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 パーティー会場の明かりから逃げ、メアリは一人バルテーズ家の庭園を歩いていた。夜風が美しい庭園に吹き抜けて花々を揺らすが、今はそれに見入っている余裕は無い。

 そんな中、一脚の椅子が置かれているのを見つけて足を止めた。

 庭師が片し忘れたか、もしくは存在さえ忘れられたのか、古びて汚れた椅子は令嬢が座るようなものではない。それでもと椅子に着いた汚れを軽く手で払い、そっと腰かけた。

 キィ……と音がする。この音は椅子の軋みか、それとも靄がかる胸の悲鳴か……。

 そんな自分らしからぬことを考え、メアリは深い溜息をつき……ポタと手の甲に落ちた水滴に瞳を丸くさせた。


「……よだれ!?」


 まさか! と己の口元を慌てて拭う。

 だが口元は濡れてはおらず、頬に触れる手にまた一滴水滴が落ちる。そこでようやくメアリは己の頬に、そして目元に触れた。

 ……泣いている。だけどなぜ泣いているのか。

 自分が泣いていることが信じられず、疑問が浮かぶ。

 そもそもなぜ怒鳴ってしまったのか、どうしてここまで胃もたれが酷いのか、この焦燥感は何なのか……。疑問だらけだ。

 ままならない感情に溜息が漏れる。戻らなくてはと立ち上がろうとし……そしてこちらに駆けてくる足音を聞き、銀糸の髪を揺らして振り返った。誰か来る。


「……アディ?」


 まだ影すらも見えていないのに伴侶の名前が口をついて出た。

 だが足音と共に姿を現したのは、錆色の髪……ではなく、藍色の髪の青年。パトリックだ。

 彼は周囲を見回し、メアリの姿を見つけると安堵したように表情を緩めて歩み寄ってきた。少し息が上がっているのは、きっとメアリを探して庭園を探し回ったのだろう。

 ……アディじゃないのね、とメアリが心の中で呟いた。

 ならばアディは今どこにいるのだろうか。誰と居るのだろうか……。そう考えれば胸が痛み、拭ったはずの視界が揺らぐ。


「……パトリック」

「メアリ、大丈夫か?」

「これが大丈夫そうに見えるなら、医者に診てもらった方が良いわね」

「大丈夫そうだな」


 良かった、と勝手に結論付けてパトリックが向かいに立つ。

 なんて酷いのだろうか。もっとも、「大丈夫」と結論付けてはいるものの、パトリックは上着からハンカチを取り出すと差し出してくれた。


「アリシアを追いかけたら、ベルティナ嬢と言い合っていて驚いたよ。止めに入ろうとしたらメアリが駆け出していくし……」

「それで追いかけてきてくれたのね」


 借りたハンカチで目元を拭いながら問えば、パトリックが頷いて返す。

 次いで、メアリが立ち去った直後いの一番にアディが追いかけようとしていたと教えてくれた。その話にメアリが小さく安堵の息を吐くのは、あの場でアディが自分を優先しようとしていたと分かったからだ。

 良かった……、と小さく呟く。

 だが安堵と同時に湧くのが、ならば何故ここに彼が居ないのかという疑問。メアリの表情からそれを察したのか、パトリックが肩を竦めつつ自分が止めたのだと告げてきた。


「メアリは俺が追うから、お前はここで片をつけろと言っておいた」

「……そうなのね、ありがとうパトリック」

「世話の焼ける友人を持つと苦労するよ」


 溜息交じりに話すパトリックに、メアリが苦笑を浮かべた。

 次いでツンと澄まして「そうね」と返し……、


「騒がしくて世話の焼ける落ち着きのない友人を持つと苦労するわ」


 と続けた。

 もちろんアリシアの事であり、パトリックが察してそっぽを向いた。

「お互いさまってことにしてくれ」という控えめな譲歩提案をみるに、伴侶であるアリシアの落ち着きの無さと世話になっているのは自覚しているようだ。普段のメアリならば「どこがお互い様よ!」と喚いてやるところだが、今夜だけは苦笑で許してやる。


 彼と話をすることで、アディが自分を追いかけようとしてくれたと分かり、心は随分と楽になった。

 ……だがそれでも靄は残り溜息に変わる。

 苦しさを訴えるようなメアリの溜息に、パトリックが心配そうにこちらを見つけてきた。


「大丈夫、ただちょっと苦しいだけ……」

「そうか……」

「胃もたれも困ったものね」


 靄が渦巻く胸元を擦りながらメアリが苦笑すれば、パトリックも眉尻を下げて案じるように笑った。


「胃もたれか……。でも今夜ぐらいは正直に話してもいいんじゃないか?」

「何を?」

「だから、君を悩ましている胃もたれの正体さ」


 そうパトリックに促され、メアリが自分の胸元に視線をやった。

 靄が渦巻き、苦しさすら覚える。今すぐに立ち上がってどこかへ行ってしまいたいと焦燥感が湧くが、その反面どこに行けばいいのか分からない。胃が重くなったようにさえ感じる。

 この胃もたれの正体……とメアリが小さく呟けば、パトリックが諭すような声色でメアリを呼んだ。


「メアリ、人に相談しにくいのは分かる。俺も同じだ」

「そうね、確かに人にはあまり話せないわ……」


 メアリがきゅっと胸元を掴めば、その息苦しさに共感したのかパトリックが小さく息を吐く。


「嫉妬なんて、軽々しく人に相談できるものじゃないよな」

「食べ過ぎて胃もたれなんて、恥ずかしくて言えないわね」


 二人が揃えたように話し……そして二人揃えて「ん?」と顔を見合わせた。

 メアリの瞳が丸くなる。だがそれよりも眼を丸くさせているのはパトリックだ。


「……胃もたれ?」

「そうよ。渡り鳥丼とコロッケの食べ過ぎなの。令嬢として食べ過ぎて胃もたれなんて恥ずかしいわ。それよりパトリック、嫉妬って何の話? 誰が誰に?」

「……待ってくれ、胃もたれって」

「だから胃もたれ、胃がもたれることよ。ところで嫉妬の話なんだけど、どういうこと?」


 頭上に疑問符を浮かべてメアリが問えば、パトリックが盛大な溜息を吐いた。メアリの頭上の疑問符さえも吹き飛ばしかねない溜息である。

 おまけに額を押さえだすのだ。これにはメアリも居心地の悪さを覚えてしまう。

 もしかして私に関することなのかしら……? と、以前にアディに噛まれた首筋を擦りながら考える。


「パトリック、もしかしてその嫉妬っていうのは私が関与しているの?」

「君ってやつは……。いや、だけどそうだな、君は初恋も何もかも全部結婚してから気付いたんだもんな。仕方ない……ということにしておこう」

「しておいてちょうだい。それで、ねぇパトリック、私が嫉妬ってどういうことなの?」


 メアリが説明を求めれば、パトリックが呆れたと言わんばかりの表情ながらに小さく笑みを零した。

 誰もが焦がれる王子様の、王子様らしくない笑み。だがメアリには見慣れた表情だ。


「メアリ、君はアディの周りにいる女性達に嫉妬しているんだ。その胸の痛みや苦しさは嫉妬しているから。……胃もたれじゃない、絶対に、断じて、誓ってもいい。胃もたれじゃない」

「胃もたれの可能性を全否定してくるわね……。でも嫉妬って、だって私はアディと結婚しているのよ。それに彼はちゃんと私を好きでいてくれているわ」


 照れることも恥じらうこともなくメアリが断言する。

 だが事実、アディは結婚する前と変わらず自分に尽くし、愛してくれているのだ。

 彼の中で自分は特別、愛されている、そう断言できる。婚約しているが心は別の人にある、そう話し嫉妬を訴えるルークとは違う。

 だからこそ嫉妬する必要がないとメアリが訴えれば、パトリックが小さく首を横に振った。そうじゃない、という彼の言葉は、どこか懐かしんでいるように聞こえる。


「たとえ結婚していても、相手の気持ちが自分に向いていると分かっていても、それでも嫉妬するんだよ」

「そういうものなの?」

「あぁ……。ところで、少し俺の話をしても良いかな」


 近場の木に背を預け、パトリックが話の許可を求める。

 サァと吹き抜けた風に乱れた髪を掻き上げる姿は、麗しいながらに男らしさを感じさせる。夜の暗さがより彼の髪と瞳の色を濃くさせ、女性ならば誰もが胸を高鳴らせただろう。

 ……メアリは相変わらず胸の高鳴り一つ覚えないが。


「実をいうと、俺も嫉妬していたんだ。……いや、ずっと前から、いつも嫉妬している」

「パトリック、貴方が?」


 そんなまさか、とメアリが彼に視線を向ける。

 パトリックは品行方正・文武両道、誰もが焦がれる男だ。女性ならば彼にエスコートされたいと願い、男ならば彼のようになりたいと願う。そんな憧れの象徴。

 彼との婚約を破棄しアディと結婚したメアリだって、恋心を抜きにすればパトリックより勝る男はいないと断言できる。王女アリシアと結婚する前から、彼は社交界の王子様だったのだ。

 そんなパトリックが……とメアリが呟く。だがパトリックに嘘をついている様子は無く、ならばとメアリが「誰に?」と尋ねた。嫉妬は一人では出来ない。

 そうして次の瞬間にパチンと目を瞬かせたのは、パトリックがはっきりと「君だよ」と告げてきたからだ。この場にはメアリとパトリックしかいない。……つまり。


「……私? どうしてパトリックが私に嫉妬するの?」

「アリシアはいつも君を見つけると駆け出すだろ」

「あのスピードは駆け出すという表現じゃ生ぬるい気がするけど、さておいてあげる。それで?」

「だから君に嫉妬するんだ。……メアリに駆け寄るアリシアを見るたびに、俺の隣に居てくれてもいいのに、俺よりメアリが良いのか……って」


 話し出したは良いが己の胸の内を吐露するのが恥ずかしくなったのか、パトリックの頬が赤くなり、ついには他所を向いてしまった。

 見つめられるのが辛いのだろう。それでもメアリは彼をじっと見つめ、譫言のように「そうだったのね……」と呟いた。

 アリシアがメアリを見つけてタックルもとい抱き着いてくる時、決まってパトリックは穏やかに追いかけてくるのだ。時には楽しそうに笑いながら、時にはアリシアを咎めながら。その表情も足取りも、困ったものだと言いたげだが嫉妬の色は無い。

 それを告げれば、他所を向いたままパトリックが「隠していたんだ」と答えた。普段の涼やかな声色とは違う、どこか拗ねたような声は彼らしくない。


「アリシアのメアリとアディに対する感情はあくまで友情だと、恋愛としてなら俺を想ってくれているのも分かっている。……それでも嫉妬してしまうんだ」


 照れ臭そうに言い切り、パトリックが一度雑に頭を掻いた。

 藍色の瞳がメアリを見つめてくる。錆色ではない、藍色。どれだけ見つめられてもメアリの胸は高鳴らないが、締め付ける胸を穏やかに宥めてくれる。


「アリシアに出会って、初めてたった一人に固執した。どうしようもないほど嫉妬して、自分の独占欲に気付いた。結局のところ俺もただの男なんだって思い知ったよ」

「ただの? そんな、パトリックがただの男だなんて」

「周りが色々と言ってくるだけだ。俺も結局はただの男で……メアリ、君も同じだ」

「私も?」


 パトリックの言葉に、メアリが己の胸元に視線を落とした。

『周囲から色々と言われても、ただの男だ』と、そうパトリックが教えてくれた。ならば自分も、アルバート家の令嬢だの変わりものだのと言われても、結局はただの伴侶を愛する女ということか。

 人並みに独占欲を拗らせて、抑えの効かない嫉妬を抱く。

 そういうものかと己に言い聞かせた瞬間、メアリの中で渦巻いていた靄がストンと心の中に落とし込まれた。まるで行き場が無くさまよっていた感情が『嫉妬』と振り分ける先が決まったかのように、形に収まりゆるやかに収束していく。


「そうね……。そうだわ、私も嫉妬していたの。私の周りに人が増えて、アディの周りにも人が増えて……。私よりアディの近くに誰かがいるのが嫌だった、私以外の人がアディを語るのが嫌だった。彼の瞳が私以外を見つめるのが許せなかったの」


 胸の内の嫉妬という靄を訴えれば、パトリックが苦笑を浮かべて頷いて返してきた。

 次いで片手を差し出してくる。


「その言葉、俺じゃなくてアディに直接言ってやると良い」


 戻ろうという事なのだろう、メアリも頷いて彼の手に己の手を重ねる。

 軽く引かれ、促されるまま立ち上がった。キィ……と響く音はイスのきしみだ。今はハッキリと分かる。


「今までメアリのことは何度もエスコートしてきたが、俺は今はじめて心から君をエスコートしたいと思ったよ」


 今更だと苦笑するパトリックに、メアリがじっと彼を見上げた。

 自分を見つめてくる藍色の瞳からは、恋愛めいた熱意は感じられない。彼は自分が誰といようと、誰を見つめていようと、嫉妬など一切しないのだ。

 なにより、このエスコートはメアリをアディのもとに連れて行くためのもの。この手が連れて行ってくれる。

 そう考え、メアリがきゅっと彼の手を握った。放さないでくれと願う。……今は、だが。


「パトリック、私も今はじめて貴方にエスコートされたいって思ったわ」


 今更ね、とメアリが同じように笑って告げれば、パトリックが頷いてゆっくりと歩き出した。




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