第17話:夏休み最後の日、あるいは9月の始まり。 ~佐藤君と二人、誰もいない教室で~
読者の皆様、長らく続いた「地獄の夏休み編」にお付き合いいただきありがとうございました。
第14話での新学期フライング事件、そして第16話での「ボツ設定・九条院」との死闘を経て、物語はようやく正当な時間軸を取り戻しました。
今回は、嵐のあとの静けさとも言うべき、夏休み最後のエピローグです。
登校日前の、誰もいない校舎。そこで結衣が佐藤君と交わす言葉は、これからの「新学期編」への大切な布石となります。
窓の外から聞こえてくるのは、もうあの狂ったようなセミの合唱ではない。
どこか物悲しく、それでいて涼やかな秋の虫の声だ。
カレンダーは「9月1日」。一ノ瀬が歪めた時間軸は、佐藤君が放った「宿題の重み」という物理攻撃によって完全に粉砕され、世界は再び正しいレールの上を走り始めていた。
「……よかった。ちゃんと、9月になってる」
私は、始業式の準備のために誰もいない早朝の教室へと足を踏み入れた。
ワックスの匂いが微かに残る床、埃が光の粒のように舞う空気。
つい数日前まで、ここで「影の暗殺者」や「空飛ぶ戦闘ヘリ」と戦っていたなんて、自分でも信じられない。
教室を見渡すと、机の配置や黒板の隅の消し跡までが、驚くほど「普通」だった。一ノ瀬のオーラによってピンク色に発光していた壁も、今はただの古びたクリーム色に戻っている。過剰なエフェクトが剥ぎ取られた世界は、少しだけ寂しくて、でも、たまらなく愛おしかった。
「おはよう、結衣さん。……少し、顔色が良くなったね」
教室の最後尾。窓際の席に、彼はもう座っていた。
佐藤君は、読みかけの文庫本を閉じると、眼鏡を指で直しながら私を見た。
「佐藤君! ……あなた、いつからいたの?」
「さっきだよ。……この世界が『夏休み』というループから脱出する瞬間を、特等席で見守りたかったからね。……昨夜の九条院との戦いで、世界のデータに大きな欠落が生まれた。おかげで、今日はまだ『ト書き』の更新が遅れているみたいだ」
佐藤君が空を指差す。
いつもなら「期待に胸を膨らませるヒロイン」なんていうピンク色のテロップが浮かんでいるはずの場所には、ただ『System Loading...』という無機質な文字が、弱々しく点滅していた。
「……静かだね。世界が、私たちの意志を待っているみたい」
私は佐藤君の隣の席に腰を下ろした。
一ノ瀬と一緒にいるときのような、過剰な演出も、耳障りなBGMもない。
ただ、窓から吹き込む風と、佐藤君の穏やかな呼吸の音だけが聞こえる。
「ねえ、佐藤君。九条院……あの『影』の少年は、もう戻ってこないのかな?」
私の問いに、佐藤君は窓の外、遠くの校門を見つめながら少しの間を置いた。
「……わからない。彼は『ボツ設定』の象徴だ。作者がまた迷走して、物語に刺激が足りないと思えば、第25話あたりでリサイクルされるかもしれないね。あるいは、もっと強力な『過去の因縁』として書き直されて。……でも、今の君なら大丈夫だ」
佐藤君は、机の上に置かれた私の手に、そっと自分の手を重ねた。
「君はもう、ただのヒロインじゃない。……自分の意志でペンを持ち、シナリオを書き換える『共著者』だ。一ノ瀬の強引な王子様属性も、ボツ設定の怨念も、君の『日常を守りたい』という意志には勝てないよ」
「共著者……。いい響きね」
私は彼の手の温もりを、じっくりと噛み締めた。
この夏休み、私は何度も死にかけ、何度も絶望した。
でも、そのたびにこの「モブ」な彼が、物語の外側から手を差し伸べてくれた。
「ねえ、佐藤君。もしこの物語が本当に完結したら、私たちはどうなるの?」
「……そうだね。普通の漫画なら、ハッピーエンドのあとに『その後』は描かれない。でも、物語の外側にいる俺たちには、描かれない未来の方が長いんだ。……君がヒロインという役職を定年退職する日まで、俺は付き合うつもりだよ」
佐藤君の少し皮肉めいた、でも誠実な言葉に、胸が熱くなる。
私たちは、この物語という檻の中にいながら、自由を手に入れようとしている。
「佐藤君。私、決めたわ」
「何をだい?」
「新学期は、もっと派手に暴れてやるわ。……作者が用意した『学園祭のヒロイン争奪戦』も、『修学旅行の強制告白イベント』も、全部めちゃくちゃにして、私が納得できる最高のハッピーエンドを、あなたと一緒に作るの。……たとえそれが、読者アンケートで最下位になってもね」
私の宣言に、佐藤君は今日一番の深い笑みを浮かべた。
「……期待してるよ。読者としては、これ以上ないほど面白い展開だ。……さあ、見て。そろそろ『演出』が追いついてきた」
その時、校庭から「結衣ィィィ!! どこだぁぁ!!」という、聞き慣れた(そして暑苦しい)叫び声が響いてきた。
一ノ瀬蓮だ。新学期早々、彼は大型犬のような勢いで校門を駆け抜けてくる。
彼の周囲には、またしてもキラキラとした黄金の粉と、どこからともなく湧いてきた真っ赤なバラの花びらが舞っている。
『ト書き:9月、新しい恋の予感。王子とヒロインの距離は、秋の深まりとともに——』
空中のテロップが、ようやく更新を始めた。
ピンク色の不自然な光が教室に差し込み、私の視界を無理やりドラマチックに塗り替えようとする。
「……ほら、始まったよ。クソみたいな少女漫画の、第2章が」
佐藤君は万年筆を抜き、まるで指揮棒のように空中で一閃させた。
パリン、という音と共に、私の視界を塞いでいたピンク色のエフェクトが綺麗に割れ、クリアな視界が戻ってくる。
「行きましょう、佐藤君。……私たちの、戦場へ!」
私は佐藤君の手を引き、教室のドアを開けた。
そこには、眩しいばかりの秋の太陽と、そしてこれから始まる「もっとめちゃくちゃな日常」が待っていた。
——夏休み、完。
そして、伝説(?)の新学期編へと続く。
第17話をお読みいただきありがとうございました!
これにて、波乱万丈の夏休み編が正式に終了いたしました。
一ノ瀬君、九条院、そして佐藤君……。様々なキャラクターが入り乱れる中、結衣は「共著者」としての自覚を持ち始めました。物語は新学期へ。
これからも、このデタラメな運命を書き換えていく結衣と佐藤君の物語を、温かく見守っていただければ幸いです。
評価やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!




