02 船出
あの少年――ウィリアムは連日、仕事の合間を縫って海へ行った。何をするでもない、ただ海を見るだけだ。義父が行ってしまった方をじっと見つめる。彼が出港した日と同じように。
その日も同じように海へ行った。波は絶え間なく揺れ動く。ぼうっとしていると、吸い込まれそうになった。馬から降りて、波打ち際を歩いた。ふと、透明な瓶が打ち寄せられているのに気付いた。ありふれた光景。瓶の一つや二つ、流れ着いたって当たり前だ。だが、そのただの瓶に何か強く惹かれた。しゃがんで拾い、ガラスにくっ付いている砂を払った。中に何か入っている。見ていいのだろうか、と申し訳なく思いつつも蓋を取った。羊皮紙が丁寧に畳まれて入っている。瓶を置き、慎重に広げた。一番上から読んでいく。
「えっ……!」
驚いた。湿気で少々滲んでいるものの、これは、義父の筆跡ではないか。しかも、宛名はウィリアムだった。どきどきしている心臓をうるさいと思いながら、続きを読んだ。
『 ウィリアム=ローランドへ
これで最後になるかもしれない。後悔しないうちに言っておく。いつか、必ず必要になる時が来る。私の部屋の本棚にある。捨てるかとっておくかは、全てお前に任せる。お前自身のことだ。
エドモンド=ローランド』
何のことか、さっぱり分からない。特に一文目。これで最後?いったいどういうことだ。
少年は羊皮紙を畳むと、上着のポケットにしまった。そして、乗って来た馬に飛び乗った。ポケットから何もはみ出していないのを確認すると、勢いよく馬の腹を蹴った。馬はいななくと、心地よい蹄の音を響かせながら走り出した。
太陽が昇っている。海に、だんだん白い光が長く映っていく。空は朝焼けだ。太陽は白っぽい黄色をしているのに、周りは鮮やかな赤だ。赤みの強い赤紫とでも言おうか。対照的に海は黒っぽい。光を受けて揺れ動いている。そして、その上を一隻の船が漂っていた。
海賊船ファントム=レディ号の船長、アート=シアーズは頭を抱えていた。彼の恋人のことだ。黒い巻き毛の長髪で、とても愛らしい顔をしている。肌は透き通って白く、どんな宝石よりも美しい。だが、彼女は人間ではない。セイレーンという、歌で人を惑わせ、食べてしまう海の魔物だ。人の姿になっているが、本性は大蛇のような青白い体を持つ。恋人、シルヴィアはこの船に乗っている。もちろん、人間の姿で、だ。だが最近、どうも彼女の様子がおかしい。いつ見てもげっそりとして、とても体調が悪そうだ。シアーズは内心怯えながら、やはり人の肉を食わなくてはいけないのか、と思っていた。
そんな時、同業者であるキャプテン=ゴードンから、面白い話を聞いた。本国、英国の西にある王国。神秘の島と言われ、古代から侵略を受けることは無く、そこに生きる者は、動物でも植物でも、毒を持たないのだという。その王国のさらに西側の海に浮かぶ孤島、アル=クメニ島には、昔、魔術を操り、竜と共に生きる人々がいたのだという。魔術使い達と竜はもう滅んでしまったらしいが、そこには魔力を無力化する聖水があるのだという。魔術使い達は、その水を、魔術を盗んだ他国の侵入者を無力化したり、島内の罪人の追放処分として使っていたらしい。魔術使いはいなくても、水の力は、残っているかもしれない。
実際、本当に人間になりたい、というのがシルヴィアの随分前からの願いだった。きっと、今体調を崩しているのも、長い間、人間として生活してきたからだろう。本性である魔物の血が抑えられなくなってきたに違いない。それがシルヴィアの願いなら、とクルー達も賛同して、アル=クメニ島を目指すこととなった。