第11話:一ノ瀬の「実家の権力」対 佐藤君の「法的措置」 ~夜の住宅街で始まる、設定の殴り合い~
一ノ瀬君の「バックハグ・ラーニング」という狂気の教育方針を振り切り、佐藤君の家で始まったお泊まり勉強会。
しかし、一度決めたら猪突猛進な一ノ瀬君が、夜の住宅街に「実家の権力」を引き連れて襲来します。
サーチライトが夜空を焼き、高級車の重低音が響く中、佐藤君が提示したのは「法律」と「現実」。
少女漫画のファンタジー設定が、現代社会のコンプライアンスという鋭利な刃によって切り裂かれる、緊迫のデバッグ戦をお送りします。
深夜の静寂は、無慈悲な機械音によって叩き割られた。
佐藤君の家の前。本来なら街灯が細々と照らすだけの平穏な路地裏が、今は数台の黒塗りの高級車が放つハイビームによって、真昼のような暴力的な白さに染まっている。
「結衣! 出てこい! お前をバックハグせずに夜を越せると思うなよ! 俺の邸宅の図書室は、今この瞬間も最高級の冷房と、お前のためのネグリジェを用意して待っているんだ! 誰が許可した!? モブの家で因数分解だと!? 冗談は顔だけにしておけ!!」
拡声器を通した一ノ瀬蓮の声が、住宅街の壁に反響して不気味に揺れる。
私は二階のロフトにある、作画が未完成で少し透けている窓から下の様子をうかがった。
一ノ瀬の背後には、彼が「実家の財力」スキルを最大出力で召喚した私設の警備隊が、まるでテロ組織の鎮圧部隊のような重装備で整列している。彼らが持つ盾には『IKEMEN-SECURITY』の紋章が輝いていた。
「……ねえ佐藤君。ネグリジェとか因数分解とか、あのバカ、語彙力が崩壊してない? それにあの人数……もはや勉強合宿のお迎えじゃなくて、ただの拉致監禁未遂よ」
私が戦慄しながら振り返ると、佐藤君は机に向かい、淡々と万年筆を走らせていた。
その横顔には焦りも恐怖もない。ただ、深夜に作業を邪魔されたことに対する深い「不快感」と、冷徹なまでの「観察眼」だけが宿っていた。
「大丈夫だよ、結衣さん。一ノ瀬の武器が『実家の権力(設定)』なら、僕の武器は『社会の一般常識』だ。……この世界の作者は、王子の横暴を『愛ゆえの強引さ』として美化して描くけれど、それはあくまで読者の視線がある場所だけの話だ」
佐藤君は万年筆を置き、一通の書類を手に取った。
「ここは物語の余白。……つまり、この国に実在する『日本国憲法』や『刑法』が、物語の強制力よりも強く機能する特異点なんだ。一ノ瀬は、自分の足元がどれほど危うい地盤の上に立っているか理解していない」
玄関のドアが、警備隊の体当たりによってミシミシと悲鳴を上げる。
佐藤君はゆっくりと立ち上がると、自ら玄関の鍵を開け、ドアを静かに放った。
「ふん、ようやく諦めて結衣を差し出す気になったか、ドブネズミが。遅いんだよ、お前のせいで俺の肌のゴールデンタイムが——」
一ノ瀬が勝ち誇った笑みを浮かべ、土足で踏み込もうとした。
だが、佐藤君がその胸元に突きつけたのは、私への愛の告白でも、降参の印でもない。
びっしりと文字が書き込まれた、一枚の『通知書』だった。
「一ノ瀬君。君が今行っている行為は、刑法第130条『住居侵入罪』、および各自治体が定める『迷惑防止条例』に明確に抵触する。さらに言えば、このサーチライトと拡声器の騒音は、半径200メートル以内の住民に対する安眠妨害……つまり不法行為だ。……見てごらん。君の『ファンタジー』が、今、現実に負けていく音を」
佐藤君が指差した先。
一ノ瀬が「背景」として無視していた周囲の家々の窓が、次々と開き始めた。
そこから顔を出したのは、キラキラした取り巻きの女子生徒ではない。パジャマ姿で怒り狂った、ごく普通の「一般市民」たちだった。
「うるさいわよ! 何時だと思ってるの!」
「警察呼んだからね! その赤い車、邪魔よ!」
一ノ瀬が狼狽する。
「なっ……なんだ、このモブどもは! 俺を誰だと思っている! 一ノ瀬財閥の——」
「財閥の御曹司だろうと、司法は君に従わない。……それから、これがトドメだ。君の親が経営する出版社のコンプライアンス部門、および主要株主宛てに、リアルタイムでこの映像を送信させてもらった。……『次期社長候補、深夜の住宅街でネグリジェと叫びながら民家に突入未遂』。この見出しが明日、ネットニュースのトップを飾ることになる」
佐藤君が万年筆を振ると、書類の文字が冷たい青白色に発光した。
その瞬間、一ノ瀬の周囲に漂っていた「王子のオーラ」が、まるでお湯をかけられた雪のようにドロドロと崩れ落ちていく。
『システム警告:キャラクター・一ノ瀬蓮に「コンプライアンス・パニック」のデバフが発生。社会的信用が致命的なダメージを受けています。王子の特権(無敵状態)が解除されました』
「……くっ、コンプラだと!? 内部告発……!? 少女漫画の王子様に、そんな生々しい現実をぶつけるな!! 俺が……俺の作り上げた完璧なバカンスの世界が……汚されるッ!!」
一ノ瀬が頭を押さえて膝をつく。
そう、彼は強い。実家の金も、ビジュアルも、物語の加護もある。
だが、彼は「自分が漫画のキャラであること」を自覚していない。だからこそ、佐藤君が持ち込む「現実に存在する冷徹なシステム」に抗う術を持たないのだ。
「……引きなよ、一ノ瀬君。君がここから一歩でも踏み込めば、僕は法的措置を辞さない。結衣さんは、僕が責任を持って『普通に』勉強を教える。バックハグなんていう、脊髄反射レベルの教育法に頼らなくてもね」
「……おぼえてろよ……! 結衣、次こそは……お前の誕生日のサプライズ……法律なんて届かない、成層圏まで連れて行って……ぐわあああ!!」
一ノ瀬は、佐藤君が放った「常識」という名の精神攻撃に耐えきれず、警備隊に抱えられて高級車の中に転がり込んだ。
狂乱のサーチライトが消え、黒塗りの車列が這々の体で夜の闇に消えていく。
静寂が、ようやく戻ってきた。
佐藤君はふぅ、と深く長いため息をつき、眼鏡を外してレンズを丁寧に拭いた。その指先が、微かに震えているのを私は見た。
「……終わったよ、結衣さん。もう降りてきても大丈夫だ。耳障りなBGMも消えた」
私は階段を駆け下り、佐藤君のもとへ飛び込んだ。
「佐藤君、すごかったわ! まさか株主総会を武器にするなんて、一ノ瀬のバカには一生かかっても思いつかない攻撃よ!」
「……必死だったんだ、これでも。……あんなデタラメな設定に勝つには、こっちもデタラメに現実的な手段を取るしかないからね。……でも、少しだけ後味が悪いな。物語を面白くなくしてしまったかもしれない」
佐藤君は自嘲気味に笑った。
私は首を振って、彼の制服の袖をぎゅっと掴んだ。
「面白くなくていいわよ。私は、この静かな時間がいいの」
「……そうだね。……さて、邪魔者はいなくなった。宿題の続きをしようか。……君、さっきの因数分解、プラスとマイナスを書き間違えていたよ」
「……えー。あんなにヒーローみたいに助けてくれたのに、結局そこに戻るの?」
「それが、この物語の外側にいる『僕たち』の、一番の特権だよ」
リビングのテーブルに戻り、私たちは再びノートを開いた。
窓の外には、さっきまでの騒動が嘘のような、穏やかな三日月が浮かんでいる。
運命の強制力。一ノ瀬の執着。作者のペン。
それらすべてが、この静かな四畳半の空間だけは、私たちの指先にさえ触れることができなかった。
第11話をお読みいただきありがとうございました!
一ノ瀬君の「王子の権力」に対し、佐藤君が「コンプライアンス」で立ち向かうという、異色の対決回でした。加筆により、一ノ瀬の横暴さと佐藤君の冷静なデバッグ、そして周囲の「モブ住民」たちの生々しい怒りをより濃密に描写しました。
夏休みの夜は更けていきますが、二人の戦いは止まりません。
物語のシステムが、この「停滞」を許すはずがないからです。
次回、『第12話:夏祭りの夜は、作画のいい場所から離れたい ~屋台の焼きそばが、ちゃんと3Dモデルなことに感動~』。
「佐藤君、知的すぎて惚れる」「一ノ瀬、コンプラ負けの姿が哀れ(笑)」など、皆様の感想をお待ちしております!
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