訴え、すぐさま寝息に変わる。
「お嬢、お休みのところ申し訳ありませんが、もう起きますね」
囁くように声をかけ――こういう時、『起こしたくない』という気持ちと『伝えなくては』という気持ちが相反して、なんとも微妙な声量になってしまうのはよくある話――そっとメアリの横から身を退く。
その動きで目を覚ましたのか、メアリがゆっくりと瞳を開け「アディ……?」と寝惚けた声を出した。
「もう起きる時間……?」
「いえ、まだ早いので眠っていて大丈夫ですよ。俺は用事があるので、先に部屋を出ますね」
「分かったわ……それじゃ、私はもうひと眠り……」
ひと眠りするわ、という言葉も言い終わらぬ内に、メアリがポスンと枕に頭を預けた。
すぐさま再び寝息を立て始めてしまうのだから、これでは『起きた』というより『一瞬だけ意識を戻した』というべきか。
そんなメアリの姿にアディが苦笑を浮かべ、眠る彼女を眺めつつ出掛ける準備を進める。
見慣れた自室、見慣れたベッド、布団にくるまって眠るのは最愛の伴侶……。
「あぁ、お嬢が俺のベッドで寝てる。夢じゃないんだよなぁ……」
アディが思わず拳を握りしめ噛みしめるように呟いてしまうのは、それほど片思い期間が長かったからだ。
想い、焦れ、諦め、その果てに実った目の前の光景。いまだにふとした瞬間に多幸感を感じ、奇跡とすら思ってしまう。人目があれば堪えるが、自室でどうしてにやけるのを隠す必要があるというのか。盛大に表情が緩む。
そんなアディの声を聞いたのか、眠っていたはずのメアリがうっすらと目を開けた。
「さっきから何言ってるのよ、もう……夢なわけないじゃない」
「お、お嬢、起きてたんですか!?」
「起きているとも言えるし、寝ているとも言えるわね……」
「おやすみなさいませ」
「おやすみぃ……」
微睡んだ口調で就寝の言葉を告げ、メアリが今度こそと眠る態勢を整える。
そうしてアディが彼女を起こすまいとそっと開けた扉から部屋を後にすれば、「行ってらっしゃい、あなた」という甘い声が聞こえてきた。
扉を閉める際に聞こえてきた見送りの言葉に後ろ髪引かれつつ、それでもと己を律してアディが向かったのはダイス家。
まだ早い時間ゆえに来客の様子はなく、行き交うメイドや使い達にも余裕が見える。この時間帯に忙しなくしているのは、朝の早い庭師と朝食準備の厨房ぐらいだろう。
ちょうど通り掛かった使いを呼び止めて言付けを頼み、しばらく待つと屋敷の奥からパトリックが歩いてきた。
早朝だというのに普段通りの凛とした佇まい、当然身嗜みも整えられ、それどころかとっくに起きて朝の勤めをこなしていたという。
出来る男は朝が早い、と思わずアディが冗談交じりに拍手を送る。――それと同時にアディの脳内に布団にくるまるメアリの姿が浮かんだ。まるで蓑虫のように布団から頭を出し「パトリックと比べないでちょうだい」と文句を言っている――
そんな脳内のメアリはさておき――アディの脳内でメアリが「さておくなら思い出さないでよ」と文句を言って布団の中へと戻っていった――改めてアディがパトリックへと向き直れば、重要な話だと察したのだろう彼もまた表情を真剣なものに変えた。
「……アリシアの件か」
「はい。事前にご存じだったなら何かしら考えがあるのかと思いまして。……お嬢は……その……協力しようとはしているんですが……」
あれはちょっと……とアディが視線を逸らす。
思い出されるのは、昨夜ベッドに入っても月刊犬のしつけ方を興奮気味に語り続けるメアリの姿。アディが寝ようと告げればしばらく静かになるものの、はっと思い出して「そういえば最新号はね!」と語り出す熱の入れよう。
それを何度も繰り返し、結果的にアディが彼女を抱き締め布団を頭から被せることでようやく就寝となったのだが、あの時のメアリは役目を全うすべく燃え上がるドッグトレーナーの顔をしていた。
アリシアに王女らしい振る舞いを叩き込むための意気込みとはいえ、あれが解決に繋がるとは考えにくい。むしろメアリがあの意気込み方をしている時はろくな結果にならない。
そう誰より長くメアリを見つめてきた――巻き込まれてきた――アディは知っている。
なにより、今回の噂にはアリシアと共にアルバート家とダイス家を引き摺り落とそうという悪意が込められているのだ。となれば王女の威厳だけでは決め手にはならないだろう。
それを説明すれば、パトリックが「そうか」と頷いた。
「月刊犬のしつけ方を参照する事については言いたいところがあるが、それでもメアリが協力してくれるなら有り難い。……だが確かに、それだけじゃ足りないな」
「えぇ、ですからパトリック様は何かお考えがあるのだと思いまして」
話し合いの時、パトリックは考えこむような素振りを見せていた。それどころか事前にこうなる事を予期していたというではないか。
ならば他でもないパトリックが無策のままでいるわけがない。そう考えて話を聞きに来たのだとアディが伝えれば、パトリックが「買いかぶりすぎだ」と肩を竦めて笑った。
「考えはあるにはあるが、俺の方もメアリと同じ程度のものだ。……犬のしつけ方は読んではいないがな」
「ですが何かしら対策を考えているんですよね」
「あぁ。でもここだと誰か来るかもしれないから、俺の部屋で話そうか」
通りがかりのメイドにお茶を頼みパトリックが歩き出せば、アディもまた彼に並んで歩き出した。
「そういえば、パトリック様の部屋に通して頂くのって初めてですね」
アディが物珍しさから周囲を見回しながら話しかければ、机の引き出しから数枚の書類を取り出していたパトリックが「そうだったか?」と振り向きもせず返事をしてきた。
案内された部屋は主人の姿を彷彿とさせる。きちんと整理整頓され、並べられた本棚にはそれでも足りないと本が敷き詰められ、室内を見ただけで彼の才知と勤勉さが伝わってくる部屋だ。
格調高さを漂わせ、それでいて素人同然の不格好な刺繍のハンカチや一輪挿しといったこの部屋に合わぬものが飾られている。
とりわけ目を引くのが、整理された机の上に置かれたスノードーム。書類と本が置かれいかにも出来る男の机と言ったそこに、可愛らしいスノードームは似合わない。
何も知らぬ者が見れば、なんともバランスが悪いと思うだろう。「細部の飾りが格調高さを損なっている」と駄目出しされるかもしれない。
だがこの『不釣り合いな質朴さ』の理由を知っているアディにとっては微笑ましいものでしかなく、飾られている『誰かさんがくれたであろうスノードーム』を眺めつつニヤリと悪戯気味に笑みをこぼした。
「いやぁ、パトリック様らしい良い部屋ですね。さすがです。特にそこのスノードームはセンスの良さを感じさせる」
「メアリから聞いたが、アディの部屋には『隠蔽山』なるものがあるらしいじゃないか。次は是非お前の部屋に案内してくれ」
「あれはもう兄貴の部屋に移設しました!」
仕掛けたつもりが見事なカウンターをくらい、アディが慌てて否定する。
それに対してパトリックがしてやったりと笑い、「最初に仕掛けてきたのはお前だからな」と勝利宣言と共に書類を机の上に置いた。
次いで自らも席に着き、紅茶を一口飲む。なんとも優雅な所作ではないか。よく見ればほんのりと頬が赤くなっているのだが、残念ながらこれを指摘出来る余裕は今のアディには無かった。
「俺はアリシアの事を疑っているわけじゃない。彼女こそ紛れもなく両陛下の娘だと信じている。……だけど『信じている』なんて言葉だけじゃ証拠にはならないだろ」
「そうですね。今回の件、引きずり降ろそうとしている輩がいるなら尚の事、明確な証拠を突きつける必要があります」
「あぁ、だから調べたんだ。髪と瞳の色の他に何か、アリシアが王女だと証明出来るものは無いか……」
そう話しながらパトリックが書類を広げる。
上質の紙には小さな文字がびっしりと書き込まれ、そのうえ王宮関係者のサインまで書かれている。一目で重要な書類だと分かる。
曰く、これらは王女出生に関する書類。本来であれば厳重に管理されて容易に持ち出せるものではないが、パトリックの立場と、彼が今まで築いてきた周囲からの評価が管理者の首を縦に振らせたのだろう。
持ち出しの際に「どうかお役に立ちますように」と告げられたというあたり、管理者は書類と同時に事態の解決をパトリックに委ねたのかもしれない。
そんな書類の一枚。
出生時に医師が書いたという届け出を差し出すように滑らせ、パトリックがトンと指で突いた。重要な書類の一枚目を印すナンバリングと、この書類が届けられた日付だ。
見比べろと言わんばかりの彼の指の動きに、アディが書き記された数字を交互に見やり……、
違和感を覚え、怪訝な表情で首を傾げた。