01 永遠の別れ
朝日が昇ろうとしていた。空の縁が薄い青に、そして薄い黄色へと刻々と変化していく。世界が生きていることを実感する。雲は一つも無い。まばゆい光が満ちてきた。太陽はまだ昇ってもいないのに、その眩しさに目を細めてしまう。
エドモンド=ローランド卿は黙ってそれを見ていた。恐らく、今日が最後だろう。こんなふうにゆっくりと空を眺めるなど。ヨーロッパの貴族によくある白いかつらを被り、海軍大将の制服を着ている。海から、さあっと風が吹きあげた。冷たさが心地よい。
「閣下、お時間です」
背中から聞こえた士官の言葉に曖昧に返事をした。光がますます強くなり、影をさらに濃くした。
空とは反対に重い足どりで、石畳の段を降りていった。軍が整列して待っている。同僚であるシアーズ伯爵はすでに最前列にいた。いつものように何を考えているのか分からない表情で、遅いぞ、と声をかけられた。これから彼と共に作戦行動をとらなければならないが、不安で仕方ない。
出陣式を済ませ、兵士達が船に乗り込んでいく。ローランド卿は、乗り込む兵士達の顔を見ていた。
「義父上……」
背後から聞こえた声に振り向いた。弱々しい声だ。
十一、二歳の少年が立っていた。一つに束ねた長い黒髪を持ち、肌は象牙のような色をしている。髪が風になびいている。瞳は髪と同じ、闇のような黒だ。顔つきは東洋系だった。いっぱしに海軍準将の制服を着ている。義父と呼ばれた男とは、似ても似つかない。
「何か用か。この忙しい時に」
わざとではないが、ぶっきらぼうな返事をした。彼に対してはいつものことだから、素っ気ない言い方が条件反射のようになっていた。
少年はその言い方を気にかけたようで、少しうつむいた。期待を全く裏切られたようだ。ローランド卿は少しの罪悪感を覚えた。
「いえ……何でも」
何でもないなら呼ぶな――そうはねつけられたらどんなに楽なことか。少年は完全にうつむいてしまった。私はまた、この子を傷つけてしまった。いつからこの子を、こんなふうに気にかけるようになったのだろう。何でもないなら、と船に乗り込もうとした。彼は少年に背を向けて無言で歩き出した。
「義父上!」
また背後から声がする。先程とは違う力強い声に振り返ると、少年が顔を上げていた。切ない表情で見つめている。子供は普通、こんな顔をするものか?少し間があって、少年は軍帽を取って胸の前に持っていき、続けた。うって変って、凛々しい表情だ。
「……ご武運を」
子供は普通、こんな顔をするものだろうか。
ローランド卿は小さく頷くと、何も言わずに再び歩き出した。少年はその背中を見つめた。
やがて、艦隊が港を出た。少年は水平線に消えゆく船を見続けた。ウィリアム、どうした?と、カートライト伯爵が少年に声をかけた。伯爵はローランド卿の同僚の一人だ。恰幅が良く、少し腹が出ているのが親しみやすさを増している。
少年は、いえ何でも、と言ったきりだ。何か嫌な感じがする。いつもの出陣の別れとは何か違うような……やはり、もっと、少しでも義父上と言葉を交わしておくんだった。もう、会えないような、不吉な予感がする。ふと、左目が痛んだような気がした。慌てて手をやるが、何ともない。風が、再び吹き上げた。
戦艦エリザベス号の船長室で、ローランド卿は後悔の念に囚われていた。手元には手紙がある。羊皮紙に綴られたものだ。
やはり、出港する前に、ウィリアムにきちんと話しておけばよかった。いや、せめてこの手紙を渡しておけばよかった。なぜ、家にも残さず持ってきてしまったのか。手に持っている羊皮紙を見つめた。どうしようか。
視界に、小さめの瓶が飛び込んだ。中身は無い。幸い、蓋もついている。ローランド卿は、迷わずそれを手に取った。コルクの蓋をあけ、羊皮紙をたたんだ。そして、細い紐で羊皮紙と蓋をくくりつけた。瓶に再び蓋をし、羊皮紙がちゃんと中にあるのを確認した。蓋を軽い力で引っ張ってみて、簡単には外れないことを確かめた。そして、船長室の窓を開け、それを海に放り込んだ。これは賭けだ。うまくウィリアムの手に渡るなら、そういう運命なのだ。もし、他人の手に渡ったり誰にも見つけられず永遠に海をさまようならば、それも運命なのだ。