7
敗走したはずのベルティナが戻ってきたのは、それから二時間後の事。
相変わらず高飛車な彼女は、先程の敗走が無かったかのようにふんぞり返っている。そうして頭上のリボンをひらひらと大きく揺らしながらメアリに近付くと、これ見よがしにつっけんどんに挨拶をしてきた。
だが次の瞬間には愛らしい笑顔を浮かべ、アディに向き直ると彼の腕に触れるのだ。この変わり身の早さにはメアリも感心してしまう。アディは感心するどころか頬を引きつらせているのだが。
「アディ様、こんなところでお会いするなんて思いませんでしたわ」
「……そう、ですかねぇ」
アディが引きつった笑顔で返す。そうしてベルティナの手に触れると、そっと己の腕から彼女の手を離し、にじにじとメアリに寄ってくる。いや、逃げてくると言うべきか。
その態度のなんと分かりやすい事か。ついにはメアリの背後に隠れてしまった。
もっとも、メアリとアディの体格差は歴然としており、背後に隠れると言っても身を屈めるわけではないので彼の姿の大半は露見している。
そこから露骨に溢れるこっちに来るなオーラと言ったら無い。
だがベルティナはそのオーラにも気付かず、今度はメアリへと視線を向けると「あら」とわざとらしい声をあげた。
「メアリ様、それは授業の教科書ですか?」
「えぇ、そうよ」
「……アディ様に持たせてはいないんですか?」
「アディに? だって私の教科書よ、私の持ち物じゃない」
自分が持って当然でしょ? とメアリが返せば、ベルティナが不思議そうな表情を浮かべた。「あれ?」だの「なんで?」だのと呟く声は心から疑問を抱いているようで、彼女の頭上に疑問符が浮かんでいそうなほどだ。
ちなみにベルティナも授業のための移動中らしいが、手には何も持っていない。おおかた、今日も今日とて背後に構える取り巻き達に持たせているのだろう。
「まぁ良いですわ! メアリ様、その教科書を一冊貸してくださいません? 私、大学部の授業に興味がありますの」
借りる側とは思えない不遜な態度でベルティナが手を差し伸べてくる。
いったい何を考えてるのか……とメアリが怪訝そうに彼女を見つめていると、アディが自分の教科書を貸すと言い出した。ベルティナは苦手だが、彼女にメアリの私物は渡すまいと考えたのだろう。
「まぁ、アディ様ってば優しいのね。でも私、メアリ様の教科書をお借りしたいんです」
「俺とお嬢の教科書は同じものですよ」
「それならメアリ様のノートが見たいわ」
アディの申し出を躱し、ベルティナが差し出す手を軽く揺らして急かしてくる。なんとも怪しい話ではないか、何か企んでいるのだろう。
だが教科書で出来る事などたかが知れている。汚したり、破いたり、その程度だ。
どう足掻こうともチープな嫌がらせ、アルバート家の令嬢であるメアリにとって教科書の一冊や二冊失っても痛手にもならない。傷つきもしないし、嫌がらせにもならない。
たとえば、仮にこれが庶民出身の生徒なら別かもしれないが……。
そこまで考え、メアリがベルティナに名を呼ばれてはたと我に返った。
「メアリ様、もしかして貸してくださらないのかしら? なんて意地悪な方でしょう!」
「あらごめんなさいね、考え事をしていたわ。教科書ね」
どうぞ、とメアリが手にしていた一冊手渡した。適当に選んだ、大学部の授業で使うものだ。もちろんアディも同じものを持っている。
それを受け取った途端、ベルティナがわざとらしく「きゃっ!」と声をあげた。
「私ってば、ついうっかり破いて……!」
白々しいベルティナ言葉を聞き、メアリが内心でやはりと呟いた。
やはり彼女はメアリの教科書を破くつもりだったのだ。
なんてチープな嫌がらせだろうか。品が無く、子供じみている。まるでどこぞの悪役令嬢のようではないか。
思い返せば、ドラ学のアニメでは悪役令嬢メアリがアリシアの教科書を破く展開があった。庶民出のアリシアは教科書を買い直すことが出来ず、テープで補修するシーンは健気で憐れみを誘い、後々の逆転へのカタルシスを高めていた。
……もっとも、ベルティナはと言えば、
「やぶ……やぶいて……かたいぃぃ……」
と、教科書をを破こうと必死になり、切ない泣き言をもらしていた。
なぜ一冊丸々破こうと思ったのだろうか。
それも、本の造りを一切無視して真横に。
そうとう頑張っているようで、彼女の腕が震え、頭上のリボンまで揺れている。……だが教科書はビクともしない。
当然だ。なにせカレリア大学の教材。表紙はしっかりとした厚紙を使用し、なにより五百ページを超えるボリューム。
令嬢のついうっかりで破けるものではない。
「かたい……かたいぃ……!」
「無理よ、一冊丸々は諦めなさい。それかほら、こっちのプリントにしときなさい、一枚なら破けるでしょ」
「嫌ですの! 私はついうっかりと、この教科書を破いて……手が痛いぃ……!」
教科書を掴みつつベルティナが悲鳴をあげる。
これにはメアリもどうしたものかと考え、破きやすそうな教科書はないものかと手元を覗き込んだ。箱入り令嬢のベルティナでも破けそうな、そんな軟な造りの教科書は……。
そんなものあるわけがない。ならばノートはどうか?
そうメアリが考え、試しにノートを数ページ破いてみようとした瞬間、
「何してるんだ?」
と、声を掛けられた。
パトリックだ。彼は不思議そうな表情でメアリと教科書を手にしてるベルティナを見やり、それでも状況が掴めなかったのだろう、今度はアディへと視線を向けた。
説明を求む、と、藍色の瞳が訴えている。
。
「えぇっと、話せば長く……なりません」
「長くないのか」
「ベルティナ様がうっかりお嬢の教科書を破こうとしてるだけです」
「短いうえによく分からないな。……でもそうか、あの教科書を破くのか」
なにやら物言いたげにパトリックがベルティナの手元を見つめる。
そこにあるのはメアリの教科書。ベルティナは必死に破こうとしているが、さすがカレリア大学の教材である、ビクともしない。
むしろベルティナの手に負担が掛かっているのか、彼女の手がぷるぷると震え、「なんで破けませんの……!」と泣き言がより切なさを増している。
そんなベルティナを見つめ、パトリックが溜息と共に彼女を呼んだ。
「ベルティナ嬢、随分とその教材に恨みがあるようだな」
そう言い切る彼の声は心なしか冷ややかで、どこか厳しさを感じさせる。
これにはアディも、それどころかベルティナを案じていたメアリさえも、どうしたのかとパトリックに視線をやった。じっとベルティナを見つめる。いや、見下ろすとさえ言える冷ややかな今のパトリックは、なんとも彼らしくない。
「その教科書の著者は俺の知り合いなんだ。とても勤勉な方で、以前に彼の分野に興味があると話したらわざわざ時間を作って話をしてくれた」
「そ、そうなんですの?」
「彼がその教科書を書き上げるのに、相当苦労したと話してくれたよ。あちこち駆け回って、山のような資料を一から調べて、心血を注いだ一冊だと……」
次第にパトリックの声がトーンを落としていく。それはまるで『冷徹』とまで言われたドラ学パトリックのようではないか。
劣ると判断したものは容赦なく切り捨て、微笑むのはヒロインにだけ。クールを遥かに超えた冷たさ。確かドラ学アニメでもその冷徹さは健在で、冷ややかであればあるほどファンが過熱していったと記憶している。
今のパトリックはまるでドラ学のパトリックそのものだ。メアリにとっては見慣れないことこのうえない。
ベルティナにもその冷気が伝わったのか、パトリックの態度にビクリと体を震わせた。
だがそれだけでは足りないのか、パトリックはいまだ鋭い瞳でベルティナを見つめたまま、溜息交じりに口を開いた。呆れるどころか侮蔑を込めた、なんとも重く威圧的な溜息だ。
「彼の傑作である一冊を破くのか……。物の価値が分からないとは、なんとも哀れだな」
「な、なんですの……。私、別に価値が分からないなんて……」
「バルテーズ家だったか、同じ社交界に身を置く者として、恥ずかしく思うよ」
きっぱりと言い切り、パトリックがふと考え込むように瞳を伏せた。
そうして誰にも聞こえない程度の声量で、それでも彼の威圧感により静まり返ったこの場にはよく通る声で呟いた。
「……要らないな」
その言葉に、ついにベルティナが悲鳴をあげた。
「パトリック様、やっぱり冷徹な方でしたのね……!」
という怯えの声と共に、メアリの手に教科書を押し付ける。
「わ、私、こんな教科書……こんな価値ある教科書に用はありませんの!」
「ベルティナさん、貴女さっき『やっぱり』って……」
「次の授業もありますし、これで失礼いたしますわ!」
優雅さの欠片もない慌てようで一礼してベルティナが撤退すれば、その後を取り巻き達が追いかけていく。そうして彼女達の背中が見えなくなると、パトリックが深く息を吐いた。
「で、何でこんな事になったんだ?」
振り返って尋ねてくる口調も声色も、いつもの彼のものだ。呆れを交えてはいるものの、先程の突き放すような冷たさは無い。
これにはメアリも感心してしまう。自分も猫を被り完璧な令嬢を装う事はあるが、パトリックほどは上手くは演じていない。――そうメアリは感じているが、パトリックもまた「メアリ程は上手く演じていない」と肩を竦めていた。これもまた二人らしい――
「凄いわね、パトリック。さっきの貴方、まさに冷血漢って感じだったわ」
「俺の演技力もなかなかだろ。それで、ベルティナ嬢は何がしたかったんだ?」
「ちょっとした悪戯よ」
可愛いものだとメアリが肩を竦めつつ話し、戻された教科書を撫でた。当然だが破れどころか傷一つついていない。
彼女はこれを破ろうとしていた。まるでチープな悪役令嬢のように。……それに。
「そういえば、ベルティナ嬢は逃げる時に俺のことを『やっぱり冷徹な方』と言っていたな。やっぱり、とはどういうことだ?」
「……さぁ、分からないわ」
「他所で変な評価をされているのかな」
それは困るとパトリックが眉を潜める。
先程の冷徹ぶりはあくまで演技。それも滅多に見せるものではない。その数少ない時だって、後々にはきちんとフォローを入れている。
厳しくもあるが、その厳しさは相手のため。常に冷静沈着だが意外と情に厚い、それが周囲が抱くパトリックの評価だ。
それに彼は身分よりも愛を選び、庶民の出とされていたアリシアと結ばれるためには家名を捨てる覚悟でさえいた。そのうえメアリと結ばれることを願っていたアディの背中を押したのだから、そんな彼の評価が『やっぱり冷徹な方』になるわけがない。
……それこそ何か別の、パトリックのようでいてパトリックではない、『違うパトリック・ダイス』の印象を抱いていない限り。
「今後のためにも、この交換留学でエレシアナ学園側へのイメージアップでも図っておくか。ところでアディ、さっき教授が……アディ?」
パトリックが不思議そうにアディを呼ぶ。
その声に、考え込んでいたメアリがはたと我に返った。パトリックの声につられるようにアディを見れば、彼は硬直し……、
「パトリック様、今までの非礼をどうかお許しください」
とこれでもかと他人行儀で深々と頭を下げた。
錆色の視線が、パトリックと目を合わせられないと言いたげに逸らされている。怯えさえ感じさせる瞳だ。
「アディ!?」
「パトリック様に掛かれば、俺の家を潰すなんて造作もないこと……。今までの非礼とこれからの非礼を謝罪します、どうか家にまでは手を出さないでください……!」
「なんだその薄ら寒い態度は、人聞きの悪い事を言うな。……待て、今までと『これからの非礼』って何だ」
「なんですか、薄ら寒いとは失礼ですね」
パトリックが文句を言えば、途端にアディが普段の態度に戻ってしまう。彼もまた役者ではないか。
そうして改めてメアリが一連の流れを話せば、パトリックが怪訝な表情を浮かべた。
曰く、ダイス家はバルテーズ家と繋がりがあり、ベルティナの事も耳にしているという。
まさに典型的な我が儘令嬢。取り巻きを従え、格下相手に威張り散らし、誰が相手だろうとツンと澄ました態度で接する。両親に甘やかされ、取り巻きにチヤホヤされ、周囲を困らせるものの痛い目に遭う事もなく今に至り、その結果の性格なのだという。
だがあくまで周囲を困らせる程度だ。それならば社交界でも珍しいものではない。話を聞くだけで、メアリの脳裏に数人の顔が浮かんでくる。
「あそこまで理不尽な事をするとは聞いていなかったんだけどな」
おかしいと言いたげにパトリックが首を傾げる。
そんな彼を横目に、メアリはいつになったら平穏な学園生活を送れるのかと溜息を吐きつつ、傷一つない教科書を再び撫でた。