婚約者の王子に「婚約を解消する」と言われて辺境伯家に嫁いだら「お前を愛することはない」と言われてしまいました
婚礼の宴が終わり、屋敷の一番奥、辺境伯家当主の寝室に通されたとき、セレスティアはまだ婚礼用のドレスの裾を引きずっていた。
侍女の手によって薄絹の夜着に着替えさせられ、寝台の上で夫を待つ。
窓の外では、辺境特有の乾いた風が、王都では聞いたことのない音を立てて鎧戸を叩いていた。
しばらくして、扉が開いた。
湯浴みを終えたらしいギリアム・フォン・アイゼンハルトが、寝間着代わりの簡素なシャツ姿で入ってくる。
先の戦役で『英雄将軍』と呼ばれ、その功によって辺境伯位を賜った男は、報奨と引き換えに帝国の北の果て、隣国との国境を守る責務を負わされた武人だった。
三十路にして肩幅は熊のように広く、頬には古い刀傷が一筋走っている。歴戦の将としての貫禄は、寝室という私的な空間でもいささかも損なわれない。
彼は寝台の脇に立ち、しばらく黙ってセレスティアを見下ろしていた。何かを言おうとして、言葉を選んでいるようだった。
やがて、意を決したように口を開いた。
「言っておく」
「はい」
「この結婚はただの契約だ。お前を愛するつもりはない」
言い放つと同時に、ギリアムは踵を返し、扉へと向かって歩き出した。まるで、自分の言葉が相手を傷つけることを恐れるように、その背中はどこかぎこちなかった。
蝋燭の炎が揺れ、大きな影を寝室の壁に映す。
対するセレスティアは、寝台の上で身じろぎ一つせず、夫となった男の背中を見つめていた。表情は凪いだ湖面のように静かで、その言葉に傷ついた様子も、安堵した様子もない。
「それで?」
短い問いに、ギリアムは扉に伸ばしかけた手を止めた。振り返った顔には、明らかな困惑が浮かんでいる。
「……それでとは、どういう意味だ」
「愛するつもりはない、それは承知いたしました」
セレスティアは寝台の上で居住まいを正し、淡々と続けた。
「その上で、それで、と申し上げたのです。ギリアム様には、他に思いを交わす女性がいらっしゃる、ということでよろしいでしょうか」
「そんなものは居ない!」
「でしたら、思いを交わす殿方が」
「違う!なんでそうなるんだ!」
ギリアムの声が寝室に響く。
困惑を通り越し、もはや狼狽していた。
戦場では幾多の死線をくぐり抜けてきた男が、たった一人の令嬢の言葉にたじろいでいる様は、彼の部下たちが見たら誰も信じないだろう。
「では、何故そのようなことをわざわざ仰るのですか」
セレスティアは首を小さく傾げた。
「結婚が契約であることは、当然のことと存じております。貴族の婚姻の大半がそうであるように。そこに愛が伴わずとも、何ら支障はないかと思うのですが」
「それは……」
「それなのに、何故わざわざ初夜の晩に、宣言なさる必要があったのでしょう」
その声音には怒りも悲しみもなかった。
ただ純粋な疑問だけがあった。ギリアムは、そのあまりに冷静な問いかけに、かえって言葉を失った。
「君に無意味な期待をさせないためだ」
セレスティアはしばらく、その言葉を吟味するように黙っていた。
「なるほど。旦那様なりの、誠実さの表れであったと」
「……」
「承知いたしました。ですが、その誠実さが、私にとって何の慰めにもならないことは、申し添えておきます」
ギリアムは言葉に詰まり、寝室の中央で立ち尽くした。
◆◆◆
セレスティア・ド・ヴァルロワが感情を表に出さなくなったのには、理由がある。
十歳の誕生日を迎えた翌週、彼女は第一王子アルベルトの婚約者となった。公爵家の令嬢として生まれた瞬間から定められていた道とはいえ、実際に婚約が成立したその日から、セレスティアの生活は一変した。
「殿下!」
幼いセレスティアは、婚約披露の宴の帰り道、まだあどけない笑顔でアルベルトに駆け寄った記憶がある。
同い年の王子は、当時まだ少年らしい柔らかさを残しており、はにかんだように笑い返してくれた。
「セレス、また今度、庭で追いかけっこをしよう」
「約束ですよ、殿下」
そんな他愛のないやり取りが、二人の間には確かにあった。
だが、それも長くは続かなかった。
「セレスティア様。王太子妃たるもの、表情から心中を悟られてはなりません」
婚約が成立した翌月から、セレスティアには専属の女官長がつけられた。
灰色の髪を固く結い上げた初老の女性は、まだ幼いセレスティアに対しても一切の容赦をしなかった。
「なぜ、そのように笑うのです。感情を面に出すことは、隙を見せることと同義です。異国の使節の前で、そのような無防備な顔をお見せになるおつもりですか」
「ですが、殿下が――」
「殿下は関係ございません。あなたは公爵家の娘であり、いずれ王太子妃となり、王妃となるお方です」
来る日も来る日も、同じ言葉を浴びせられた。
笑えば窘められ、涙を見せれば厳しく叱責され、怒りを露わにすれば「王妃の資質に欠ける」と評された。
セレスティアは、少しずつ、少しずつ、自分の感情を自分の中に押し込めていった。それは自らを守るための唯一の術でもあった。
表に出さなければ、間違っていると咎められることもない。
十四歳になる頃には、セレスティアの顔から表情という表情が消えていた。
ちょうどその頃、帝国の東側の隣国キーエンとの戦争が勃発する。戦況は詳細に報告され、セレスティアも目を通す。
読んだだけでも顔を顰めたくなる報告書を、セレスティアは顔色も変えずに読み込んだ。
宮廷の誰もが彼女を「氷の令嬢」と呼ぶようになった。
アルベルトが最初に惹かれたのは、感情豊かで快活だった少女時代のセレスティアだった。だが今のセレスティアは――
「セレス、今日は何だか、様子が違うね」
十五歳のある日、アルベルトはそう尋ねたことがある。セレスティアはいつものように、静かな微笑みだけを返した。
「そのように見えますか、殿下。私は変わらず、殿下の婚約者としての務めを果たしているつもりです」
「そう、か……」
アルベルトは、それ以上何も言わなかった。だがその眼差しに、かすかな失望の色が浮かんでいたことを、セレスティアは気づかないふりをした。
以来、二人の間の距離は少しずつ開いていった。アルベルトは次第に、宮廷に出入りする別の令嬢――感情表現が豊かで、笑いたいときに笑い、泣きたいときに泣く、マルグリット候爵令嬢へと心を移していく。
セレスティアはそれに気づいていた。
気づいていながら、表情一つ変えることなく、ただ婚約者としての務めを果たし続けた。
何かを訴えたところで、意味がないことは分かっていた。
感情を出せば「王妃に相応しくない」と咎められ、出さなければ「心がない」と離れていかれる。どちらに転んでも、彼女に安息はなかった。
そして開戦から八年という長い年月を経て終戦の報せが届いた日。
王宮の大広間は、帝国中を包む勝利の熱気そのままに、祝杯を掲げる貴族たちの笑い声で満ちていた。
シャンデリアの下、アルベルトはセレスティアの手を取って広間の中央へと進み出た。
何事かと囁き合う人々の視線が集まる中、彼は普段よりも声を張り上げた。
「皆、聞いてくれ。この輝かしい勝利の日に、私は一つの決断を発表したい」
セレスティアは隣で、いつも通りの静かな微笑を浮かべたまま立っていた。何を発表されるのか、彼女には見当もつかなかった。
「私は、セレスティア嬢との婚約を解消する」
広間がしんと静まり返った。誰かのグラスが小さな音を立てて床に落ちる。
「殿下……それは、どういう」
セレスティアは表情を変えぬまま、静かに問うた。
「君に非はない。だが君は、いつも人形のように微笑むだけで、心の内が全く見えない。私が愛したのは、もっと笑い、もっと泣く君だった」
アルベルトはそう言うと、傍らに控えていた候爵令嬢の手を取った。
「私はマルグリット嬢と婚約する。皆、祝福してくれ」
最初は戸惑いの空気が流れる。しかし誰かの拍手に釣られ、拍手の音は次第に大きくなる。あっという間に割れんばかりの拍手に包まれた。
誰もアルベルトを咎める者はいなかった。
王太子の言葉は、たとえ独断であろうと、この場においては決定事項として響き渡る。
セレスティアは、拍手に包まれる元婚約者と、その隣で頬を染めるマルグリットを、ただ黙って見つめていた。
表情から心中を悟らせてはならない――十年以上叩き込まれたその教えの通り、彼女は最後まで顔色一つ変えなかった。
だがそれこそが、アルベルトの心を彼女から遠ざけた理由なのだと、この時になってようやく思い知った。
感情を殺せと教えられ、その通りにした結果が、この仕打ちだった。
「なんということを……!」
屋敷に戻った公爵は、烈火の如く怒り狂った。
だがその怒りは、娘を案じてのものではなかった。
「王家との縁を、こんな形で反故にされるとは!ヴァルロワ家の面目は丸潰れだ!」
怒りの矛先はセレスティアにも向いた。
「お前が、殿下の御心をつなぎとめておくことができなかったからだ!」
公爵の怒声を、セレスティアは無表情のまま聞いていた。家族の誰一人として、彼女自身を気遣う言葉を口にする者はいなかった。
セレスティアに落ち度は何一つなかった。
すべてはアルベルトの独断だった。
だが多くの貴族が見守る中での宣言は覆せず、婚約は両家の話し合いの元、解消された。
困ったのはセレスティアの処遇であった。
婚約解消から数週間。王家と公爵家は、セレスティアの新たな処遇に関する協議を重ねた。
王妃教育を受けた令嬢は、国外へ嫁がせるわけにはいかない。国家の中枢の情報を知り、王族に並ぶ者としての外交・儀礼を身につけた娘を、他国の貴族に嫁がせることは許されなかった。
かといって国内に、公爵令嬢と釣り合う独身の貴族令息など、都合よく存在するはずもなかった。
そんな折、戦争の英雄ギリアム・ヤッフェ将軍を辺境伯に叙する話が持ち上がった。
男爵家の次男に過ぎなかったギリアムは、八年にわたる戦争の中でいくつも大きな功績を立て、一騎当千の精鋭部隊を率いる将軍として戦勝の立役者となり凱旋した。
王家はギリアムにアイゼンハルトの姓と辺境伯の地位、そして関係が悪化しつつある北側の隣国との国境を持つ領地を与えた。
そして王家と公爵家はまるで褒賞のひとつかのように、独身のギリアムに体よくセレスティアを押し付けることにしたのだった。誰も、セレスティア自身の意向を尋ねることはなかった。
◆◆◆
王家と公爵家、そしてギリアムの間で話し合いが持たれ、婚姻の書類が承認された。ギリアムとセレスティアは一度も顔を合わせることなく、一言も話すことなく、書類上は夫婦となった。
そしてセレスティアは公爵から婚姻が成立したことと、ただちに辺境伯領へ向かうことを言い渡された。
王都から辺境伯領までは、馬車で二週間の旅路だった。
日を追うごとに、街道沿いの景色は緑豊かな田園から、乾いた岩山と丈の低い草原へと変わっていった。
護衛の騎士たちの他には、セレスティアの世話をする侍女が一人つき従うのみの、質素な輿入れの行列だった。
辺境伯領の境に入って三日目、ようやくギリアムが迎えに現れた。
馬上の彼は、凱旋パレードで見た印象そのままに、大柄で威圧感のある男だった。
「君がセレスティア嬢か。話には聞いていたが……随分と質素な行列だな」
「王太子殿下との婚約解消で瑕疵のついた身ですので。これでも公爵家としては、精一杯の見栄でございましょう」
ギリアムは、その返答に一瞬言葉を失ったようだった。
皮肉とも自嘲ともつかぬ物言いを、まるで天気の話でもするように淡々と口にする令嬢を、彼はどう扱えばいいのか分かりかねている様子だった。
馬車が辺境伯領の中心地へと進む間、ギリアムは並走しながら、ぽつりぽつりと話しかけてきた。
「この地は王都と違って何も無い。こんな所に嫁がされて、君も不満だろう」
「夜会も茶会も無くて、気が楽だな、としか思いません」
「一度も会ったことも無い男に嫁がされたことは、どう思っている」
「昔はそういったこともよくあったと聞かされております。家同士の政略で、顔も知らぬ相手に嫁ぐ話など、歴史書にいくらでも記されておりますし」
「結婚相手がこんな、熊みたいな粗暴な大男だとしてもか」
セレスティアは初めて、わずかに視線をギリアムへと向けた。馬上の男を、値踏みするようにゆっくりと見やる。
「王太子殿下との婚約解消で瑕疵のついた私を嫁がされて、旦那様も気の毒だな、とは思いますが」
淡々とした声だった。
「旦那様の容姿に、思うところは特にございません。強いて申し上げるなら、戦場で鍛えられたお体は、頼りがいがありそうだと感じる程度でございましょうか」
その言葉に、ギリアムは思わず馬の手綱を強く握った。
「……君は、少し変わっているな」
「よく言われます」
ギリアムは黙り込んだ。この令嬢は、噂に聞いていた「感情のない冷たい公爵令嬢」そのものだった。
表情は凪いだ湖のように動かず、声にも抑揚が乏しい。だが、その言葉の端々には、奇妙な誠実さと鋭い知性が滲んでいる。
慰めるでも媚びるでもなく、ただ事実だけを淡々と述べる態度に、ギリアムはどこか戦場の同僚たちに通じるものを感じていた。
屋敷に到着し、簡素な婚礼の儀を済ませたその夜――それが、初夜の場面へと繋がっていく。
◆◆◆
「愛するつもりはない」というギリアムの宣言と、それに対するセレスティアの静かな追及がひとしきり終わった後も、二人の間には気まずい沈黙が漂っていた。
やがてセレスティアは、話題を変えるように口を開いた。
「ところで、旦那様はどこかに隠し子はいらっしゃいます?」
「な――」
ギリアムはぎょっとして声を上げた。
「そ!そんなものいるわけが無いだろう!」
「戦場では、命のやり取りの反動からか、子を生したいという欲求が増すと聞き及んでおります。八年もの長きにわたる戦役の間、そういった欲はそうした役目の女性方に解消していただき、市井の女性と子をなしたことはない、と解釈してよろしいでしょうか」
「な……そこまで踏み込んで聞くことか、それは」
「今後を考える上で、とても重要なことでございます。お答えくださいませ」
セレスティアの声は、まるで書類の不備を指摘する文官のように事務的だった。気圧されたギリアムは、根負けしたように頷いた。
「君の言う通りだ……戦地で女を抱いたことがないとは言わない。だが情を交わした女はいないし、子もいない」
「承知いたしました」
セレスティアは静かに言葉を継いだ。
「思いを交わす女性もおらず、隠し子もいない。そして今宵、この初夜の晩に『お前を愛することはない』と告げて、寝室を出ようとなさる。――この辺境伯家の後継者は、どうなさるおつもりですか」
「それは……」
「これからどこかの女性との間にお作りになるおつもりですか」
「そんなことは……!」
「それとも、どこかから養子をお取りに?いずれにせよ、私という妻がありながら、というのは些か外聞が悪いように思われますが」
畳みかけるような問いに、ギリアムはついに寝台の脇に力なく腰を下ろした。
しばらく俯いていたが、やがてポツポツと語り始めた。
「……俺は、いつ戦が始まって駆り出されてもおかしくない身だ。北の隣国との国境は、今は落ち着いているように見えても、いつまた火種が燻り出すか分からん」
「存じております。それゆえに、旦那様はこの地を任されたのでしょう」
「剣の腕には自信がある。戦場で後れを取ったことは一度もない。だが、死というものは、俺のような男にとって、いつも案外近くにあるものなんだ。今日、笑って戦場に立った男が、明日には物言わぬ骸になっている。そんなことを、この八年で何度も見てきた」
ギリアムの声には、初めて弱さのようなものが滲んでいた。
「三年、白い結婚であれば、離縁ができる」
彼は俯いたまま続けた。
「君のような美しく聡明な令嬢に、いつ出陣の令が出るかも予測できず、出陣したら無事に帰れる保証もなく、いつ命を落とすかも分からぬ俺はふさわしくない。君には、もっと安穏とした暮らしを送る権利があるはずだ」
その言葉には、不器用な誠実さがあった。愛さないと言った男の、精一杯の優しさだった。
妻となった美しい女性を守りたいという気持ちが、歪んだ形で表れた結果でもあった。
だがセレスティアは、静かに首を振った。
「旦那様は、私の立場をお分かりでないようです」
「……というと」
「私は第一王子殿下に婚約を解消された身です。それも、多くの貴族が見守る中で、殿下自ら宣言なさったこと。この一件は、社交界において既に周知の醜聞となっております。ここで旦那様と離縁したとて、実家に戻ることは許されないでしょうし、次に嫁げるような家もございません」
「そんな……」
「修道院へ行くか、どこかで野垂れ死ぬか、私に残された道はそれだけのこと。旦那様のご厚意は、結果として私を路頭に迷わせるだけでございます」
ギリアムは、そこまで考えが及んでいなかったことに、愕然とした様子だった。
「もし旦那様が戦場で亡くなったとして――その時、私に子がいれば、私はこの家に留まることができます」
セレスティアはまっすぐにギリアムを見た。その瞳には、これまで見せなかった強い光が宿っていた。
「私を愛さなくて結構です。ですが、もし旦那様が私を憐れに思われるのであれば――どうぞ、こちらで夜をお過ごしください」
言い終えると同時に、セレスティアはギリアムの胸を押し、寝台へと押し倒した。
◆◆◆
季節は巡り、辺境伯家に一人の男児が生まれた。
セレスティアは、その小さな命に惜しみない愛情を注いだ。
かつて感情を殺すよう教育された令嬢が、我が子に対しては誰よりも柔らかな眼差しを向ける。
その変わりようを、辺境伯領の使用人たちは目を丸くして見守った。
「愛するつもりはない」
初夜にそう言い放ったはずのギリアムはといえば――初夜以降、妙にセレスティアの顔色を窺うようになった。
彼女がわずかに眉を動かしただけで一喜一憂し、彼女に微笑みかけてもらおうと、慣れない冗談を口にしては失敗する。セレスティアに笑顔を向けられる己の息子にすら嫉妬していた。
戦場では『英雄将軍』と恐れられた男が、屋敷の中では妻に愛されたくて空回りする姿を晒す。
それは辺境伯家において、もはや周知の光景となっていた。
だがそれは、また別のお話――
何も考えず、短編を書いていたら長くなりそうだったのでギリアム将軍が愛されたくて奮闘するところはバッサリと切りました。それはまた別のお話、ということで……。




