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ベルティナの嫌がらせは、姑息……とさえ言えないものだ。それも全て失敗している。
「ご機嫌よう」と高飛車に現れてはメアリに突っかかり、そしてメアリや周囲の者達に言い負かされ気圧されて敗走……。万事が全てこの調子なのだ。これにはメアリも怒る気力も削がれ、むしろ事を荒立てたくないとベルティナを逃がしてやっているくらいである。
「どうにもあの子を見てると放っておけないのよね」
そうメアリが溜息交じりに呟いたのは、夕食も終えた後の一時。場所はアディの部屋。
メアリ専用のクッションに座り、メアリ専用のセカンドクッションをポスポスと叩きながら一日を振り返り、その中でベルティナの話題になったのだ。
今日も今日とてベルティナはメアリに突っかかり、そして敗れて逃げていった。それも、今日は四度も襲撃されている。
元よりアリシアとパルフェットに両腕を取られていた上に、ベルティナのちょっかい……となれば、メアリが溜息を吐くのも仕方あるまい。余計な疲労が溜まり過ぎる。
「しかし、ベルティナ様のあの空回り、なにかを思い出しますね。……例えるなら、高等部時代のお嬢とか」
「あら失礼ね、私がいつ空回ったって言うのよ」
「むしろ空回っていない時がありましたか?」
「本当に失礼ね!」
ポスン! とメアリが勢いよくクッションを叩く。
……が、ふいと視線をそらしたのは、空回っていない時を思い出そうとしても浮かんでこないからだ。高等部時代の目指せ没落、エレシアナ大学留学時代の傍観、そして渡り鳥丼屋の一件……振り返れば、どれもアディの言う通り空回っていた気がする。
これは話を変えた方が得策かもしれない、そう考え、メアリがツンと澄まして平静を取り繕うと共に「ところで」と話し出した。
「アディ、貴方本当にベルティナさんとは初対面だったのよね?」
「えぇ、初対面です。俺はエレシアナ学園に行った事がありませんし、バルテーズ家はアルバート家との繋がりもない」
「そうよね。それなのにあの態度……もしかして」
「ベルティナ様は前世でドラ学のアディが好きだったんでしょうね」
「……あっさり言うのね」
きっぱりとアディが断言する。
その表情はまるで他人事と言いたげだ。とうてい、一人の令嬢が自分に横恋慕していることを話す表情ではない。……メアリの胸の内にはまたも靄が渦巻きだしたというのに。
「ベルティナさんは貴方の事を好きなのよ?」
「俺じゃありませんよ。ドラ学のアディでしょう」
「そうよ。でもアディじゃない」
「違いますね」
アディが断言する。
その口調はもはや他人事どころではない。一切興味がない、無関係だと言っているようなものだ。
「ドラ学のメアリ様は我儘で意地の悪く庶民を馬鹿にするご令嬢なんでしょう? お嬢とは違う人物ですよね」
「そうね、あんな女にはなりたくないわ」
ドラ学のメアリ・アルバートを思い出し、思わずメアリが眉間に皺を寄せた。悪役として設定され描かれていたとはいえ、ドラ学のメアリはそれはもう姑息で嫌味な女だった。
自分の家名を盾にやりたい放題、取り巻きを従え、歯向かう者は目上だろうが家名を使い黙らせ、時には他家の使いや学院関係者さえも不当に解雇させていた。没落という道筋こそ利用させて貰おうと思っていたが――結果はさておき――メアリ自身、ドラ学のメアリはいけ好かないと感じている。
それを話せば、アディが同感だと頷いた。念を押すように「お嬢とは別人ですね」と言ってくる。
「そしてドラ学のアディは、そんなメアリ様のことを嫌い、それでも権威に恐れをなして従っていた。ほら、俺とは別物じゃないですか」
「確かに別人だわ」
「以前に言いましたよね『俺の居場所は貴女の隣』。ドラ学のアディはそんなセリフをメアリ様には言わないでしょう」
じっと見つめながらアディが諭してくる。錆色の瞳、ゲーム通りの色合いだったかはもう覚えていないが、メアリにとって何より落ち着かせる色だ。
時に温かく、時に熱く、自分を見つめてくれる瞳。
こうやって彼に見つめられるのは、ドラ学のメアリでもない、ファンディスクのアリシアでもない……自分だけだ。その心地好さに、メアリの胸に湧いていた靄が溶けていく。
確かにアディの言う通り、ドラ学のアディと目の前にいる彼は別物だ。
思い返せば、ドラ学のアディはその苦境から繊細なタイプに描かれていた。ファンディスクで設けられた彼のルートでは、今まで悪役令嬢メアリを止められなかった自分を悔やみ、悩み、そうして自分なりの贖罪の道を探す彼の姿が描かれている。
ドラ学のアディは、けっして北の大地まで共にするなんて言い出さなかっただろう。
「そうね。アディはいつも私の隣にいてくれるんだものね……。ドラ学のアディとは違うわ」
「そうですよ。そもそも、ドラ学のアディは権威に恐れをなしてメアリ様の言いなりだったんでしょう? 主人に忠実で言いなり、それは俺じゃないですね!」
得意気に語るアディに、メアリがすっと瞳を閉じた。
「……ドラ学のアディと貴方との間には大きな違いがあったわ。忠誠心という名の違いが。ドラ学のメアリだったら、アディなんか即座にクビ、国外追放よ」
「なに言ってるんですか、お嬢。俺のこの態度なら、ドラ学のメアリ様と言わず、そこいらのご子息ご令嬢だってクビにしますよ」
「自覚あるなら正しなさいよ! いいわ、私だってクビにしてやるんだから!」
メアリが意気込み、手元にあった紙とペンを手に取る。メモ用紙程度だが、アルバート家の令嬢がしたため父である当主のサインを貰えば正式な解雇通知になるはずだ。
なんだったら血判ぐらい押したっていい。
「みてなさい! これを書いてすぐにお父様のところに……。なによ、その余裕顔」
キィキィ喚きつつ解雇通知を書いていたメアリが、訝し気にアディに視線を向ける。
いつもの流れならば、メアリが解雇通知を書きだせばアディが慌てだし、あの手この手で宥めすかして阻止してくるのだ。そうしてメアリの「次は無いんだからね」という言葉であやふやになる。今まではそうだった。
だが今日に限っては、アディは焦る素振り一つ見せずにいる。それどころか阻止すらせず、どうぞご自由にといわんばかりだ。
らしくないこの対応に、メアリが解雇通知を書きながら「なにが言いたいのよ」と唸るように尋ねた。
「良いですよ。どうぞ書き終えたら旦那様にお渡しください。でも、その前に一つ覚悟をしてくださいね」
「覚悟?」
「その解雇通知が受理されたら、お嬢の夫は無職になるんですよ!」
「……なっ!」
アディの言葉にメアリが言葉を失う。
だが確かに、アディはメアリの従者でもあるが同時に夫でもある。その彼が従者という職を失えば、メアリの夫が職を失うという事だ。
突きつけられた事実に、メアリが手元の解雇通知に視線を落とし……、
「まぁでも、天下のアルバート家だもの、無職男の一人ぐらい養うのは造作ないわ」
と決断を下し、書き終えた解雇通知を手に立ち上がった。
「待ってください! すみませんでした! この仕事やめたくない!」
「お父様! アディがついに解雇の覚悟を決めたのよー!」
「決めてません! 俺は生涯アルバート家に仕えると決めたんです!」
「大丈夫よアディ、渡り鳥丼屋の副店長の職があるじゃ……!」
あるじゃない、と言いかけたメアリが言葉を飲み込む。
扉へと向かおうとしたところ、アディに背後から抱き抱えられたからだ。背の高いアディに腰に手を回されて抱き上げられれば、メアリの足が床から離れる。
指先に触れかけていたドアノブが離れていき、これにはメアリがむぅと眉間に皺を寄せた。結婚前から続いている応酬だが、結婚後はアディの武力行使が目立つようになってきた。
だが元より彼は同年代の男性より背が高く、対してメアリは小柄。抱き上げられれば――節度の元に脇腹を殴る以外に――抗う術はない。仕方ないとメアリが肩を竦めた。
ポスンとクッションに戻され、せめて最後に一撃と丸めた解雇通知をアディに向けてポンと放り投げた。
「ドラ学アニメに、ベルティナさんに、相変わらず従者は無礼で、夫に拘束されてお父様にも会いに行けない……。心労が祟って気分が悪くなるのも仕方ないわね」
「お嬢、体調でも悪いんですか?」
「えぇ、この間から妙に胸のあたりに靄がかるというか、不快感がするというか、落ち着かないのよ」
ふとした瞬間に胸の内で靄が渦巻き、言いようの無い不快感に襲われるのだ。思い返せば、この不快感は交換留学初日からではなかったか。
それをメアリが話すと、アディの手がそっとメアリの手を掴んできた。案じてくれているのだろう、指先で手の甲を撫でられると温かさと擽ったさが湧く。
「お嬢、気付かずに申し訳ありません。ですがもう大丈夫ですよ」
「大丈夫?」
どういうこと? とメアリがアディを見上げれば、穏やかに微笑んでいる。
彼の手がぎゅっと強くメアリの手を握ってきた。
「アディはこの不快感が何か分かるの?」
「もちろんです。俺は誰よりお嬢のことを理解していますからね」
「……アディ」
彼の言葉に、メアリがほぅと吐息を漏らした。
誰より理解している、なんて甘く頼りがいのある言葉だろうか。事実アディはメアリが赤ん坊の事からそばに居て尽くしてくれていた。
従者として仕え、見守り、そして恋心を抱いて見つめ、夫となった今は愛をもって隣に居てくれる。きっとメアリの事をメアリ以上に理解しているに違いない。
その愛の深さを想い、メアリが穏やかに笑った。
「そうね、アディは私のことを何でも知ってるのよね」
「えぇ、ですからもう大丈夫ですよ。明日から……」
「明日から?」
明日からどうするのか、そうメアリが問えば、アディが穏やかに微笑み、
「明日から、食事は軽めの料理を用意しましょう」
と提案してきた。
メアリが彼を見つめ、次いで己の胸元に視線を落とす。
胸の内に湧いた靄、言いようの無い不快感。ざわつくようなあの感覚は……。
「なるほど、胃もたれだったのね」
納得だわ、とメアリが頷きつつ呟いた。