18
交換留学も一部の生徒を除きつつがなく進み、あと数日……という頃。
「メアリ様、メアリ様ぁ……!」
とパルフェットが以前にもまして涙ぐむことが多くなったのは、別れの時期が近付いているからだ。
振動も小刻みで、掴まれた腕を伝ってメアリの銀糸の髪も揺れる。――以前にアディが「ドリルだったら振動なんてものともしなかったんですけどね」と言って寄越したことがあった。懐かしい、あの時叩きつけようとした解雇通知はどこにいったのか――
「そんなに泣かないでちょうだい。まだ数日残っているし、それに向こうに戻ってもまた遊びに来たら良いじゃない」
「ですが……ですが遠すぎます。距離を考えると涙が……。私とメアリ様の間には、国境という壁が立ちふさがっているんです……!」
「そうねぇ。それなら、こっちに別荘でも建てたら?」
「マーキス家にそんな財力はありません……はっ!」
何かを思いついたと言いたげに、勢いよくパルフェットが振り返る。
そこに居るのはアディとパトリックと……そしてガイナス。
男三人はパルフェットが突然振り向いたことにそれぞれ色合いの違う瞳を丸くさせている。そんな中、ガイナスが代表するかのようにパルフェットの名を呼んだ。
「パルフェット、どうしたんだ?」
「マーキス家には別荘を建てる財力は無い……。ですがエルドランド家は違う……! ガイナス様、結婚いたしましょう! エルドランド家の財力を我が手に! アルバート家の近くに別荘を建てるのです!」
活路はこれしかないと鬼気迫る勢いでパルフェットが迫れば、ガイナスが慌てた様子で首を横に振った。
「パルフェット、財産狙いで結婚なんて……!」
「私のメアリ様の傍に居たいという思いを、財産狙いだなんて仰らないでください! ただメアリ様の傍にいるために、エルドランド家の財産を手中に収めたいだけです!」
「それを財産狙いと言わずに何と言うんだ!」
「つまりガイナス様は私と結婚したくないと言うことですか!」
「ち、違う、結婚はしたい! 結婚はしたいんだが!」
こんな目的での結婚は嫌だと訴えるガイナスに、対してパルフェットが「婚約をしといて!」と怒りを募らせる。
どうやらメアリの別荘案に縋るあまりに冷静さを欠いているようで、小柄ながらにガイナスに迫る迫力は結構なものだ。怒りのあまりふるふると震えている。……いや、いつも震えているが、今の震えは普段の震えとは違う。プロなら一目で分かる。
これにはメアリも溜息を吐き、パルフェットの腕をさすって宥めてやった。
冗談混じりに別荘と口にしてしまった責任は感じている。
「パルフェットさん、少し落ち着きましょう。まだ日はあるし、別荘を建てるにしてもすぐには無理でしょう」
「そ、そうですね。メアリ様……まずはエレシアナ大学に戻らなきゃいけませんよね……。メアリ様ぁ……」
どのみち一時は離れなければならないと察し、パルフェットがまたスンスンと鼻をすすってメアリにしがみついてくる。先程のやりとりを見ていたアリシアも、そっとメアリ越しに手を伸ばしてパルフェットを宥めはじめた。――メアリ越し、つまりアリシアもいつのまにかメアリの片腕に抱き着いているのだが、それを咎めるのは今更な話――
三人の令嬢が寄り添う姿は、傍から見れば麗しいことこのうえない。清らかな友情を感じさせるだろう。先程のパルフェットの怒濤の逆プロポーズを見ていなければだが。
「……パルフェット、俺は普通に結婚したいんだ」
とは、ガイナスの溜息混じりの呟き。ひとまずパルフェットが落ち着いたことに安堵はしているものの、どことなく切なそうだ。
それに対してアディは彼を慰めつつ、「それも良いんじゃないですか」と提案しだした。
「どんな過程があろうが、結婚出来るならいいじゃないですか。パルフェット様から結婚を迫ったわけですし、言質取って外堀固めればこっちのもんですよ。ねぇ、一級外堀建築職人様」
「誰が一級外堀建築職人か」
同意を求めるアディに、パトリックが冷ややかに訂正する。
そんな男達と、そして自分を挟んで会話をするアリシアとパルフェット。
こんな賑やかな日々もあと少し……とメアリが小さく溜息を吐いた。
メアリがふと足を止めたのは、パルフェットの財産狙いの逆プロポーズから数時間後の事。
道の先で話し込んでいるのはアディとアリシア。アディには飲み物を買ってきてもらうよう頼んでおいたので、きっとその道すがらにアリシアと会い、話をしているのだろう。
よくあることだ。メアリが入れば二人は話を一度止め、アリシアが飛びついてきて……と、日常茶飯事すぎて容易に想像できる。
それほどまでに見慣れた光景なのだ。
……だけど。
「なによ、私のアディとあんなに楽しそうに話して……」
そうメアリが呟き、次いで目を丸くさせて己の口元を手で押さえた。
自分は今なんと言った?
随分と恨みがましい声を出さなかったか?
だが自分自身にいくら問いかけても答えは得られず、胸のあたりに不快感が溜まり始める。なぜ今こんな状況で胃もたれを起こしているのだろうか。
いつも通り二人のもとへ行けばいいのに足が動いてくれない。それでいて楽しそうに話す二人から目が離せない。アディが穏やかに微笑み、アリシアが太陽のような笑顔を浮かべている。
今すぐに二人に声を掛け、彼等の……いや、アディの視線を自分へと向けさせたい。そう急くように思うこの感情は、今まで二人の会話に加わっていた時のものとは違い、酷くドロドロとしたものに感じられる。
『私のアディ』だなんて、どうしてそんな事を思ったのだろうか。それもアリシアを相手に。
自分の胸の内が分からずメアリが困惑していると、「あら」と声を掛けられた。
ベルティナだ。彼女は相変わらず高飛車な態度でメアリに近付くと、頭上のリボンを揺らしてふんぞり返った。
「メアリ様、ご機嫌よう。こんなところで暇そうにして、どうなさいましたの?」
「……え、えぇ、ベルティナさん、ご機嫌よう」
ベルティナのつっけんどんな挨拶に、メアリが心ここにあらずで返す。
いつもならば呆れて溜息の一つでも吐くところだが、今はそんな気分にもならない。暇を持て余して羨ましいだの、自分は期待されて忙しいだのといった嫌味も、全て右から左で意識に残らない。
気になるのは、いまだ楽しそうに話しているアディとアリシア……。
そんなメアリの様子に気付き、ベルティナが窺うようにメアリの視線を追い、そこで話す二人を見つけた。
「アディ様とアリシア様ですのね」
「え、えぇ……そうね」
「随分と楽しそうですが、メアリ様はこんなところで何をしていらしたんですか?」
「私? 私は……」
ベルティナに問われ、メアリが答えようとし……瞳を伏せて言葉を濁した。
そんなメアリの異変にベルティナが首を傾げるが、再び眼前の二人に視線をやり「あれは」と小さく呟いた。
メアリがつられるように顔を上げれば、アディとアリシアのもとへと近付くのは……カリーナだ。
彼女は大事そうに布の包みを持っており、それをアディへと渡すと深々と頭を下げた。アディが慌ててカリーナを宥めており、アリシアが不思議そうに布の包みを見つめている。
「カリーナ様、どうなさったのかしら? アディ様が受け取ったのは?」
「きっとアディの上着よ。前にアディが彼女に上着を貸したから……」
洗ったか、もしくは新しく仕立てたか。アディに礼を告げるカリーナは嬉しそうで、心から感謝していると分かる。
対してアディが気後れするようにカリーナを宥めているのは、改めて礼を告げられることが気恥ずかしいのだろう。
そんなアディを見つめ、ベルティナが感慨深そうに吐息を漏らした。
「アディ様はお優しいんですね」
「えぇ、そうね……。ずっと従者として仕えていたし、気が利くのよ」
「私とも一曲踊ってくださいましたものね。ほら見てください、カリーナ様ってばあんなに感謝して。……やっぱりアディ様は皆に優しいのね」
嬉しそうに話すベルティナに、メアリが生返事をする。
『アディは優しい』確かにそうだ、それに対しては賛同できる。だけど『アディは皆に優しい』という言葉は聞きなれず、メアリの胸に引っかかった。
なにせ今まで、メアリとアディは常に二人でいた。
『変わり者の令嬢』と『無礼な従者』という二人は同年代の令嬢達と接することは少なく、たまにその機会があっても二人揃って品良く猫を被り、付かず離れずな距離を取っていた。
アディの屈託のない笑顔は、メアリだけに向けられていたのだ。
アリシアに出会って、友人を得るまでは。
それを考えると、メアリの胸がざわつきだした。
この場から逃げ出したいような、二人の間に割って入りたいような、言いようの無い息苦しさを覚える。
そんなメアリの息苦しさを後押しするかのように、ベルティナが「アディ様は」と話しだした。アディの名を口にする彼女の声が、今日だけは妙に気に障る。
「アディ様が皆に優しいのなら、メアリ様だけではないということですよね?」
「……どういうことかしら」
「特に深い意味はありませんのよ? ……でも、アディ様はあんなに楽しそうにアリシア様と話をして、カリーナ様を始めとする皆さんに優しいんですもの、メアリ様、ご自身で思っているほど特別ではないんじゃありません?」
「なっ……!」
ベルティナの言葉にメアリが息を呑む。
だが言い返すより先に、こちらに気付いたアリシアの「メアリ様!」という声が響いた。
彼女がこちらに走り寄り、いつもの調子で抱き着いてくる。それを見て相変わらずだと言いたげな苦笑を浮かべるのはカリーナと……そしてアディ。メアリがじっと見上げれば、錆色の瞳がアリシアからこちらへと向けられる。
「お嬢、お待たせして申し訳ございません」
「……い、いえ、大丈夫よ」
上擦った声でメアリが返せば、異変を感じ取ったのかアディが覗き込んでくる。
だが次の瞬間彼の眉間に皺が寄ったのは、ベルティナが「アディ様の話をしていたんです」と割って入ってきたからだ。
ただでさえ苦手なベルティナが、メアリと二人きりで自分の話……となれば、彼が渋い表情を浮かべるのも仕方あるまい。
「俺の話、ですか」
「えぇ、アディ様はとても優しくて親切だって話をしていたんです」
「……俺が優しい?」
「はい。カリーナ様に上着を貸してさしあげたと聞きました。やはりアディ様は慈愛に溢れ、優しい方なのですね」
「慈愛? 俺が? そんなことありませんよ、俺は……」
言いかけたアディの言葉が、アリシアの「当然です!」という威勢の良い声に遮られる。
メアリに抱き着いて居たアリシアがパッと離れ、得意そうに胸を張った。
「アディさんはとっても親切で、すっごく優しいんです!」
「アリシアちゃんまで……。俺はそんな善人じゃないよ」
「いいえ、アディさんもメアリ様も親切です。私がこの学園に来たばかりの頃に、とても親身に接してくださったじゃないですか!」
当時のことを思い出しているのか、アリシアが瞳を輝かせながら話し出す。
学園に来た初日に迷っていたところ声を掛けて助けてくれただの、周囲に馴染めず食堂で一人寂しく食べていたところに同席してくれただの……。
アリシアの熱弁に、ベルティナが「やっぱりアディ様は優しいのね」と褒め、カリーナまでもが「さすがメアリ様」と感心している。
そんな二人を横目に、アディが気まずそうな表情でメアリに近付くと、そっと耳元に口を寄せて小声で話しかけてきた。
「どうします、『実は没落狙って嫌がらせをしていた』なんて言える空気じゃありませんよ」
「……そうね、この際だから認識の相違はさておきましょう」
熱弁するアリシアを止める術はなく、今迂闊に話しかければ再び抱き締められかねない。
だからこそ今はアリシアを放っておこう、そう考えてメアリがそっと両手で耳を塞いだ。熱弁に水を差すことはしないが、聞きたいわけでもないからだ。
それからしばらくアリシアの熱弁が続き、ようやく回収人が来た。言わずもがなパトリックである。
曰くアリシアに用事があり探していたようで、彼女の腕を引くと品良く挨拶して去っていった。見事な回収ぶりであり、その手際の良さに慣れを感じさせる。
それを見て、カリーナとベルティナも去っていった。――ちなみにベルティナは去り際にも高飛車に「良いお話を聞けたから、今日はここまでにしてあげますわ!」と言い放ち……そしてカリーナがポツリと呟いた「美味しい紅茶」という言葉を聞くや光の速さで逃げていった――
それらが去れば、一瞬にして静かになる。
メアリがようやく落ち着けると溜息を吐けば、ほぼ同時にアディも溜息を吐いた。思わず二人で顔を見合わせてしまう。
「お嬢、お疲れでしょうしそろそろ帰りましょうか」
「そうね。……ところで、ねぇアディ」
メアリが問いかけ、アディを見上げる。
錆色の瞳が何か尋ねるようにじっと見つめてくる。いつもメアリを、それこそメアリの自覚がない時も一途に見つめてくれていた瞳。
……だけどその瞳は、今はたくさんの人に向けられている。アリシアと楽しそうに話していた時も、彼は同じように柔らかく瞳を細めていた。
自分を見つめる時とどう違うのか……。
それを考えるとメアリの胸に再び靄が掛かった。胸元をぎゅっと掴めば、アディが案じるように覗き込んでくる。
「お嬢、まさか……」
「ねぇアディ……特別よね?」
そうメアリが呟くように尋ねれば、アディが錆色の瞳をパチンと瞬かせた。
次いでメアリの様子を窺うように見つめ、胸元を掴む手にそっと自分の手を重ねてきた。大きな手で包まれる。まるで肌を通して胸の靄を消そうとしているかのようではないか。
「特別……。確かにそうですね、特別です」
「……アディ」
「これほど酷い胃もたれは俺も聞いたことがありません。もしかしたら特別な理由があるのかも。アルバート家の専属医ではなく、胃もたれの専門医を呼んで診てもらいましょう」
そう手を強く握りながら告げてくるアディに、メアリがじっと彼を見つめた。
特別という言葉が胸に溶け込む。
それだけで心が落ち着き、安堵が湧く。……のだが、今一つ腑に落ちない気もする。
自分の事ながら分からないわ、とメアリが眉間に皺を寄せた。