*苦い記憶
恋人がジョークで買ってきた無害タバコ──それを吸った彼の姿に、彼女は笑顔を見せた。
「うん、すっごくカッコイイ」
それから何度か吸っているうちに習慣づいた。
恋人が死んでからもその習慣は消える事はなく、むしろ苦い記憶を塗り固めるように吸い続けた。
タバコを手にすれば脳裏に浮かぶ記憶。
こびりついたその記憶に顔をしかめながら、まだ忘れたくないとでも言うように火を付ける。
そのなめらかな肌も、艶のある髪の感触も愛を語る美しい声もまだ覚えている。
それが、自分を追い詰めている記憶だという事も──それを充分に解っていても、忘れたくはなかった。
彼女の父が死んだとき、墓に花を供えに来た彼を恋人の母が見つけた。だが、彼女は彼を追い出す事はなく、顔を伏せて小さくつぶやくように発した。
「娘の事は……忘れてちょうだい」
苦しみに歪んだ彼の顔を見て憎しみは消え、「あなたが苦しむ必要は無いのよ」と言いたかったのか、憎しみは消える事なく「娘の記憶を持ち続けて欲しくないから」と言いたかったのかは解らない。
しかし彼には、その言葉は耐え難いものだった。
彼女の言葉を確かめる勇気も無く、それから数ヶ月後に彼女は末期癌のため他界した。
マンションに戻った戒は、洗面台の鏡に自分の顔を映しシェーバーを手にする。
「面倒な……」と、つぶやき電源を入れ無精髭に当てた。
硬い毛が剃られていく音が狭い部屋に響く。
そうして、軽く水洗いしたあと顔を洗ってキッチンに向かった。
ブランデーのボトルとグラス、氷を手にしてリビングのソファに腰を落とす。氷と酒をグラスに注いで立ち上がりベランダに出た。
相変わらず見下ろす塀の中は薄暗く、陰気だった──