気弱な元現場職人ですが、異世界で頼まれた修理を断れません
閉店を知らせる音楽が、広いホームセンターの店内に流れていた。
南出茂働は、工具売り場に残された商品を棚へ戻しながら、壁の時計を見上げる。
午後八時を少し過ぎていた。
今日は仕事を終えた後、同僚たちと飲みに行く約束をしている。本来なら、もう片づけを終えて更衣室へ向かっている時間だった。
「あの、すみません」
遠慮がちな声をかけられ、茂働は振り返った。
買い物籠を持った年配の女性が、二種類の水道用パッキンを見比べている。
「台所の蛇口から水が漏れているんですけど、どちらを買えばいいのか分からなくて」
「蛇口のどの辺りから漏れていますか?」
「きちんと閉めても、先からぽたぽた落ちるんです」
「それなら、中のパッキンが傷んでいる可能性が高いですね。蛇口の形は覚えていますか?」
女性の説明を聞きながら、茂働は棚から合いそうな部品を選んだ。
交換には小さなレンチも必要になる。作業前に水道の元栓を閉めることや、金具が固着している場合は無理に回さない方がよいことも伝える。
「自分でできますかね?」
「慌てなければ大丈夫だと思います。ただ、外れないときは無理をしないでください。金具を壊すと、水道屋さんを呼ぶより高くつくことがありますから」
茂働は説明用の紙へ、簡単な交換手順を描き加えた。
「ここを押さえながら、こちらを回します」
「まあ、こんなに丁寧に。ありがとうございます」
「いえ。直るといいですね」
安心した様子で女性がレジへ向かったところで、背後から小さなため息が聞こえた。
同僚の黒川が、腕を組んで立っている。
「南出、もう閉店してるぞ」
「あ……悪い」
「別にいいけどさ。相変わらず、頼まれると断れないな」
「困ってたみたいだから」
「お前、それで現場にいた頃も余計なことまで背負い込んでたんだろ」
黒川は呆れたように言ったが、本気で怒っているわけではなかった。
南出茂働、三十五歳。
以前は工事現場で働いていた。
塗装、土木、道路、水道、ガラス、足場工事。人手の足りない現場へ回されるうち、いくつもの仕事を経験した。
身体を壊しかけたことをきっかけに現場を離れ、現在はホームセンターの職員として働いている。
商品の知識と過去の経験を生かし、客から修理や材料について相談されることは多かった。
それでも茂働は、自分を腕の良い職人だと思ったことはない。
何でも少しずつできるだけの器用貧乏。
それが、自分に対する評価だった。
◇
片づけを終えた茂働は、更衣室でホームセンターの制服を脱いだ。
黒いジャケットに白いシャツ、細身のパンツへ着替え、履き慣れたスニーカーを履く。
それから黒川たちと駅前の居酒屋へ向かった。
四人で卓を囲み、仕事の愚痴や最近来店した客の話をする。
酒が進むと、黒川が茂働の過去について話し始めた。
「南出はすごいぞ。道路も水道も塗装もできるし、足場にも上がれる」
「大げさだよ。どれも少しかじっただけだから」
「少しかじっただけの人間が、客の相談を聞いて必要な材料を全部選べるか?」
「商品を覚えてるだけだよ」
「そうやって、すぐ自分を低く見るよな」
黒川に言われ、茂働は困ったように笑った。
「現場には、もっとすごい人がたくさんいたから」
「でも、その人たち全員が道路と水道とガラスを扱えるわけじゃないだろ」
「それはそうだけど」
「何でもできるのも才能だって」
才能。
その言葉は、茂働には似合わない気がした。
頼まれた仕事を断れず、必要に迫られて覚えてきただけだ。
できないと言えば誰かが困る。
それが嫌で、手を動かしてきた。
飲み会が終わる頃には、日付が変わる少し前になっていた。
酒を飲んでいた茂働は、駅から自宅まで歩いて帰ることにした。
夜風が火照った頬に心地よい。
人通りの少ない道を歩きながら、明日の仕事について考える。朝一番に商品の補充をして、午後には木材の発注を確認しなければならない。
いつもと変わらない夜だった。
交差点の近くで、小さな犬が歩道を走っているのを見つけるまでは。
首輪から伸びた紐が地面を引きずっている。飼い主の手から離れてしまったのだろう。
「危ないぞ」
茂働が声をかけた瞬間、犬が車道へ飛び出した。
曲がり角の向こうから、車のライトが現れる。
甲高いブレーキ音が響いた。
それでも間に合わない。
茂働は考えるより先に走り出していた。
犬を抱き上げ、歩道へ押し出す。
次の瞬間、身体へ強い衝撃を受けた。
視界が大きく揺れ、夜空と道路が入れ替わる。
地面へ投げ出されたはずなのに、不思議と痛みは遠く感じられた。
倒れた茂働の視界の端で、助けた犬が立ち上がった。
怪我はないらしい。
犬が無事だったことに安堵しながら、茂働はゆっくりと目を閉じた。
◇
土の匂いがした。
湿った草が頬に触れている。
茂働が目を開くと、見たことのない青空が広がっていた。
「……病院じゃないな」
身体を起こす。
周囲に医師も看護師もいない。
そこは草原の端にある街道だった。少し離れた場所には、高い石壁と大きな門が見える。
事故に遭ったはずの身体に痛みはなかった。
むしろ、以前より軽い。
自分の手を見ると、指は細く、長年の仕事で刻まれた傷や硬くなった皮膚も消えている。腕や脚にも、以前のような疲労や重さを感じなかった。
石壁の方から荷馬車が近づいてくる。
馬を操る男は、映画の衣装のような服を着ていた。腰には短い剣まで下げている。
荷台には、見たことのない大きな赤い果実が積まれていた。
茂働の脳裏に、これまで読んできた小説や漫画、見てきたアニメの内容が浮かぶ。
「もしかして、異世界転生ってやつか?」
半信半疑でつぶやいた。
その直後、頭の中に文字が浮かび上がる。
名前――南出茂働。
年齢――十八歳。
通常スキル――鑑定、アイテムBOX、全異世界言語、土魔法。
固有スキル――器用、アーキテクチャージョブマスター。
職人段階――見習い職人。
「十八歳……?」
茂働は表示された年齢を見直した。
事故に遭う前は三十五歳だった。
細くなった指や軽くなった身体は、怪我が治ったからではない。身体そのものが、十七年も若返っているらしい。
「本当に、別の世界に来たのか……」
一つずつ意識すると、スキルの簡単な説明も表示された。
鑑定は、人物、素材、土地、建物、道具などの状態を確認できる。
建物の場合は、傷みや構造だけでなく、柱や金具に残された職人印、補修跡、登録された施工記録など、実物に残っている情報も読み取れる。ただし、記録されていない出来事や、人の考えまで分かるわけではない。
アイテムBOXは、道具、材料、衣服、食料などを収納できる。ただし、生き物は入らず、容量にも限界がある。容量は技能の成長に応じて増えていくらしい。
全異世界言語は、言葉や文字、図面、契約書などを理解できる。ただし、読めることと、その内容に関する専門知識があることは別だった。
土魔法は、整地、穴掘り、埋め戻し、基礎や道路、水路の作業を補助できる。ただし、魔力には限りがあり、建物を一瞬で造ることはできない。
器用は、工具の扱いや加工、塗装、補修、組み立て、寸法調整などを助ける。
知らない技術を最初から完璧に使えるわけではない。実際の作業を見て原理を理解し、鑑定で道具や材料の情報を確認すれば、普通の人より早く習得できるというものだった。
そして、アーキテクチャージョブマスター。
建築、修理、土木、設備など、職人仕事全般に関係する成長型の固有スキルらしい。
「剣の技能も、戦うための特別な力もないんだな」
異世界転生物なら、強力な魔法や伝説の武器を与えられるものではないのか。
しかし、仮に剣を渡されても、魔物と戦える気はしない。
茂働は深く息を吐いた。
何も分からない場所で立ち止まっていても仕方がない。
まずは人のいる街へ向かうことにした。
◇
街の門では、言葉が通じた。
門番に名前を聞かれ、茂働は少し迷ってから、シゲキとだけ名乗った。
身分証明書を持っていないことを伝えると、簡単な記録を残すことで街へ入れてもらえた。
街は、想像していたよりもにぎわっていた。
石造りと木造の建物が混在し、道の両側には商店が並んでいる。
荷車が行き交い、職人らしい者が資材を運び、武器を持った冒険者たちが酒場へ入っていく。
王都ほど大きな都市ではなさそうだが、田舎の村でもない。
しかし、歩き始めてすぐに問題が起きた。
周囲の人々が、シゲキをじろじろと見ている。
視線は、黒いジャケットと白いシャツ、細身のパンツ、スニーカーへ集中していた。
この世界の住民が着ている服とは、生地も形もまるで違う。
近くの人へ話しかけようとしたが、目が合うと避けられる。
このままでは宿や食事について尋ねることすら難しい。
しかも、ポケットを確認しても入っているのは日本の硬貨と紙幣だけだった。こちらの世界で使えるとは思えない。
シゲキは日本の財布をアイテムBOXへ収納した。
今の自分にとっては使えない物だが、捨てる気にはなれなかった。
服を買おうにも、そのための金がない。
「その服、変なの」
横から突然言われ、シゲキは驚いて振り返った。
十歳くらいの少年が、好奇心に満ちた目でシゲキの私服を見ている。
「やっぱり、変か?」
「うん。そんな服、見たことない。でも、すごくきれいだな」
悪意は感じられなかった。
シゲキは自分の服装へ目を落とした。
仕事を終えた後、飲みに行くために着替えた私服だった。この世界では、十分に目立つ格好らしい。
「この服を買い取ってくれそうな店を知らないか?」
「服を売るの?」
「ああ。俺はこの街で使える金を持っていないんだ。この服を売って、その金で目立たない服を買いたい」
「それなら古着屋があるよ。服を売ることも買うこともできると思う」
「そこまで案内してもらえるか?」
「いいよ。暇だから」
少年はユノと名乗った。
歩きながら、シゲキの服や靴について次々と質問してくる。
「どこの国から来たの?」
「ずっと遠いところから来たんだ」
「王都より遠い?」
「たぶん、ずっと遠い」
古着屋へ着くと、店主のバラスはシゲキの服装を見て目を丸くした。
ジャケットの布を指で挟み、シャツの縫い目を裏返し、ファスナーを何度も動かす。
「何だ、この細かな縫製は。それに、この金属の留め具はどういう仕組みだ?」
パンツの生地やスニーカーの靴底も珍しいらしく、バラスは時間をかけて状態を確認した。
「上着とシャツ、ズボン、靴を合わせて、金貨一枚でどうだ?」
金貨の価値が分からず、シゲキは返事に迷った。
試しに衣服へ鑑定を使う。
異世界では製造困難な布地と縫製。
保存状態良好。
希少品として高い価値を持つ可能性あり。
鑑定で分かるのは、素材や状態から見た大まかな価値だけだった。
どの街で、誰に、どのような方法で売るかによって価格は変わる。人件費や商人の利益まで含めた正確な取引価格が表示されるわけではない。
続けて、バラスが手にしている金貨を鑑定する。
金貨一枚は大銀貨十枚。
大銀貨一枚は銀貨十枚。
銀貨一枚は大銅貨十枚。
大銅貨一枚は銅貨十枚。
「ずいぶん高く買ってくれるんですね」
「王都に、珍しい服や道具を集めている商人がいる」
バラスはファスナーをもう一度動かした。
「こいつを見せれば、金貨一枚より高く買う可能性がある。もっとも、運賃も手数料もかかるし、売れなければ俺の損だ。その危険を引き受けた上での値段だよ」
この店は、庶民向けの古着だけでなく、珍しい品を王都へ流す商売もしているらしい。
金貨一枚を用意できる理由にも納得できた。
「分かりました。お願いします」
シゲキはジャケットとシャツ、パンツ、スニーカーを売った。
「このまま金貨で渡しても困るだろう。細かくするか?」
「お願いします」
バラスは金貨一枚を、大銀貨九枚と銀貨十枚に崩して渡してくれた。
その中から銀貨三枚を支払い、この街で目立たない古着一式と、使い込まれた丈夫な布靴を購入した。
上着やズボンには小さな繕い跡があり、布靴も新品ではない。それでも、きちんと手入れされており、当面使うには十分だった。
店の奥にある小さな試着場所を借り、購入した服へ着替える。
磨かれた金属板へ自分の姿を映す。
そこには、高校を卒業した頃の自分によく似た青年が立っていた。
鑑定に表示された十八歳という年齢に、改めて納得する。
先ほどまでの格好とは違い、これなら街の中を歩いても不自然には見えなさそうだった。
「助かりました。これなら、さっきほど目立たずに済みそうです」
「その格好なら、この辺りを歩いていても妙には見られんだろう」
バラスの言葉に、シゲキは少しだけ安心した。
しかし、服を手に入れただけでは、この街で暮らしていけない。
今夜眠る場所さえ決まっていなかった。
「あの、もう一つ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「この近くに泊まれる場所はありますか? できれば、あまり高くなくて安全な宿を探しているんですが」
「宿を取るなら、その前に冒険者ギルドへ行った方がいい」
「冒険者ギルドですか?」
「登録すれば身分証明書が手に入る。身元の分からない旅人より、宿も安心して泊めてくれる。料金を安くしている宿もあるぞ」
「でも、俺は戦えません」
「ギルドには荷運びや掃除、それに修理の仕事もある。剣を持つだけが冒険者じゃない」
修理という言葉に、シゲキは少し興味を持った。
ユノとバラスへ礼を言い、古着屋を出る。
通りへ戻ると、先ほどまで向けられていた奇異の視線は、ほとんど感じなくなっていた。
◇
冒険者ギルドの中は、多くの人でにぎわっていた。
武器や防具を身につけた者が大半で、シゲキのような普段着の人間は少ない。
受付へ並び、順番を待つ。
シゲキに対応したのは、肩まで伸びた金茶色の髪を後ろで束ねた女性だった。
「冒険者登録ですね。私は受付担当のセシリアです」
セシリアは書類を取り出し、慣れた様子で質問を始めた。
「お名前は?」
「シゲキです」
「年齢は?」
「十八歳です」
口にしてみても、まだ自分の年齢としては馴染まなかった。
身体は十八歳でも、自分が三十五年間生きてきた記憶まで若返ったわけではない。
「戦闘経験はありますか?」
「ありません」
「剣や槍、弓などの扱いは?」
「どれも使えません」
「使用できる魔法は?」
「土魔法はありますが、戦うことは避けたいです」
近くにいた冒険者たちから笑い声が上がった。
「戦えない冒険者だってよ」
「土魔法があるなら、石でも飛ばせばいいだろ」
シゲキは肩を縮めた。
ところが、セシリアは落ち着いたまま書類へ記入を続けた。
「冒険者ギルドには、戦闘や採取以外の依頼もあります。運搬、清掃、店の手伝い、設備の整備などですね」
「古着屋の店主から、修理の仕事もあると聞きました」
「ええ。数は多くありませんが、住宅や店の簡単な修繕、設備の点検なども扱っています」
「できれば、そういう仕事を受けたいです。前に工事関係の仕事をしていたので」
「どのような仕事を?」
「塗装、道路、水道、ガラス、足場工事などを少しずつ」
セシリアの手が止まった。
「それだけできて、少しずつなのですか?」
「どれも一流というわけではないので」
「分かりました。ただ、登録したばかりの方へ、いきなり大きな修理依頼を任せることはできません」
「はい」
「まずは簡単な依頼から受けていただきます。仕事の仕上がりや依頼主からの評価を確認し、問題がなければ、少しずつ任せられる仕事を増やします」
「それでお願いします」
「依頼を任せられるかどうかは、実際の仕事を見て判断します」
登録料として銀貨一枚を支払い、シゲキは簡素な金属板の身分証明書を受け取った。
「あの、宿も探しているんですが」
「それなら白樺亭がよいでしょう。治安がよく、食事も評判です」
セシリアが地図へ印をつけてくれた。
白樺亭は冒険者ギルドから近く、初めての道でも迷わず到着できた。
食事なしなら一泊銀貨一枚。
朝食と夕食付きなら銀貨二枚と大銅貨五枚。
シゲキは食事付きで泊まることにした。
夕食には、柔らかく煮込まれた肉と野菜のスープ、焼きたてのパンが出された。
食事を終えて部屋へ戻ろうとしたとき、入口で宿の主人オルドが扉を強く押しているのが見えた。
扉は途中で引っかかり、オルドが肩を当てて、ようやく閉まった。
「扉、閉まりにくいんですか?」
「ああ。最近になって急にな。職人を呼ぶほどじゃないと思って、そのまま使ってるんだ」
シゲキは扉を開け、何度か動かしてみた。
下側が枠へ擦れている。
蝶番にもわずかなぐらつきがあった。
鑑定を使う。
蝶番の緩み。
湿気による木材の膨張。
扉下部と枠の接触。
「工具はありますか?」
「古いものなら裏にあるが」
「少し見てもいいですか?」
オルドから借りた道具を確認する。
形は前世のものと少し違ったが、使い方は似ていた。
まず動きを確かめ、刃や金具の状態を鑑定する。
それから蝶番を締め直し、位置を調整した。
扉下部の擦れた箇所は、一度に削りすぎないよう少しずつ整える。
十五分ほどで作業を終えた。
オルドが扉を押すと、今までの抵抗が嘘のように軽く閉まった。
「おお、本当に直った」
「蝶番が緩んで、扉が少し下がっていました。木も湿気を吸って膨らんでいます。雨の多い時期は、また擦れるかもしれません」
「十分だ。修理代を払おう」
オルドは銀貨一枚を差し出した。
「いえ、工具を借りましたし、これくらいなら」
「仕事をしたのに金を取らないのか?」
「大した作業じゃありませんから」
「大した作業かどうかを決めるのは、直してもらった側だ」
オルドの言葉に、シゲキは返事を詰まらせた。
「金を取らないと、次に頼みにくくなる。受け取ってくれ」
何度か遠慮したが、オルドは引かなかった。
シゲキは頭を下げ、銀貨一枚を受け取った。
異世界へ来て初めて、自分の仕事で得た報酬だった。
◇
翌朝、シゲキは冒険者ギルドを訪れた。
掲示板の端に、住宅の雨漏り修理と書かれた依頼書を見つける。
報酬は銀貨三枚。
材料費は、依頼を受ける際にギルドから銀貨二枚まで前渡しされ、使用分だけ精算する仕組みだった。
依頼書を持ってセシリアの受付へ向かう。
「この依頼を受けたいです」
「屋根の修理経験は?」
「何度かあります。ただ、実際に見ないと直せるかは分かりません」
「何でもできますと言う人より、信用できる答えですね」
セシリアは依頼書を確認した。
「屋根材の交換が必要になった場合、材料費は前渡し分から支払ってください。余った分は返却してもらいます」
「分かりました」
「道具はギルドの貸出品を使えます。登録直後の方が、最初からすべて買いそろえるのは難しいでしょうから」
「助かります」
必要最低限の工具を借り、材料費として銀貨二枚を預かる。
セシリアから住所を教えてもらい、シゲキは住宅街へ向かった。
扉を叩くと、中からユノが飛び出してくる。
「あっ、変な服のお兄ちゃん!」
「もう変な服は着てないんだけどな」
「母さん、お兄ちゃんが来た!」
ユノは母親のミレナと二人で暮らしていた。
父親は数年前に亡くなり、ミレナが市場で働きながら生活を支えているという。
「以前にも修理を頼んだのですが、また同じところから雨が漏れてしまって」
「まず、屋根裏を見せてもらえますか?」
屋根裏へ上がると、梁の一部に水が流れた跡が残っていた。
室内へ水が落ちる場所の真上には、補修材が厚く塗られている。
しかし、その周囲に新しい水の跡はない。
シゲキは屋根へ上がり、鑑定を使いながら屋根材を確認した。
少し離れた場所に、細いひびが入っている。
そこから入った雨水が、傾いた梁を伝って室内へ流れ込んでいた。
「水が入っている場所と、落ちている場所が違います」
下へ降り、ミレナへ説明する。
「前に直した場所は悪くありません。でも、原因は別のところです」
前渡しされた材料費で、交換用の屋根材一枚と少量の防水材を購入した。
傷んだ屋根材を外し、使えるものは残して、割れた一枚だけを交換する。
ひびの周囲へ防水材を塗り、雨水が正しい方向へ流れるよう屋根材の重なりも調整した。
作業中、家の周囲に水がたまりやすいことにも気づいた。
地面の傾斜が家へ向いている。
「このままだと、強い雨のときに家の周りへ水が集まります。浅い水路を作ってもいいですか?」
「追加のお金がかかりますか?」
「土魔法で地面を動かすだけなら、今回は材料を使いません。ただ、崩れやすいので応急的なものになります」
ミレナの了承を得て、土を少しずつ動かし、家から離れる方向へ浅い排水溝を作った。
魔法で形を作った後、足と借りた道具で底を締め固める。
「本格的に直すなら、いずれ底へ石を敷いた方がいいです。でも、次の雨を逃がすだけなら、これで役に立つと思います」
作業には半日ほどかかった。
材料費として使ったのは銀貨一枚と大銅貨六枚。
残った大銅貨四枚は、ギルドへ返却することにした。
「終わりました。次に雨が降ったら、屋根裏も確認してください」
ミレナが報酬の銀貨三枚を差し出す。
シゲキは受け取ろうとして、手を止めた。
「ユノには古着屋まで案内してもらいました。俺としては、そのお礼もしたいので、報酬は少なくても大丈夫です」
「ですが、ギルドへお願いした金額ですから」
「俺がこの街で困らずに済んだのは、ユノのおかげですから」
「大した仕事でした」
背後から聞き覚えのある声がした。
振り返ると、セシリアが立っている。
「依頼の完了確認に来ました。シゲキさん、個人的なお礼と、ギルドを通した仕事の報酬は分けて考えてください」
「でも、少しくらいなら」
「その少しくらいを、ほかの職人にも求める人が出てきます」
セシリアの声は厳しかったが、シゲキを責めているわけではなかった。
「事情がある依頼主には、ギルドの補助制度があります。今回も報酬の一部は、ギルドの生活支援費から出ています」
「そうだったんですか?」
「依頼主の負担を軽くする仕組みと、職人が受け取る報酬を減らすことは別です」
セシリアは、補修された屋根を見上げた。
「私の父も職人でした。父も頼まれると断れず、何度も安く仕事を引き受けていました」
その声が、少しだけ柔らかくなる。
「最後には、傷んだ道具を手入れする金さえ残らなくなりました。仕事を続けられなくなれば、次に困っている人を助けることもできません」
「……はい」
「材料費だけでなく、作業時間と技術にも価値があります。きちんと仕事をしたのですから、きちんと受け取ってください」
シゲキは反論できず、ミレナから銀貨三枚を受け取った。
「ありがとうございます」
「お礼を言うのはこちらです」
ミレナは安心したように微笑んだ。
「ユノへのお礼は、別の方法で考えてください」
セシリアに言われ、シゲキはユノへ目を向けた。
「何か欲しいものはあるか?」
「じゃあ、直すところを見せて。シゲキがどうやって直すのか、もっと見たい」
「危なくない仕事のときならな」
「約束だよ」
「ああ、約束する」
その日の夜から雨が降った。
翌朝、ユノが白樺亭へ駆け込んでくる。
「シゲキ! 雨、漏れなかった!」
息を切らしながら笑う少年を見て、シゲキも自然と笑顔になった。
自分が現場で覚えてきたことは、この世界でも役に立つ。
どれも中途半端だと思っていた経験が、誰かの暮らしを守った。
◇
ユノの家を直した話は、近所へ広がった。
シゲキのもとへ、少しずつ修理の依頼が入るようになる。
宿屋の壊れた棚。
商店の看板。
閉まりにくい窓。
荷車の車輪。
井戸周辺のぬかるみ。
シゲキは作業前に必ず状態を確認し、使える部品は残した。
修理後には周囲を片づけ、直した場所と今後の注意点を説明する。
異世界独自の道具や材料も多かった。
知らない技術を最初から完璧に使うことはできない。
そのためシゲキは、職人の作業を見学させてもらい、道具の持ち方や力のかけ方を覚えた。
鑑定で材料の硬さや劣化状態を確認し、端材で何度か練習してから本番へ使う。
器用の力は、練習を不要にするものではない。
理解し、試し、失敗したことを次へ生かす速度を上げる力だった。
ある日、荷車の修理を終えた直後、頭の中へ文字が浮かぶ。
アーキテクチャージョブマスター。
職人段階――一人前職人。
作業精度が向上。
複数分野の修理が可能。
前世の経験を、異世界の道具や材料に合わせて応用しやすくなる。
そこからシゲキは、複数の依頼をどう回すかも考えるようになった。
午前は商店の棚を直し、塗料が乾く間に別の家の窓を調整する。
材料の余りを記録し、別の依頼へ使えるものを分ける。
簡単な作業なら依頼主へ手順を説明し、安全にできる範囲だけ手伝ってもらう。
セシリアからは、材料費と作業時間を帳面へ残すよう言われた。
「見積もりの練習です」
「まだ店もないのにですか?」
「店ができてから始めるのでは遅いです」
「父のことがあるからですか?」
「それもあります。それに、ギルドでは修理や整備の依頼が、討伐より軽く扱われがちです」
セシリアは掲示板の端に追いやられた雑務依頼へ目を向けた。
「ですが、壊れた井戸や橋は、魔物と同じくらい人の命に関わります。あなたのような人が仕事を続けられる仕組みが必要です」
その言葉を聞き、シゲキは渋々ながら帳面をつけ続けた。
職人としての目が育つほど、街の建物に不自然な部分が多いことにも気づく。
表面だけ塗り直された腐った柱。
雨水が流れない排水路。
必要な補強材が入っていない床下。
薄い板だけで支えられた階段。
この街では、一定以上の規模の工事を行った職人や会社が、柱や金具の目立たない場所へ施工印を残す決まりになっていた。
建物へ鑑定を使うと、その施工印や過去の補修記録から、同じ会社の名が何度も表示された。
ローデン建設。
この街で最も大きな建築会社だった。
商店街の道路補修を依頼されたときも、側溝の石材へ刻まれた施工印から、以前の工事をローデン建設が担当していたことが分かった。
道の中央が低く、雨が降るたびに水がたまる。
「土魔法で平らにすれば、すぐ終わるだろ」
作業を見ていた職人が言った。
「表面だけ平らにしても、水の逃げ道がなければ同じです」
シゲキは土地の高さを確認し、道の端へ排水溝を作った。
砕石を敷き、その上へ土を重ね、何度も締め固める。
魔法を使えば土は動かせる。
しかし、動かしただけでは丈夫な道にならない。
数日後に大雨が降った。
周囲の道へ水たまりができる中、シゲキが直した場所だけは、排水溝を通って水が流れていた。
商店主たちはその違いを目にし、新しい仕事を頼むようになった。
依頼を続けるうち、シゲキは少しずつ金を貯めた。
いつか、小さくても自分の家と作業場を持ちたい。
借りた道具ではなく、自分の工具をそろえたい。
そんな目標を持ち始めた頃、一人の男が作業中の現場へ現れた。
ローデン建設の現場責任者、バルガスだった。
体格がよく、立派な上着を着ている。後ろには数人の職人を従えていた。
「お前がシゲキか。最近、変わった修理屋がいると聞いてな」
「修理屋というほどではありません」
「謙遜はいい。うちへ来ないか?」
バルガスは、安定した給金と住居、専用の工具を用意すると約束した。
「一人で小さな依頼を受けるより、ずっと稼げるぞ」
安定した給金は魅力的だった。
今は依頼がなければ収入もない。仕事場もなく、工具も借り物が多い。
「まず、現場を見せてやる」
返事を決められないまま、シゲキはバルガスに連れられて建設現場へ向かった。
建てられているのは、複数の家族が暮らす共同住宅だった。
現場へ足を踏み入れた瞬間、シゲキは違和感を覚える。
使われている柱の一部が、表面だけ新しく削られている。
鑑定すると、内部まで腐食が進んでいた。
設計図と施工途中の建物を見比べると、必要な補強材も数本入っていない。
「この柱は使わない方がいいです」
シゲキは勇気を出してバルガスへ伝えた。
「内部まで傷んでいます。表面を削っても強度は戻りません」
「まともな材料だけを使っていたら、依頼主が払える金額では建たん」
「でも、ここまで傷んだ柱は危険です」
「工期を延ばせば職人へ払う金も増える。仕事が赤字になれば、ここにいる連中全員が職を失うんだ」
バルガスの言葉には、彼なりの理屈があった。
会社を守り、職人へ仕事を回す。
安い住宅を求める人々へ、決められた予算で建物を渡す。
だが、安全まで削ってよい理由にはならない。
「見えない場所を少し減らしたくらいで、すぐ壊れはしない」
「すぐでなくても、使う人は何年も住みます」
「理想だけでは会社は続かん」
シゲキは返事に詰まった。
会社を経営した経験も、多くの職人の生活を背負った経験もない。
それでも、この仕事へ加わることはできなかった。
「すみません。その話は、お断りします」
「何だと?」
「安く建てる必要があるのは分かります。でも、人が怪我をするかもしれない部分まで削る仕事はできません」
バルガスの目が細くなった。
「うちのやり方を否定して、この街で仕事ができると思うなよ」
◇
その後、シゲキが受ける予定だった依頼は、次々と取り下げられた。
材料を購入していた店からも、ローデン建設との取引を理由に販売を断られる。
街には悪い噂が流れ始めた。
若い素人が高い修理代を取っている。
土魔法なら簡単に終わる仕事を、わざと長引かせている。
建物を壊してから、修理費を請求している。
依頼がなくなった日、シゲキは買おうと思っていた工具を棚へ戻した。
宿代と食費を考えれば、今は無駄遣いできない。
翌日も、その次の日も、掲示板に自分が受けられる依頼はなかった。
街を歩けば、以前は挨拶してくれた人が目をそらすこともある。
夜、白樺亭の部屋で帳面を開く。
所持金はまだある。
すぐに生活できなくなるわけではない。
それでも、仕事がないというだけで、自分が必要とされていないように感じた。
帳面を閉じたシゲキの脳裏に、あの共同住宅が浮かんだ。
腐食した柱。
入っていなかった補強材。
バルガスが工事をやり直していればよい。
だが、あの男の態度を思い出すと、素直にそう信じることはできなかった。
「住む人が入る前に、直してくれていればいいけど……」
自分が関われる現場ではない。
そう分かっていても、心のどこかに不安が残った。
「シゲキ」
ある日、宿の前でユノに呼び止められた。
「最近、仕事してないの?」
「少し、依頼が減ってるだけだ」
「母さんが、棚も直してほしいって言ってた」
「でも、今はギルドを通した方が」
「じゃあ、ギルドにお願いする」
ユノは以前と変わらず接してくれた。
その何気ない態度に、シゲキは救われた。
ギルドへ行くと、セシリアが分厚い書類を机へ置いた。
「あなたが受けた依頼の記録です。修理後に問題が起きたという報告はありません。評価も良好です」
「でも、ローデン建設は、この街で長く仕事をしてきた会社です」
「会社が長く続いていることと、仕事が正しいことは同じではありません」
オルドも、ミレナも、商店街の人々も、シゲキの仕事に問題はなかったと証言してくれた。
「扉を直してもらってから、一度も引っかかっていない」
「あの雨でも、うちの屋根は漏れませんでした」
「道も水がたまらなくなったぞ」
少しずつ、取り下げられた依頼が戻り始める。
すぐに以前と同じとはいかなかった。
だが、完全に一人になったわけではなかった。
◇
数日後の夜、街を激しい雨が襲った。
白樺亭の窓を打つ雨音を聞きながら、シゲキは補修した屋根や道路のことを考えていた。
そして、心の片隅に残っていた共同住宅への不安も、再び大きくなっていた。
眠れずにいると、オルドが部屋へ駆け込んでくる。
「シゲキ、ギルドから呼び出しだ!」
冒険者ギルドへ向かうと、全身を雨で濡らした男が受付で叫んでいた。
「共同住宅の壁に、大きなひびが入ったんだ!」
場所を聞き、シゲキの顔が強張る。
恐れていた、あの建物だった。
「ローデン建設には連絡したのですか?」
セシリアが尋ねる。
「バルガスさんが来た。でも外壁だけ見て、この程度なら朝まで問題ないと言って帰ったんだ。地面も基礎も確認してくれなかった。さっきから床が傾いてる!」
バルガスは、なぜ詳しく調べなかったのか。
補強材を減らした事実が明るみに出ることを恐れたのではないか。
シゲキには、そう思えた。
「現場を確認してもらえませんか?」
セシリアに頼まれ、シゲキは一瞬ためらった。
大きな共同住宅を一人で直せる自信はない。
「中には、子供もいるんです」
「行きます」
共同住宅へ到着すると、外壁に斜めの亀裂が走っていた。
地面は泥のように緩み、建物の一角がわずかに沈んでいる。
シゲキは建物へ鑑定を使った。
地盤の軟化。
排水不良。
基礎の不同沈下。
柱の強度不足。
補強材の欠損。
「全員、外へ出てください!」
普段出したことのないほど大きな声で叫んだ。
「荷物は後です! 子供と体の不自由な人を先に外へ!」
「バルガスさんは大丈夫だと言ったぞ!」
「大丈夫ではありません! 基礎が沈んでいます!」
住民たちを避難させながら、土魔法で建物へ流れ込む雨水の向きを変える。
周囲へ仮の排水溝を作り、基礎の近くから水を遠ざけた。
沈み始めている場所の下へ、少しずつ土を送り込む。
アイテムBOXから、以前の依頼で余った砕石と木材を取り出した。
容量の多くを使ってしまうため大量には入らないが、緊急補修を始めるには役に立つ。
それでも、土だけでは建物を支えきれない。
「一人では間に合わない……」
「俺も手伝う」
雨の中から、低い声が聞こえた。
現れたのは、ローデン建設で働く職人のジェイルだった。
その片手には工具箱があり、もう一方の腕には油を染み込ませた布包みを抱えていた。
「会社に知られたら、まずいんじゃないですか?」
「この建物を造ったとき、俺も現場にいた」
ジェイルは亀裂の入った壁を見上げた。
「材料を減らすなと言えなかった。危ないと思いながら、給金がなくなるのが怖くて黙ってた」
「でも……」
「共同住宅がおかしいと聞いたとき、ついに恐れていたことが起きたと思った」
ジェイルは布包みを強く抱え直した。
「だから、自宅に隠していた工事記録も持ってきた。人を助けた後で、全部話す」
彼は工具箱を地面へ置いた。
「人が死ぬよりましだ。指示をくれ」
オルドや商店街の男たちも、木材と工具を持って駆けつけた。
冒険者たちは住民の避難と資材運びを手伝う。
シゲキは建物全体を見渡した。
これまで、複数の依頼を回す順番を考え、作業時間を記録し、人へ補助を頼む経験を積んできた。
そのすべてが、頭の中でつながっていく。
必要な支柱の本数。
木材の長さ。
補強する順番。
人員の配置。
アーキテクチャージョブマスター。
職人段階――凄腕職人。
現場管理能力を解放。
見積もり、工程作成が可能。
「ジェイルさんは西側の柱を確認してください。冒険者の方は、木材をこの長さに切って運んでください。残りの人は建物の中へ誰も戻らないよう見張りをお願いします」
指示を出す声は、まだ少し震えていた。
それでも、誰も笑わなかった。
ジェイルとともに支柱を組み、沈んだ側の床と梁を支える。
シゲキは土魔法で基礎の下へ土を送り込み、その上から砕石を詰めて地盤を安定させた。
ただし、これは倒壊を防ぐための緊急処置にすぎない。
建物を再び使うには、雨が止んだ後に基礎と柱を本格的に修理する必要がある。
魔力を使い続けたことで、頭が重くなる。
腕にも力が入らなくなってきた。
「少し休め」
ジェイルが言う。
「まだ、この柱が」
「倒れたら指示を出す人間がいなくなる」
シゲキは数分だけ雨の当たらない場所へ座り、水を飲んだ。
一人で全部を背負うのではなく、仲間へ任せる。
それも現場を管理する人間の役目だった。
夜明けが近づく頃、建物の沈下が止まった。
壁の亀裂は残っている。
完全に直ったわけではない。
それでも、倒壊の危険はひとまず去った。
「よくやった」
隣へ座ったジェイルが言った。
「俺一人では無理でした」
「一人でやる仕事じゃない。だから現場には、まとめる人間が必要なんだ」
ジェイルは持参していた布包みを開いた。
中には、雨から守られた書類が入っている。
「これは?」
「この建物の工事記録だ。使うはずだった材料と、実際に使った材料が違う。バルガスの指示も残っている」
ジェイルは、いつか事故が起きたときに備え、施工記録の写しを自宅へ保管していた。
その書類によって、ローデン建設が材料費をごまかし、施工記録を改ざんしていたことが明らかになった。
バルガスは、安全を削りすぎた責任と、危険を知りながら詳しい調査を行わなかった責任を問われた。
ただし、会社そのものがすぐに潰されることはなかった。
真面目に働いていた職人たちまで路頭に迷わせないため、街の監督下で経営と工事基準を改めることになった。
◇
共同住宅を守った功績として、シゲキには街とギルドから金貨二枚の報奨金が支払われた。
「俺を雇ってくれないか」
ある日、ジェイルがシゲキへ頭を下げた。
「俺が雇うんですか?」
「ローデン建設は辞めた。お前のところで、胸を張れる仕事がしたい」
「でも、俺は人を雇った経験もないですし、工務店を経営する自信もありません」
「技術ならある」
「お金の管理も苦手です」
「それは私も同意します」
いつの間にか、セシリアが隣に立っていた。
「依頼主が困っているからと、すぐ値引きしますからね」
「最近は気をつけています」
「先日も材料費だけで引き受けようとしたでしょう」
シゲキは言葉を失った。
「父のように、技術があるのに仕事を続けられなくなる人を増やしたくありません」
セシリアは真剣な目でシゲキを見る。
「ギルドをすぐに辞めるつもりはありません。ただ、勤務外の時間に帳簿や見積書の作り方を教えます。修理依頼を軽く扱わない仕組みを、あなたと一緒に作りたいんです」
「そこまでしてもらわなくても」
「必要です」
セシリアはきっぱりと言った。
その後、街の人々から、長い間空き家になっている小さな建物を紹介された。
屋根は傷み、床の一部は抜けかけ、壁の塗装も剥がれている。
しかし、住居と作業場の両方に使える広さがあった。
傷みがひどく、買い手もつかなかったため、建物の価格は金貨二枚、大銀貨三枚まで下がっていた。
修理に必要な材料費は大銀貨三枚。
使える古材や金具は、街の人々が無償で譲ってくれることになったため、新品をそろえるより費用を抑えられた。
新しい工具一式と作業台に大銀貨三枚。
高価な専門工具は後回しにし、まずは必要最低限のものだけを購入する。
看板と開業手続きに大銀貨一枚。
ジェイルへ最初の給金として大銀貨二枚を先に渡すことにした。
決して十分な額ではないが、店が軌道に乗るまでの前払いとして、ジェイルも納得した。
セシリアが帳面へ一つずつ数字を書き込む。
「現在持っているのは、金貨三枚、大銀貨四枚、銀貨八枚です」
共同住宅の事件前までに貯めていた金と、報奨金を合わせた全財産だった。
「建物の購入、修理材料、工具と作業台、看板と開業手続き、ジェイルさんへの前払いを合わせると、支払う金額は金貨三枚、大銀貨二枚です」
セシリアは計算を確かめてから、残額を書き込んだ。
「支払い後に残るのは、大銀貨二枚、銀貨八枚です」
数字を見たシゲキの胸に、不安が広がった。
生活を続けられなくなる額ではない。
だが、仕事が入らなければ、すぐに減っていく。
「やっぱり、もう少し金を貯めてからの方が……」
「建物はいつまでも待ってくれません」
セシリアが言う。
「それに、工具と作業場があれば、今まで受けられなかった仕事も受けられます。ただし、残ったお金を全部使ってはいけません」
「分かっています」
「本当ですか?」
「……気をつけます」
ジェイルが笑った。
「仕事なら俺も取ってくる。全部をお前一人で背負うな」
これまでのような借り物ではない。
自分の家と、仕事場と、工具が手に入る。
シゲキは建物を購入した。
ジェイルと二人で屋根を直す。
傷んだ床板を張り替え、壁を塗り直す。
使える柱や金具は残し、傷んだ箇所だけを交換した。
土魔法で建物の周囲を整地し、水がたまらないよう排水溝を作る。
ユノやオルド、商店街の人々も作業を手伝ってくれた。
「これは店の手伝いだから、報酬はいらない」
「ですが」
「昔、うちの扉をただで直そうとしただろ。今度は俺たちの番だ」
オルドに言われ、シゲキは何も返せなかった。
セシリアは必要な材料費を管理し、無駄な出費がないか確認する。
ジェイルは現場経験を生かし、シゲキが一人で抱え込まないよう作業を分担した。
数週間後、古びた空き家は、小さくとも清潔な住居兼作業場へ生まれ変わった。
最後に、入口へ新しい看板を掲げる。
看板には、セシリアが読みやすい文字で店名を書いた。
南出工務店。
「本当に、この名前にするんですか?」
シゲキは看板を見上げた。
「自分の名字を店につけるの、少し恥ずかしいんですが」
「誰が責任を持って仕事をするのか、分かりやすい名前です」
「シゲキ工務店でもよかったんじゃ?」
「南出工務店の方が、それらしいです」
ジェイルも腕を組んでうなずいた。
「俺もいい名前だと思うぞ」
二人に言われ、シゲキは諦めるしかなかった。
◇
開店の日。
最初に店へやって来た客はユノだった。
両手で、脚の折れた木の椅子を抱えている。
「これ、直してくれる?」
「開店最初の仕事が椅子でいいのか?」
「だって、シゲキならちゃんと直してくれるから」
シゲキは椅子を受け取り、折れた部分を確認した。
脚そのものは再利用できる。接合部を作り直し、補強を加えれば、以前より丈夫になるだろう。
顔を上げると、ユノの後ろにも人が並んでいた。
共同住宅の倒壊を防いだ話と、南出工務店が開店するという話は、すでに商店街や住宅街へ広まっていた。
これまで費用や職人探しの問題で後回しにされていた修理を、開店日に合わせて相談しに来た人々だった。
水の出が悪くなった井戸。
雨が吹き込む窓。
傾いた物置。
床がきしむ店。
壊れた荷車。
一日ですべてを終わらせることはできない。
開店日に合わせて休暇を取ったセシリアが、帳場の横からシゲキへ視線を向けた。
「全部引き受けるとは言わないでください」
セシリアが釘を刺す。
「まず現場を確認して、必要な材料と日数を計算します。無理なものは断るんです」
「分かっています」
「本当ですか?」
シゲキは、並んでいる人々の顔を見た。
「一つずつ確認します。すぐに直せるとは約束できません」
セシリアがため息をつく。
「結局、断らないんですね」
「確認してから決めます」
「それを断らないと言うんです」
ジェイルが声を上げて笑い、並んでいた客たちの表情も和らいだ。
剣で魔物を倒すことはできない。
英雄のように、一人で世界を救うこともできない。
それでも、雨漏りする屋根を直すことはできる。
危険な道を整え、水の流れを作り、倒れそうな建物を支えることはできる。
何でも少しずつしかできないと思っていた。
しかし、その一つ一つの経験が、異世界では誰かの暮らしを支える力になった。
セシリアが新しい依頼書を差し出す。
「商店街の共同井戸です。最近、水の出が悪くなったそうです」
「井戸ですか……。原因は詰まりかもしれませんし、水脈の問題かもしれませんね」
「断りますか?」
シゲキは依頼書と、心配そうに待つ商店主を交互に見た。
少し迷った後、依頼書を受け取る。
「まずは現場を見ます。困っているみたいですから」
「やっぱり断れないんですね」
セシリアは呆れたように言ったが、その表情には笑みが浮かんでいた。
こうして異世界の街に、頼まれた修理を断れない元現場職人の、小さな工務店が誕生した。
了
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