03 地図
イギリス海軍大将、ウィリアム=ローランド卿は、剣の稽古をしていた。同じくらいの腕の部下を相手に、乾いた金属音を響かせていた。東洋系の整った顔、黒い髪。髪と同じ色で、生き生きとした目。
よく晴れている。雲は一つも見当たらない。昼過ぎの太陽は透明な光を投げつけている。だが、空は色あせたような青だ。
「まだだっ、右足への踏み込みが足らない!」
至近距離で、声をあげた。部下が、荒い呼吸の合間に返事をした。自身も体重移動に注意して、相手の動きを読みながら隙を狙った。両目は獲物を狙う鷲のように輝いている。だが内心、そろそろ真剣で稽古するのは恐ろしい、と考えていた。まあ、どうせ戦場に立てば相手が持っている武器は本物なのだけれども。
その横で、二人の稽古を見ている部下達がひそひそと話していた。
「さすがローランド卿というべきか……」
「ああ、本当に。ヘンリー卿との手合わせの最中に考え事なんて、我々がそんなことをしたら簡単に負けてしまうよ」
「ヘンリー卿は、相手が上官だからって、わざと負けるような方ではないし」
「やはりローランド卿はお強いな」
「ああ、近来稀に見る、文武両道の勇将だ」
会話を全て聞き取っていたローランド卿は、俺はなんて地獄耳なんだと自嘲した。たしかに才能のおかげで、血筋は劣っても部下からは慕われるのは喜ばしいことだ。だが、そういった才能のほんの少しでも、他の人間関係にまわせればと思う。軍内にしろ、社交界にしろ、人間関係といったら酷いものだ。
しかしすぐに、いけない、集中しなくては、と思い直し、もうそちらへは気を逸らさないことにした。
ふいに体が軽くなったように感じられた。足が地面に着いているのか分からなくなった。剣を握っているのか?全身の感覚が無い。剣が、手からこぼれ落ちた。音が響く。双方の動きが止まった。
「閣下……?」
ヘンリー卿が、心配そうに声をかけた。けれど答えることができない。分からない、今、暑いのか寒いのか。何も感じない。俺は今、立っている?
足に力を入れることが出来なくなって、その場へ倒れこんだ。部下が駆け寄って、体に触れた。そんな気がした。何も感じない。なんでだろう。
幸い、少し休んだら感覚は戻って来た。部下は、お疲れなんでしょうと彼をいたわった。
違う。最近、こんなことがよくある。急に体中の感覚が去る。何も分からない。そして、その時は自分で後から思い出してみても、気持ち悪いくらいに冷静なのだ。第三者として、まるで状況を分析しているかのようだ。怖いとか、嬉しいとか、そういった感情の一切を覚えていない。
ローランド卿は用を思い立った、と言ってその場を去った。向かった先は、西の港の外れだ。ほとんどスラム街と化した一角に、廃墟のような小屋がある。人目を気にしつつ、そこへ入った。
「どなたかな」
しわがれた老婆の声がする。
「私です……ウィリアム=ローランドです」
丁重に答える。
「おお、そうか……。来るかと思っていたのじゃが。ちと遅かったの」
そう言って、うす暗い小屋の奥から巻かれた羊皮紙を引っ張って来た。
「来ると分かっていた、とは?」
老婆は椅子に深く腰かけた。
「大方、血のことじゃろうて。ひひ……」
不気味な笑い声が響く。ローランド卿は顔をしかめた。
「ええ……当たりです」
「血が……騒ぐのかね」
「騒ぐ、というのでしょうか。あの血が混ざっていると……」
ローランド卿が小首を傾げる。
「抑えられなくなった?」
彼は、こくんと頷いた。
「手を見せてみい」
ローランド卿は冷たい血の流れる手を差し出した。老婆が木の幹のような手で甲をなぞる。本来ならば、くすぐったさに声が出るのだろうが。
「さようか……。エドモンドの奴から聞いてはいたが。ほれ」
そう言うと、先程の羊皮紙を差し出した。
「持っていくがいい。あとは、エドモンドがお前に渡しているはずだ」
ローランド卿は言葉が出ない。
「急がねば……まずいことになるぞ」
迷いなく家へ戻ると、義父からもらった物を調べ出した。十二歳の時、義父が出陣してから、手紙を受け取った。瓶の中に手紙を入れて海に流すという、なんとも古典的なものだった。届くかどうかすら怪しかった手紙。本棚に何か渡したいものがある、という内容だった。それは、自分の本当の父について、そして母について、義父が調べたことを書き留めていたものだった。その時は怖くなり、すぐに元の場所に戻すと、以来存在を忘れて近づくことも無くなった。だが、今、必要だ。知るのは恐ろしいが、知らねばならない。
書斎の本棚の一番奥、義父が趣味で古代の歴史書を集めた棚の、更に一番端に、それはある。うす暗い書斎を、カンテラの灯りが照らしだす。ローランド卿は、束になっている羊皮紙を引っ張り出した。自分の息が聞こえた。こんなにも怯えて――愚かな。