8
それから数日後、メアリはとある家を訪ねていた。
質朴とまではいかないが、アルバート家の屋敷とは比べるまでもない狭さ。造りにも調度品にも傷みや年季が見え、綺麗に保とうとはしているものの生活感が隠しきれない。
どこにでもあるごく一般的な家である。もっとも、アルバート家令嬢を呼ぶとなれば貧相で失礼にあたる部類でもあるのだが。
「このようなところまでお呼びしてしまい、申し訳ありません」
そう頭を下げるのはこの家の主。そして言わずもがな、流通経路の管理を任されている者だ。
柔和な表情と穏やかな声色。あのアルバート家令嬢をわざわざ呼び出したことに対して詫びる様はまさに「気の良い男性」である。貴族嫌いとは思えない。
そんな彼の言葉に、メアリは優雅に微笑み「持ち掛けたのは私ですもの」と笑った。
そこに身分の差があれど、頼み事とは持ち掛けた方が足を運んで話をするべきだ。「用があるから来なさい」とアルバート家の屋敷でふんぞり返るのはメアリの最も嫌う部類である。
そうして出されるスープに口をつける。
貧しいとは流石に言えないが、それでも豪華とは言いがたい食事。聞けばシェフではなく男の妻が作ったものらしく「お口に合うかどうか……」と運んでくるのもメイドや従者ではなく、彼の妻だ。
一般的な家庭の昼食と考えれば当然だが、良いところの、そしていかにもな貴族の令嬢であれば無礼極まりないと怒っているだろう。
もっとも、そこはメアリ・アルバート。
「美味しいスープだわ。コロッケと合うわね」
とご満悦である。それどころか、
「アディ、ちょっと奥様にレシピを聞いてきてちょうだい」
と家でも食べようとする始末。
そんなメアリの様子に、向かいに座る男が苦笑を漏らしてテーブルに視線をやった。妻が作った庶民なりの豪華な食事。そこに並ぶのは……、
「まさかアルバート家のご令嬢が、惣菜屋のコロッケを持ってきてくださるなんて思いもしませんでした」
そう、コロッケである。
「どこぞの小うるさい王女様が『美味しいものを一緒に食べると話が弾みます』と教えてくださったの。だから、是非にと思いまして」
ニッコリと微笑み、メアリがサクサクとコロッケを堪能する。
といっても、メアリの手土産はコロッケだけではない。市街地でクッキーの詰め合わせと季節の花を用意した。だがそれだけでは物足りないと考え、その結果コロッケである。もちろん、貴族嫌いの彼へのアプローチも兼ねているのだが。
「メアリ様には何度も手紙をいただいて……。良い答えを返せず申し訳ありません」
「事情は伺っております。道も、ここに来る前に見ました」
気遣うような声色でメアリが告げれば、男もまた苦笑と共に肩を竦めた。
彼の管理する土地、件の道は酷い有様としか言いようがなかったのだ。むしろ道と呼んでいいのかどうかも定かではないほどに荒れており、整備が途中で投げ出されたことが目に見えてわかる。
どれほどの物かと立ち寄ったメアリはあまりの光景に思わず眉間に皺を寄せ、この地で暮らす者達の苦労を考えるとついには顔を背けてしまった。
中途半端な整備が外観を損ね、通る者も少なくなり次第に治安も悪くなり、夜は柄の悪い者が行き来しているという。
等間隔に建てられた街灯も、設置途中なのが見てわかり灯りそうにない。これでは逆に夜は真っ暗になると宣言しているようなものではないか。
誰もがどうにかしたいと考えるが、どうにかするには金が掛かる。
優雅な貴族ならばまだしも、一般的な階級では到底金の工面もできない。領主に訴えたところで、金にならないどころか金が出ていくしかない訴えは片っ端から無視をされる……。
これが現状なのだ。
なるほど、貴族嫌いになるのも無理はないわねとメアリが内心でごちる。
「管理を任されていると言えば聞こえは良いんですが、実際はいらなくなった土地を押し付けられているだけです。我々が手出しする金がないことを、奴らは知ってますからね」
「酷い話だわ」
「そういう家なんです……あの、ロートレック家は」
唸るように呟かれた男の声には嫌悪が感じられる。否、嫌悪しか感じられない。
横暴さに振り回され、そして荒れた土地を押し付けられたのだ、男の表情が厳しくなるのも仕方あるまい。声色は家名を口にするのも嫌だと言いたげで、隠しきれない嫌悪を前にメアリもまた家名を小さく呟いた。
ロートレック家。
どこかで聞いたかしら……と。だが幾度家名を呟いたところで誰一人顔を思い出せないあたり、その程度の認識なのだろう。もしかしたら話をしたことも無いかもしれない。
なにせアルバート家は国内一の名家。
興味のない家に媚を売る必要もなければ話しかける必要もない。アルバート家令嬢のメアリもまた同様に、声を掛けられれば応じるが、自ら積極的に他家に絡むことはなかった。
横暴な家ならば尚の事、そういう家はいくら取り繕ってもうさん臭さが漂い本能で近寄ることを避けるものなのだ。
「メアリ様の提案も、きっと話を聞けば喜んで了承するでしょう。そちらの方が話が早いと思いますよ。そうすればあの男は今すぐにでも私からこの土地を取り上げ、貴女に差し出すことでしょう」
その光景を想像しているのか、話す男の表情はどことなく悔し気だ。冗談めかして肩を竦めてはいるものの、声色と、そしてふとした瞬間に見せる表情から嫌悪が滲んでいる。
もっとも、住んでいる自分達を蔑ろにして己の利益しか考えない領主のことを話すのだから、誰だって良い表情は出来ないだろう。
自虐的に笑いながら話す男に、対してメアリはコロコロと上品に笑いながら、
「私、頭の回らない方とは話したくありませんの」
とあっさりと言い捨てた。
これには男が目を丸くさせる。
「頭の回らない……」
「えぇ、目先の欲につられて己の手元を見られないような方とは話をしたくないの。だってほら、話すだけで品位が下がりますでしょう」
ねぇ、と冷ややかに言い切る今のメアリはいかにも「高貴な令嬢」である。たとえるならば一等の屋敷で、一等の持成しを受け、そして優雅に己の品位を語っているような高貴さを感じさせる。
だが実際にはメアリの現在地は一般的な庶民の家で、手にするティーカップは洒落てはいるが高級とは言い難い。茶葉も同様、普段メアリが口にする茶葉の十分の一の値段にも満たない代物だ。
それを優雅に堪能し、そして有名パティシエでも専属メイドでもない素人の手作りマフィンを食べている。おまけにこれにもまた「美味しい」と表情を綻ばせているのだ。
一級品とは程遠いものに囲まれ素人作の料理を口にする。それでも纏う気高さは変わらない。
これには男もしばしメアリを見つめ、次いで小さく肩を竦めた。
「……そうですか。そのようにお考えなのですね」
「ここに住んでいるのはロートレック家ではなく貴方よ。だから直接許可を頂きたいの」
「……えぇ、構いません。どうぞよろしくお願い致します」
「以前に受けた仕打ち、そして今の道の現状、それらを考えれば信用出来ないのもわかります。ですがどうか、信じてください」
「お嬢、お嬢……!」
「アルバート家の名に懸けて……いえ、メアリ・アルバートという私個人の想いにかけて、道の整備も、そして繁栄も約束いたします!」
「いえ、ですからどうぞよろしくと……」
「申し訳ございません。ちょっと今のお嬢は別の世界にいっております。すぐに戻しますので、今しばらくお待ちください」
「既に国内でもパーティーの際に食事に出して反応をうかがっています。社交界での評価は好評。パーティーに出しても良し、そして市街地にも店を持つ……。階級に捉われぬ客層を得ようと考えてますの」
「お嬢、ちょっと落ち着きましょう」
「ゆくゆくは隣国にも渡り鳥丼屋を開き、手堅くやっていく予定です。もちろん隣国の一等地を狙います!」
勢いのまま拳を握り立ち上がるメアリに、対して男が目を丸くさせる。
アディだけは溜息をつき、「お嬢、戻ってきてください」とメアリの目の前ではたはたと片手を振った。
「お嬢、ドリルの国から戻ってきてください」
「あの国からはもう亡命したわっ! ……そうじゃなくて、渡り鳥丼屋の話よね。えっと、許可してくださるの?」
きょとんとメアリが不思議そうな表情で男を見る。最初こそメアリの熱の入れように唖然としていた男も、これには苦笑をもらして頷いた。
「あ、あら良いの? 渡り鳥丼屋について二時間くらい語り倒す覚悟で参りましたのよ?」
「お嬢、それはもはや嫌がらせの領域です」
こんなにあっさりいくとは思わず、メアリが拍子抜けだと数度瞬きをする。
それがまた面白かったのだろう、男はそんなメアリをクツクツと笑いながら眺め、そして紅茶を一口飲んだ。落ち着き払ったその態度に嫌悪や敵意の色はなく、それどころか温かな笑みにさえ見える。
「聞いていた噂の通りでした」
「噂?」
「えぇ、失礼を承知で申し上げますと、変わり者・令嬢らしくない・ドリ……。型にはまらない方と伺っています」
「そうね、色々と言われて……ドリ?」
聞き捨てならない単語の気配に、メアリが首を傾げる。ドリ?
だがなんにせよ――ドリルにせよ――許可を貰えるのであればこれ以上の事はない。
そう考えて椅子に座り、改めて家主へと向き直った。――その際、テーブルの下で見えないようにアディの足を踏みつけたのは「あんたがあっちこっちでドリルって言ってたから、いまだに根付いてるじゃない!」という訴えである――
そうしてメアリが一度銀の髪を優雅にふわりと払い、改めて家主に向き直った。
にっこりと微笑み「嬉しいわ」と心からの一言。それを見た家主が堪えきれないと笑いだし、次いで台所に居るであろう妻を呼んだ。
「どうか怒らないで聞いてください。高飛車なご令嬢が来たら、これを出してやろうと思っていたんです」
そう話しながら男が「どうぞ」と促すのは、なんとも美味しそうな……コロッケ。
「コロッケは偉大だわ……」
とメアリが呟いたのは、そんなやりとりから数時間後。アルバート家に戻り、交わした書類を一通り眺めてホッと一息ついた頃。
さすがにこれにはアディも頷かざるを得ず、大人しく同意した。
「これでパーティーで大々的に発表できますね」
「えぇ、一時はどうなるかと思ったけど、わかってもらえてよかったわ」
そう話しながらメアリが手元の資料を見つめる。
パーティー当日までに道の整備を完成させなければ。よからぬ輩が行き来していると言っていたが、そちらも警備をつけて対処し……と、今後のことを考えるとなかなかに多忙だ。
だが別れ際に家主も協力すると言ってくれた。そのうえスープのレシピも持たせてくれたのだ、きっと信用してくれたのだろう。
変わり者のアルバート家令嬢を信用してくれた。いや、変わり者だから信用してくれたのか。どちらにせよ、彼が信用してくれたのはアルバート家の名前ではなく『メアリ』という個人だ。
「話し合い分かり合うって素晴らしいわね」
そうメアリが瞳を輝かせて告げれば、アディもまた同感だと頷いた。