*老犬
「戒」
呼ばれて振り返ると、老齢の男が戒に軽く手を挙げていた。
「烈か」
烈と呼ばれた50代半ばの男は、その年齢にふさわしい笑みを浮かべてゆっくりと戒に歩み寄る。
長机に腰掛けた3人は、コーヒーの入った紙コップを傾けて会話を交わす。
「仕事を辞める?」
「うむ」
その男は、戒の言葉に小さく頷いた。
眉をひそめて見つめる男にやや笑みを浮かべ、白髪交じりの髪を軽く整えて続ける。
「もう年だ。これ以上は体がついてこん」
寂しげな微笑みに視線を外した。
「戒、私の名前は、瀬木 理という」
「何故……」
驚いて目を見開き、烈を凝視する。
「あんたにだけは言っておきたかった」
その言葉に、戒は再び驚きの表情を見せた。
彼の表情を一瞥し、烈は薄く笑んで宙を見つめる。
「どうして我々が名前を騙るのか、考えた事があるか?」
烈(瀬木 理)はつぶやくように口を開いた。
「理由は人それぞれだ。私は、人としての自分を壊さないためだった」
相手はクローン、同情の余地など無い──そう思えば思うほど、何故か虚無が心を襲った。
そんな割り切った心と、割り切れない心とがせめぎ合う。
「お前さんにも、理由はあるんだろう」
それには応えず、ただ視線を外していた。
「お前さんはまだ若い。私のようにはなりなさんな」
もうクローンを殺すのに疲れたんだよ……瀬木はそう言って、背中を小さく丸め部屋から出て行った。
「勝手なこと言いやがって」
戒は苦々しく入り口を睨み付け、口の中で舌打ちした。
「戒がここにいる理由って、恋人が死んだとか?」
「!?」
翼の言葉に、戒は目を丸くする。
「割と多いから……そういう人」
「知ったふうな事を!」
翼に言い放ち、部屋をあとにした。
歩きながらヘッドセットを装着し、扉の前に立つ。
いつでも浮かぶのは、かつての恋人の微笑み──救えなかった自責の念が襲う。戒が悪い訳ではない、あれは仕方のない事故だった。
彼が特殊部隊に勤務していた頃、日本を離れる仕事に就いた時だ。
彼女が出かける時は、いつも戒が車の運転をしていた。
彼がいない時は、彼女は自分で運転するのだが、彼女が両親の家に向かう途中、対向車線を走っていた車が信号無視で右折してきた。
彼女はそれを避けきれず、まともに相手の車と衝突したのだ。
帰ってきた戒に見せられたのは、冷たくなった恋人の遺体だった。
「あんたが悪い訳じゃない。でも、恨まずにはいられないんだ」
彼女の父が言った言葉は、戒の胸に突き刺さる。
「菜都美」
綺麗に整われた遺体の頬に、指を滑らせた。
艶やかだった背中までの黒髪に輝きは無く、ハリのあった肌は青白い。
漆黒の宝石を思わせる瞳にも光は失せ、冷たいまぶたに隠されていた。
「──っ」
戒は声にならない叫びを上げ、力なく崩れ落ちる。
それから数ヶ月後、彼女の両親は菜都美の後を追うように病気で立て続けに亡くなってしまった。
父は最後に「あの時はすまなかった」と言い残して息を引き取った。
娘の死に、誰かを恨まずにはいられなかった事くらい解っている。彼女の母は彼に多くは語らなかったが、やはり憎まずにはいられなかったと思う。
「!」
そんな物思いにふけっていた戒の頬に、冷たい感触が伝わり我に返った。
「チッ……」
雨まで降ってきやがった。
口の中でつぶやき、重たい扉の向こうに姿を隠す。
今日のターゲットは4人だ。
クローンを倒すのは難しくはないが、別のハンターとターゲットが被るのは出来れば避けたい。
とはいえ、ハンターたち自身にはそこはどうにもならない。
3人殺す頃には、雨は音を立てて地面を濡らしていた。
塗れた服に体力を奪われる、最後の1人を早く殺して酒をあおりたい。
「!」
そう思った戒のディスプレイにターゲットの表示──足音に注意して近づいた。
あと数メートルといった処で、右から影が飛び出してくる。
「っ!?」
ハンターか!? 戒はすかさずリボルバーを構え壁を盾にした。相手も、同じような動作で壁に体を隠す。
ターゲットがかち合ったか……戒は舌打ちし、相手の様子を窺った。
戒の顔近くに相手の銃弾が間隔を空けて何発か壁に当たり、弾かれる。
「真仁」
<かち合っちゃったね>
「情報をくれ」
<ほい>
しばらくして、戒のディスプレイに相手の後ろ姿が映し出される。
至る所に設置されている隠しカメラの利用は、どう使おうと自由だ。
真仁は戒の動きがより狡猾に、美しくなるなら喜んで出来る限りを提供する。
戒は、映し出された相手の後ろ姿をじっと見つめた。
「なるほど、押していくタイプだな」
ならば……と、戒は腰の背後に装備されているもう1丁のハンドガンに手を伸ばした。
大きめのグリップに顔をしかめる。
「多少の怪我は我慢するか」
そう言って、勢いよく壁から離れた。
「!」
相手の男は、それにハンドガンの引鉄を引きまくる。
それをモニタールームから眺めている真仁は、喉の奥から笑いをこぼし画面に見入った。
「クク、そんなの戒には当たらないよ」
口の中でつぶやき、戒を見つめる。
雨でぬかるんだ地面は、動きを鈍くさせる。
戒は足を捕られないように注意しながら、ハンドガンを構えて駆け出した。
1発、放てばいい──外さないようにしっかり照準を合わせ、反動を考慮して引鉄を引く。
「ぎゃあ!?」
男の声が上がる前に、その弾丸は男の右肩を破壊した。
激痛でへたり込む男を確認し、オートマティック拳銃『デザートイーグル』を仕舞いリボルバーに持ち替えて男の頭に銃口を向ける。
「ひっ……ひっ……」
痛みで目を見開き、もはや苦しみのみが男を支配していた。
戒はそれに苦い表情を浮かべ、引鉄をゆっくりとしぼる──乾いた音が響き、男は力なく横たわった。
「さすがだね、戒」
<ごたくはいい>
「はいはい」
言いもって、真仁は画面に映し出される戒に恍惚な眼差しを向ける。
「……っ」
戒は左腕に眉をひそめた。
男の銃弾がかすったらしく、コートに赤い染みを作っている。
血縁同士の殺し合い──それが行われるのは明日だ。
イレギュラーとして参加するハンターは、それぞれの組織から10人ほどだと言っていた。
今度こそ、俺は死ねるのか?
最後のクローンの胸にナイフを埋めながら、戒は複雑な瞳を見せた。
「……」
そんな戒を、他のクローンたちが遠巻きに見つめる。
ここに詰め込まれているクローンたちは、戒たちハンタードッグを牧場に現れる野犬のように感じている事だろう。
次に命を残す事を許されないクローン──そのため、彼らは風俗店で重宝されるのだ。
元々、人として扱われる事のないクローンに生殖能力など与えるハズもない。
『牧場』に放たれるクローンがむやみに増えられても困るのだ。
「あの戒ってやつ、自衛隊の特殊部隊にいたんだって?」
「そうだよ」
モニタールームに再び訪れた男が、真仁に話しかける。
すました顔の30代前半と見られる男は、戒の映像を確認している真仁の後ろ姿を見つめた。
この男の名は橋場 直貴、真仁の組織のスポンサーの1人だ。
貿易を手がけていて、たっぷり金はある。
「隠された国の組織だね。金がかかるとかで解散になって、自衛隊に残るか退職するかを訊かれて彼は退職したそうだよ」
「だから、あんな動きなのか……」
戒の動きは、明らかに他のハンタードッグの動きとは違っていた。
「体格も良い方だろ? だから人気が高いんだ」
ボクは運が良かった。と、口角をつり上げる。
「よくもボクの組織を選んでくれたよ」
恍惚と喜びの表情を浮かべる。
直貴はそんな真仁に少々、呆れ気味だった。
「そんなにあいつは特別なのか?」
直貴がそう訊ねると、真仁は少しキョトンとした。