三大欲求議論
タイムラインを指で弾いた瞬間、またそれが流れてきた。
三大欲求に排泄を入れろという文字列。
性欲は生きるのに必要ないという断言。
それに群がる、わかったような顔の人間。
画面は光っているのに、どこか湿っている気がした。
食欲は分かる。
眠気も分かる。
腹が減れば苛立つし、眠れなければ世界が歪む。
でも、そこにやけに勝ち誇った調子で、
「ほら、性欲は別に要らないでしょ」
と置かれる言葉を見た瞬間、
胸の奥がざらついた。
生きるのに必要かどうか、という物差しだけで、
欲求を並べ替えて、はい終わりとする。
その薄さに苛立ったのだと思う。
じゃあ、呼吸は。
体温は。
水は。
そうやって並べていけば、
欲求という言葉の輪郭は溶けていく。
でも、彼らはそこまで考えない。
強い言葉を置く。
「必要ない」
「だから外せ」
それで拍手がつく。
画面の向こうでは、誰かが賢くなった気分になり、
誰かが気持ちよく正義を振りかざしている。
でも、自分は違った。
なぜか分からないが、その「必要ない」という断言の奥に、
人間のぐちゃぐちゃした部分を切り捨てる冷たさを感じた。
性欲が美しいと言いたいわけじゃない。
正しいとも言わない。
ただ、それは確かに人を動かし、
人を狂わせ、
人を幸せにもする。
食欲や睡眠と同じように、
厄介で、面倒で、どうしようもない衝動だ。
それを、「個体の生存に不要だから」と、
スパッと外す、その合理性の顔が、どうにも苦手だった。
便意が勝つ瞬間はある。
腹が痛ければ、世界の何よりも優先される。
でも、それは順位の話であって、
存在を消す話ではない。
なのにSNSは、すぐに「消していいもの」を決めたがる。
自分の苛立ちは、排泄を入れるなという怒りじゃない。
欲求を。
人間の衝動を。
都合よく削って、整った顔に並べ替えるその態度に、
小さく反発しているのだと思う。
タイムラインを閉じたあとも、そのざらつきは残った。
別に議論したいわけじゃない。
誰かを言い負かしたいわけでもない。
ただ、人間はそんなにきれいに整理できないだろう、と。
食べて、眠って、誰かを欲して、
トイレに駆け込んで、泣いて、笑って、
後悔して。
その全部が混ざっているのに。
必要かどうか、だけで線を引くその軽さが、
どうにも寂しかった。
もしかしたら自分は、
欲求を守りたいのではなく、
人間の不格好さを守りたいのかもしれない。
そう思ったら、少しだけ気持ちが静かになった。
画面はまた光っている。
でも今は、開かなくていい気がした。




