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大きな手がパルフェットの肩に触れ、グイと引き寄せてくる。
「連れを困らせないで頂きたい」
「……ガイナス様」
パルフェットが振り返れば、厳しい表情で男を睨みつけるガイナスの姿。
普段の温厚で優しい――そしてパルフェットの意地悪に対しにやける――彼とは違い、その表情には威圧感さえ感じさせる。体躯の良さと相まって、迫力はお喋り男のそれを優に超える。
だがその険しい表情も迫力も自分を守るためのもの、そう考え、パルフェットはほっと安堵の息を吐いた。昔のように彼の背後に隠れたりはしないが、引き寄せてくる手に従って彼に寄り添う。
そんなパルフェットに対して、男の方はガイナスを見ると僅かに顔色を青ざめさせた。
しまった、まずい、そんな心の声が聞こえてくる。ようやく自分がパルフェットを怯えさせていた事に気付いたのだろう。
「こ、これはガイナス様……困らせるなんてそんな……」
「少し耳に入ったが、あまりパーティーの場には合わない話をされていたようだ」
「そ、そうですかな。いやぁ、つい話が弾んで熱中していたようです。悪い癖だ。少し一人で頭を冷やした方がいいのかもしれません」
乾いた笑いで誤魔化し、男がそそくさと場を後にする。
なんともわざとらしく情けない逃げ方だろうか。パルフェットがプクと頬を膨らませてそれを見届ければ、肩に乗っていた手が優しくさすって宥めてきた。
見上げれば、普段通りのガイナスの表情。先程までの威圧感は無く、それどころか困ったように眉尻を下げている。
「パルフェット、一人にしてすまなかった」
「まったくです。ガイナス様が私を放っておくから、あのような方に捕まってしまったんです。この事はきっちりメアリ様に伝えさせて頂きます」
「う、それは勘弁してほしい……。パルフェット、すまなかった。反省してるから機嫌を直してくれ」
「そうですねぇ……。メアリ様には報告したいところですが、ガイナス様は私を助けてくださいましたから……」
含みのある言葉を口にし、スリとパルフェットがガイナスの胸元にすり寄る。子猫が甘えるような仕草は、もちろん「構ってくれるなら許してあげる」というメッセージだ。
愛しい恋人の甘い意地悪にガイナスの表情も緩み、肩に乗せていた手をスルリと滑らせてパルフェットの腰に触れた。軽く抱き寄せることで「もう離れない」と伝える。
二人のこのやりとりに、ガイナスを追いかけてきた者達が苦笑を浮かべて一人また一人と散っていった。
「ここからは二人の時間だ」だの「お若いことで羨ましい」だのという言葉には、冷やかしと微笑ましさが入り混じっている。名家跡取りに媚を売るのは貴族の仕事だが、仲睦まじい二人を見て見ぬふりするのは貴族の嗜みだ。
「パルフェット、すまなかった。今夜はもう一時も離れないから許してくれ」
「ガイナス様、なんて甘い言葉……。二ポイントさしあげます」
ガイナスに抱き寄せられ、パルフェットがうっとりと瞳を細めて吐息を漏らす。
すっかりと絆されてしまったパルフェットの姿に、ガイナスは愛しさでにやけそうになる顔を誤魔化すために庭の奥へ行こうと促した。
……いつからポイント制度になったんだろう。
という疑問を抱きつつ。
その夜会はパルフェットの一件こそあったものの、つつがなく終わった。
先程の男も反省したようで、帰り際にはきちんと詫び、パルフェットもそれに穏やかに微笑んで返した。お喋りで話し出したら止まらない厄介さはあるものの、根は良い人物なのだ。
それに、アルバート家跡継ぎに関して気にしているのは彼だけではない。誰だって機会があれば詳しく聞きたいと思っているし、パルフェットも遠回しに尋ねられる事は初めてではない。――さすがにあれほど強引に問い詰められたことはないが――
……だが気になる事がある。
妙な胸騒ぎを感じつつ、パルフェットはエルドランド家の中庭で一人暖かな紅茶を飲んでいた。
落ち着かない。パーティーの余韻に浸るに浸れない。
「パルフェット、ここに居たのか」
「あら、ガイナス様。片付けの指示は終わりましたか?」
「終わったといえば終わったが、皆慣れたもので俺が指示を出すまでもなかったな。メイド長に至っては、俺の指示を微笑ましく聞いていたよ」
「ベテランメイド長には敵いませんね」
ころころとパルフェットが笑えば、ガイナスが照れくさそうに頭を掻きながら隣に座った。
一時間ほど前までは聞こえていた楽団の音楽も今はなく、吹き抜ける風と草花が揺れる軽い音だけが聞こえる。中庭の明かりも半分ほど落とされ、薄明かりが程よい疲労に心地好い。
それを感じつつ、パルフェットが小さく溜息を吐いた。
「パルフェット、どうした?」
「……少し気になる事があるんです。先程ガイナス様に助けて頂いた時のことなんですが……」
あのとき、件の男はパルフェットからアルバート家の跡継ぎについて聞き出そうと必死になっていた。
それに関してならば彼の気持ちは分かる。国を跨いでも社交界はその話で持ち切りなのだ。
とりわけ先日エルドランド家が平穏に当主を交代し、他の家も各々跡継ぎを決めている。だというのにアルバート家はいまだ跡継ぎ不明で、それでいて近々と噂されているのだ。
他が順調だから尚の事、興味も期待も野心も何もかもがアルバート家に一点集中してしまっている。
「それは分かります。ですが、アリシア様の噂というのは、私存じ上げておりません」
「アリシア様の?」
「はい、先程あの方が……」
男が言いかけた言葉を思い出す。
『アリシア王女に関するあの噂の真偽ついて』と。
彼は具体的な内容こそ口にしなかったが、アリシアの名前をはっきりと言っていた。
その時の様子は、アルバート家の跡継ぎ関係に関してよりも周囲を気にしていたように思い出される。
だが噂とは? 真偽とは何のことか?
「アリシア様は私のような弱小家の者にも、それどころか身分を問わず優しくしてくださる素敵な方です。こそこそと話すような噂なんて、聞いたことがありません」
パルフェットの脳裏に、太陽のようなアリシアの笑顔が思い出される。
最初にメアリを通じて紹介された時こそ、パルフェットは緊張で涙目になり震えていたが、アリシアの素朴な優しさに触れて直ぐに彼女と打ち解ける事ができた。――打ち解けた嬉しさで涙目になり震えはしたが――
元々の性格と王女と判明するまでの出自もあってか、アリシアは純朴で分け隔てなく接する優しい女性だ。
「先日も一緒に街にケーキを食べにいったところ、転んでしまった子供を見つけて誰より先に駆けつけていました。泣きじゃくる子供をあやして、ハンカチで涙を拭ってあげたんです。私なんて、共鳴して泣くしか出来なかったのに……。あんな立派でお優しい方に不穏な噂など考えられません」
「確かに、アリシア王女は優しい方だ。……だが今隣国はアルバート家の跡継ぎ問題もあり、皆が混乱しているんだろう。謂れのない噂の一つや二つ出ていてもおかしくないかもしれない」
「私なんだか嫌な予感がします。ガイナス様、どうにか調べて頂けませんか?」
パルフェットがガイナスの服の裾をついと引っ張った。
いかに友人とはいえ、アリシアは隣国の王女だ。そう簡単には身辺を調べる事はできない。
それにパルフェットはアリシアと懇意にしており、その仲は国内外問わず知れ渡っている。アリシアの噂とやらがどれほど広がっているのかは分からないが、パルフェットから聞き出そうと機会を窺っているのは先程の男一人だけではないだろう。
不用意に動けば勘繰られ、問い質され、下手すると噂とやらの後押しをしてしまう可能性だってある。
だがガイナスならば、ほかの者もエルドランド家の名に恐れを抱いて強引な行動には出られないはずだ。多少彼が探りを入れるような事をしても、跡継ぎ交代の慌ただしさゆえと見逃されるかもしれない。
身分的にも立場的にも、パルフェットが調べるよりもガイナスの方が適任だろう。
ガイナス自身もそれを理解しているのか、パルフェットがじっと見つめれば力強く頷いて返してきた。
「わかった。パルフェットが気になっているなら、なんとしてでも調べ上げてみせよう」
「ガイナス様、なんて頼りがいがあるのかしら……。もしも調べられたなら、十ポイントさしあげます」
「なんだか分からないが、大量獲得のチャンスだな。よし、頑張ろう」
ポイントについて分からないなりにもやる気を出すガイナスに、パルフェットは先程までの不安がゆっくりと癒されていくのを感じ、そっと彼に寄り添った。大きな手が肩を擦ってくれる。まるで抱きしめられているような安堵感だ。
思わず吐息を漏らし……「一ポイントです」と追加を告げた。