命をつなぐ回路、不器用な恋路【後編】
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第4章からはいよいよ物語が核心に迫り、医療機器に仕掛けられたトリックの全貌と犯人の狙いが明らかになります。
遥と速水がそれぞれの専門性をぶつけ合い、衝突し、そして補い合う姿を楽しんでいただければ幸いです。
また、不器用すぎる二人の関係にも小さな変化が訪れます。
命と心をめぐるクライマックスへ、ぜひ最後までお付き合いください。
第4章 証拠は沈黙する
第1節 かき消された証拠
ME室の机の上に並べていたデータが、跡形もなく消えていた。
昨夜、確かに残しておいた人工呼吸器のログファイル。改ざんの痕跡が残るペースメーカの解析結果。そして、劣化処理を施されたチューブのサンプル──。
翌朝、出勤してきた佐倉遥が目にしたのは、空っぽのフォルダと、処分済みのラベルが貼られた廃棄容器だけだった。
「……そんなはずは……」
震える手でパソコンを操作しても、データはどこにもない。バックアップすら消去されていた。
「やられたな」
低い声が背後から聞こえた。速水健人だ。彼も徹夜明けの顔で駆けつけていた。
「先生、これ……全部消されてます」
「知ってる。俺のところにあったカルテのコピーも、さっき処分指示が出たって言われた。必要ないから廃棄したと」
遥の胸に冷たいものが走った。
偶然の紛失ではない。誰かが意図的に証拠を消し去っている。しかも、それは単独犯では成し得ない。病院内部に、確実に協力者がいる。
「ここまで徹底して隠されると、もはやただの個人の犯行じゃない」
速水の目が鋭く光る。
「組織的に守られている可能性がある」
遥は唇を噛みしめた。
命を奪う行為が病院の中で行われ、その証拠が組織的に抹消されている──その現実に、背筋が震える。
「どうすれば……」
弱音のような声が漏れた瞬間、速水が彼女の肩に手を置いた。
「現場で押さえるしかない。消される前に、異常が起きる瞬間を俺たちで掴むんだ」
彼の言葉に、遥は強くうなずいた。
証拠は沈黙した。ならば、次は生きた現場で、真実を声にさせるしかない。
第2節 対立する正義
ME室の片隅。残されたのは空っぽのフォルダと、虚しい沈黙だけだった。
その沈黙を破ったのは、佐倉遥の強い声だった。
「もう……警察に知らせるしかありません」
速水健人が顔を上げる。
「証拠がないのにか?」
「でも、このまま放っておいたら次の患者が犠牲になります!」
遥の声は震えていた。怒りと恐怖と焦燥が混じり合っている。
速水はしばらく黙り込み、それから低く言った。
「確かに危険だ。でも警察に通報してみろ。証拠はすでに消されている。俺たちの言葉だけじゃ、ただの思い込みで終わる」
「思い込みなんかじゃありません!」
珍しく、遥が声を荒げた。
「私が見たチューブの劣化も、プログラムの書き換えも、全部偶然じゃない。患者の命を奪うための仕掛けなんです!」
速水はその真剣な瞳を見返しながらも、首を横に振った。
「君の言うことは正しい。だが、ここで病院全体が告発されたらどうなる? 責任は現場の誰かに押しつけられる。結局、真実は闇に葬られるんだ」
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
遥の声が一気に弱まった。
速水は深く息を吐き、机に拳を置いた。
「現場で押さえる。異常が発生する瞬間を、この目で、この手で確認するんだ。それしかない」
静寂が戻る。二人は互いに視線をそらし、わずかな距離を感じた。
だがその沈黙の底には、同じ思いが確かに横たわっていた。
──患者を守りたい。
遥は拳を握りしめた。
「……わかりました。次に何か起きたら、絶対に逃しません」
速水も小さくうなずいた。
「それでいい。俺も一緒にやる」
ぶつかり合った心が、やがて同じ方向へと収束していく。
互いの正義は違っても、目指すものはひとつだった。
第3節 罠と気づき
ICUの夜勤は、独特の緊張感に包まれていた。
モニターのアラーム音はまるで時計の針のように規則的で、それが乱れる瞬間を待つことは、心臓に針を刺されるような感覚を伴った。
佐倉遥と速水健人は、あらかじめ目星をつけたベッドのそばにいた。患者は心不全を抱える中年男性で、植込み型のペースメーカが作動中。これまでのパターンから、次の標的になる可能性が高いと二人は読んでいた。
「波形、今のところは安定してるな」
速水が小声でつぶやく。
遥は黙ってログ画面を見つめていた。画面の隅に並ぶ数列は、彼女にとっては機械の鼓動そのもの。わずかな揺らぎさえ聞き逃すまいと耳を澄ますように集中していた。
──その瞬間。
画面上のプログラム値が、一瞬だけ跳ね上がった。
心拍の設定値が異常に高く書き換えられ、危険な頻脈を誘発する形になっていた。
「今だ!」
遥の声と同時に、モニターが警告を発した。患者の脈拍が急上昇し、血圧が下がる。
速水は即座に患者の胸部を確認し、薬剤投与の指示を飛ばす。
「アミオダロン投与! 準備!」
看護師たちが慌ただしく動く中、遥はペースメーカのリモート操作端末にアクセスした。
「プログラムをリセットします!」
指がキーボードを走り、改ざんされた設定を初期値に戻す。数秒後、心拍数が落ち着きを取り戻した。
「……助かった」
速水が息を吐き出した。額には汗がにじんでいる。
遥は画面を見つめながら言った。
「今の一瞬、改ざんが実行されました。つまり、犯人はまだこの病院のどこかからアクセスしている」
速水は険しい目でICUの周囲を見回した。
「罠を仕掛けてきたってわけか。だが逆に、これで確信できたな」
二人は互いに視線を交わす。
患者の命を救った安堵と、犯人が確かに存在するという戦慄。
その両方を胸に刻みながら、二人の決意はより固いものになっていった。
第4節 白衣の裏の影
翌日、ME室のモニターには前夜のログが映し出されていた。
佐倉遥は、ICUで発生した改ざんの痕跡を一行ずつ解析していた。
数列と英数字の羅列は、まるで暗号のようだ。だが、彼女の目には機械の声としてはっきりと響いていた。
「……不正アクセスに使用されたアカウントが残ってる」
思わず声が震える。
速水健人が身を乗り出した。
「誰のだ?」
遥は画面を拡大し、IDを読み上げた。
それは──昨日、二人が疑惑を抱いた医師の名前と一致していた。
「……やっぱり、この人なんですね」
室内の空気が一気に重くなる。
速水は拳を握り、低く唸った。
「これでもまだ偶然だと言えるのか……」
遥は胸の奥に複雑な感情を抱えていた。
その医師は表向きには患者思いで評判が良く、部下からも信頼されている存在だ。
「なぜ、そんな人が……」
思わず口に出すと、速水が短く答えた。
「わからん。だが、事実は事実だ」
二人はしばらく沈黙した。
外の廊下からは、看護師たちの笑い声や、患者を呼ぶ声が聞こえてくる。
その日常の音と、目の前の暗い現実の落差が、遥の心を締め付けた。
速水が立ち上がり、視線を窓の外に向けた。
「次は、やつが動く瞬間を捕まえる」
その横顔は硬い決意に満ちていた。
遥もまた、胸に小さな炎を宿した。
「……はい。必ず」
白衣の裏に潜む影は、今や名前を持つ存在となった。
だが、その動機は依然として闇の中。
そして闇は、さらに深く広がろうとしていた。
第5章 崩れゆく仮面
第1節 矛盾する証言
昼下がりのカンファレンスルーム。窓から差し込む光に、埃が細い筋を描いていた。
佐倉遥と速水健人は、疑惑の医師に関わった症例についてスタッフにヒアリングを進めていた。
最初に応じたのは、ベテラン看護師だった。
「○○先生? あの人はね、患者さんのことを本当に大事にする人よ。夜遅くまで残って経過を見ていたし、家族の質問にも丁寧に答えていた」
語る口調には確かな信頼が滲んでいた。
次に若手の臨床工学技士が証言した。
「ただ……ちょっと気になることがあって。呼吸器やペースメーカの設定に、やたらと口を出してくるんです。医師が確認するのは普通ですけど、あの先生は自分で細かく数値を打ち替えたりするんですよ。しかも、必要がない場面で」
遥と速水は視線を交わした。
──患者思いの献身的な医師。
──機器に異常な執着を見せる技術介入。
二つの証言は表と裏のように食い違っていた。
「人は、見たい顔しか見ないものだな」
速水が低くつぶやく。
「患者や家族には優しい顔を見せて、裏では……」
遥は言葉を飲み込んだ。だが心の中では確信に近い思いが渦を巻いていた。
さらにもう一人、オペ室の看護師が口を開いた。
「そういえば……以前、器材のチェックの時に滅菌は俺がやるって言って、誰も近づけなかったことがありました。あれ、今思えば不自然だったかも」
証言が積み重なるたびに、遥の背中に冷たい汗が流れた。
彼は、善良な顔と狂気の顔を巧みに使い分けていたのではないか。
「……ますます怪しくなってきたな」
速水が椅子から立ち上がった。
遥もうなずく。
「でも、まだ決定的な証拠はありません」
二人の心に同じ焦燥が渦巻いていた。
矛盾する証言の断片は、確かに一人の人間を指し示している。
だが、仮面を剥がすにはまだ一歩足りない──。
第2節 消された真実
深夜のME室。蛍光灯の白い光が、静寂を一層際立たせていた。
佐倉遥はパソコンの前に座り、バックアップサーバーにアクセスしていた。
呼吸器やペースメーカのログデータ──改ざんの痕跡を示す数少ない証拠を保存していたはずだった。
「……ない」
画面をスクロールする手が震える。フォルダは空っぽで、ログファイルはすべて削除されていた。しかも、削除日時は今夜。
遥が退勤した後のわずかな時間に、誰かがアクセスしていた。
そこに速水健人が入ってきた。
「やっぱりか。俺のところも同じだ。カルテのコピーが誤ってシュレッダーにかけられたってさ」
皮肉めいた笑いが、怒りを隠しきれていない。
遥は唇を噛んだ。
「……もう、病院そのものが私たちの敵なんじゃないですか?」
声がわずかに震えた。自分たちが守ろうとしている場所に、真実を消す力が潜んでいる。そんな恐怖が全身を締め付ける。
速水はしばらく黙り込み、それから深く息を吐いた。
「だからこそ、外に漏らすわけにはいかないんだ」
「どういうことですか」
「警察やメディアに知らせれば、病院全体が叩かれる。そうなれば、真実は事故の一言で片付けられるだけだ」
遥は机を叩いた。
「でも、証拠を消され続けたら、私たちには何も残らない!」
「だから、現場で掴むしかない」
速水の声は鋭かった。
「消される前に、目で見て、手で押さえるんだ。それが唯一の道だ」
二人の間に重い沈黙が落ちる。
遥の目には悔しさと恐怖が混じっていた。速水の目には、覚悟と冷静さが宿っていた。
正義の形は違う。だが、守りたいものは同じ。
遥は小さくうなずいた。
「……わかりました。次は絶対に逃しません」
速水もまた、短く答えた。
「その意気だ」
ME室の時計が静かに針を進める。
その音が、二人に与えられた時間が限られていることを告げているようだった。
第3節 意外な協力者
翌日の午後、ICUのナースステーションは慌ただしかった。
看護師たちが患者のデータを確認し、電話の呼び出し音が絶え間なく鳴り響く。その喧噪の中で、一人の看護師が落ち着かない様子で廊下を歩いていた。
「佐倉さん……ちょっといいですか」
声をかけられた遥が振り向くと、そこには若手の看護師、宮下が立っていた。
彼女の表情は不安げで、何度も周囲を見回している。
「実は……誰にも言ってないんですけど」
宮下は声を潜めた。
「例の先生が、処置室で機器を操作しているのを見たんです。夜勤のとき、私以外に誰もいなくて……。滅菌が終わった器材をわざわざ持ち出して、何か数値を打ち込んでいました」
遥の心臓が跳ねた。
「それは、いつのことですか?」
「二週間くらい前です。あのときは気にしなかったんですけど……最近の騒ぎを聞いて、もしかしてと思って」
速水が一歩前に出た。
「そのことを公式に証言できるか?」
宮下は怯えたように首を振った。
「無理です。もし話したら、私はここで働けなくなる。患者さんのために動いたつもりでも、上からは裏切り者って思われるに決まってます」
彼女の手は震えていた。それでも、勇気を振り絞って二人に打ち明けているのが伝わってきた。
遥は静かに言った。
「大丈夫です、宮下さん。無理に証言してもらわなくても構いません。あなたの言葉は、私たちが必ず守ります」
宮下の瞳に、わずかな安堵が浮かんだ。
「……お願いします。どうか、この病院を守ってください」
彼女が去ったあと、速水が腕を組んでつぶやいた。
「証言はあった。だが、まだ決定打じゃない」
「はい。でも、確かに黒い影は存在している」
遥は強く答えた。
意外な協力者の告白は、二人にとって小さな光だった。
その光を消さないために、次に掴むのは──決定的な証拠。
第4節 仮面のひび
夕刻の医局。蛍光灯の明かりは弱々しく、窓の外には暮れなずむ空が広がっていた。
机に積まれたカルテの束の向こう側で、疑惑の医師──高城は、柔らかな笑みを浮かべていた。
「速水先生。さっきの患者、うまく持ち直しましたね。さすがです」
その声は穏やかで、人当たりの良い医師そのものだった。
だが速水健人は、その言葉の裏を探るように冷ややかな視線を向けた。
「偶然ですよ。ただ……あの機械が勝手に暴走したとは思えませんが」
高城の笑みが一瞬だけ固まった。
ほんの数秒の沈黙。その後、彼はわざとらしい笑みを深めた。
「機械は完璧じゃありません。エラーも不具合も日常茶飯事でしょう?」
「ええ、だからこそ僕たち技士や医師が管理してるはずです」
速水は声を低くした。
「でも、不具合が特定の症例にだけ集中しているのは妙ですね」
遥は少し離れた場所で会話を聞いていた。
高城の口調は依然として穏やかだが、額にうっすら汗が浮かんでいるのが見えた。
「……速水先生。根拠のない疑いは危険ですよ。医局での評判を落とすことになる」
「根拠ならすぐに出ますよ。だって機械は嘘をつけないから」
その言葉に、高城の瞳がわずかに揺れた。
遥はその瞬間を見逃さなかった。──確かに、仮面にひびが入った。
「……君たち、何を探しているのかな」
高城の声色が変わった。笑みの奥に、冷たい鋭さがのぞく。
速水は敢えて言葉を返さず、立ち上がった。
「次に証拠を見つけたとき、もう言い逃れはできませんよ」
高城は何も言わず、ただ机上のカルテを整える仕草をした。その背中に、静かな緊張が張り詰めていた。
医局を出た速水の横で、遥が小声で言う。
「先生……今の反応、やっぱり……」
「確信に変わったな」
速水は短く答えた。
──仮面の下から覗いた一瞬の素顔。
そのひび割れは、やがて全てを崩壊させる前触れだった。
第6章 命を狙う手
第1節 不気味な警告
午前の外来業務が一段落し、佐倉遥がME室へ戻ると、デスクの上に一枚の紙が置かれていた。
白いコピー用紙に、黒い太字のマジックでただ一言──
「これ以上、首を突っ込むな」
心臓が一瞬、止まったように感じた。
周囲を見回す。だが、同僚たちは何事もなかったかのように機器点検の記録をつけている。誰が、いつ置いたのか分からない。
遥は紙を握りしめた。指先にじっとりと汗が滲む。
──やっぱり、私たちの動きは見られている。
その時、ドアが開き、速水健人が入ってきた。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
遥は迷ったが、紙を差し出した。
速水は目を細め、低くつぶやいた。
「……犯人か、協力者か。どちらにしても俺たちが狙われてる」
「どうしますか」
声が震えそうになるのを必死に抑える。
速水はしばらく黙り込み、やがて口元を引き締めた。
「後戻りはできないな。むしろ向こうが警告してきたってことは、核心に近づいてる証拠だ」
遥は紙を見下ろした。恐怖で手が冷たくなっていたが、胸の奥には小さな炎が確かに燃えていた。
「……そうですね。次の一手を、必ず掴みましょう」
ME室の時計が秒を刻む音が、やけに大きく響いていた。
その音はまるで、二人に残された時間が少しずつ削られていく警告のようだった。
第2節 仕組まれた事故
ICUの午後。いつも通りの規則正しいアラーム音が響いていた。
速水健人は、心不全患者の点滴ラインを調整していた。薬剤ポンプは静かに作動し、画面には安定した注入速度が表示されている。
──その瞬間。
警告音が甲高く鳴り響いた。
表示パネルの数字が急上昇し、通常の三倍近い速度で薬剤が投与され始めていた。
「そんな馬鹿な……!」
速水は思わず声を上げた。操作した覚えはない。それなのに、ポンプは勝手に暴走している。
患者の心拍がモニター上で乱れ始める。血圧は急降下。危険な不整脈が誘発されようとしていた。
「先生!」
駆け込んできた佐倉遥が、異常を一目で察した。
「制御プログラムが改ざんされてます!」
彼女は素早くポンプの緊急停止ボタンを押した。だが、画面は赤く点滅し、停止信号が無効化されていた。
「止まらない……!」
遥は眉をひそめ、ケーブルをたぐり寄せた。
「非常電源を切ります!」
バチッ、と乾いた音が響き、ポンプが沈黙する。
同時に速水が薬剤ラインをクランプで閉じ、患者の体内への流入を遮断した。
数秒後、患者の心拍が徐々に落ち着きを取り戻す。
モニターに映る波形が安定し、周囲の看護師たちが安堵の息を漏らした。
「間一髪だったな……」
速水は汗を拭いながらつぶやいた。
遥は停止したポンプを見つめ、声を低くした。
「これ、偶然じゃありません。明らかに仕組まれていた」
二人の視線が交わる。
その奥には、次は患者ではなく──自分たちが狙われるのではないかという無言の恐怖が宿っていた。
第3節 秘匿されたファイル
深夜のME室。
ほとんどの医療スタッフが帰宅した後、佐倉遥は一人、古びたサーバーラックの前に座っていた。冷却ファンの低い唸りと、パソコンの画面に流れるログだけが、暗い室内を照らしている。
「……消されたはずのバックアップが、断片的に残ってるはず」
指先でキーボードを叩く。
医療機器の稼働データは通常、定期的に上書き保存される。だが旧式サーバーには、完全には消去されず、断片が残っていることがある。
画面に現れたのは、不完全なログファイル群。日付は事件当日の前後。
「……あった」
遥の心臓が高鳴る。
そこには、人工呼吸器や薬剤ポンプに対する異常なリモートアクセスの記録が断片的に残っていた。通常の管理者アカウントではなく、なりすましの形跡。そして、アクセスした端末のIDは──
高城医師のものと一致していた。
「やっぱり……」
声にならないささやきが漏れた。
その時、背後のドアが軋む音を立てて開いた。
「こんな時間まで残業か?」
振り返ると、そこに速水健人が立っていた。
安堵と同時に、遥は自分の緊張で強張った笑顔を見せた。
「先生……これ、見てください」
速水が画面を覗き込み、眉をひそめる。
「……完全に証拠じゃないか。消されたデータの残りかすで、ここまで出るとはな」
「決定的とは言えないです。でも、つながりました」
遥の声には、恐怖と同時に確かな手応えが宿っていた。
二人は無言のまま画面を見つめ合った。
外では救急車のサイレンが遠ざかっていく。
その音が、嵐の前触れのように胸に響いていた。
第4節 迫る危機
翌日の朝。
ICUの廊下は慌ただしく、医師や看護師の足音が絶え間なく響いていた。
その中で、佐倉遥と速水健人は無言のまま並んで歩いていた。前夜に見つけたログが頭から離れない。
「……これで、もう疑いようがないな」
速水が低くつぶやいた。
「でも、どうやって公にするかが問題です。中途半端に動いたら、証拠ごと消される……」
遥は声を潜めた。
その時だった。
「おや、朝から熱心だね」
背後から声がかかり、二人は足を止めた。
ゆっくりと歩み寄ってきたのは、高城医師だった。
いつもの穏やかな笑みを浮かべているが、その眼差しは鋭く、どこか冷たい光を帯びていた。
「深夜まで病院に残っていたそうじゃないか。随分と勤勉だね」
「……」
遥の背中に冷たい汗が流れる。見られていた。
速水は一歩前に出て、あえて真っ直ぐに言った。
「僕たちは患者の命を守るために調べているだけです」
「そうかい? けれど──」
高城の声が低くなった。
「好奇心が過ぎると、自分や周りの人間を傷つけることになる。医局には、余計な噂は立てない方がいい」
言葉は柔らかい。しかしその響きは、まるで刃物のように鋭く二人の胸に突き刺さった。
高城は軽く会釈し、足音を響かせながら去っていく。
廊下に残された二人は、しばらく言葉を失ったままだった。
「……完全に気づかれてる」
遥の声は震えていた。
速水は小さく頷き、視線を前に向ける。
「だからこそ、退けない。次で決着をつける」
遥はその横顔を見つめ、胸の奥に芽生えた恐怖と覚悟を噛み締めた。
──次は、もう後戻りできない。
第7章 暴かれる真実
第1節 最後の仕掛け
ICUの深夜。
静まり返った病室に、人工呼吸器の規則正しい駆動音とモニターの電子音だけが響いていた。
佐倉遥はパソコンに向かい、患者のバイタルと植込み型心臓ペースメーカのログを照合していた。
一見、正常。だが──波形の裏に、わずかな「異物」が混じっていた。
「……このリズム、意図的に乱されてる?」
通常なら検知されないほどの微細なプログラム改ざん。
しかし遥は、その数ミリ秒のズレを見逃さなかった。
もしこのまま稼働を続ければ、不整脈を誘発し、心停止に至る可能性がある。
その時、ベッドの上の患者が突然、胸を押さえて苦しみ始めた。
モニターが警告音を鳴らす。心拍が不安定に跳ね上がっていた。
「先生! 発作が始まります!」
遥の声に、速水健人がすぐさま駆けつける。
「まさか……ペースメーカが?」
遥は歯を食いしばりながら答えた。
「間違いありません。設定が外部から改ざんされてます!」
速水は患者に駆け寄り、胸骨圧迫と薬剤投与の準備を指示する。
一方、遥は必死に端末へアクセスし、改ざんプログラムの解除を試みた。
だが画面には「ACCESS DENIED」の赤い文字。
「……妨害されてる!」
汗が額を伝う。背後からは患者の苦しげな声、そして速水の緊迫した指示。
犯人は確実に、ここで次の犠牲者を生み出そうとしていた。
「絶対に……止める!」
遥の指は震えながらも、正確にキーを叩き続けた。
その決意は、恐怖をはるかに凌駕していた。
第2節 命をかけた連携
患者の心拍数は危険なリズムを刻み、モニターの波形は乱れに乱れていた。
速水健人は即座に判断した。
「アミオダロン、投与開始! 除細動器も準備!」
看護師たちが慌ただしく動く中、速水は患者の胸に手を当て、わずかな拍動を探った。
「……まだ間に合う!」
一方、佐倉遥は端末に張り付き、ペースメーカのプログラムを書き換えようと必死に操作を続けていた。
「不正コードが……ループしてる……!」
犯人が仕込んだ妨害プログラムは、解除を試みるたびに別のエラーを吐き出し、解除を拒んでいた。
「遥!」
速水が鋭い声を飛ばす。
「あと三十秒以内に抑えないと、この心筋は持たない!」
「わかってます!」
遥の額に汗がにじむ。
解析の手を止め、彼女は思い切った方法に切り替えた。
「不正コードを全部消去する時間はない……! 一時的にセーフモードに切り替える!」
リスクは大きい。プログラムが不安定になれば、ペースメーカは完全停止する可能性もあった。
だが、悠長に構えている余裕はなかった。
「先生、五秒カウントしてください!」
「了解!」
速水は時計を見つめ、声を張り上げた。
「5……4……3……」
遥はそのカウントに合わせてキーを叩く。
「2……1!」
──画面が一瞬、暗転。
次の瞬間、ペースメーカの動作がセーフモードに切り替わり、異常な信号が遮断された。
「今だ!」
速水が除細動器を作動させ、患者の胸に電流が走る。
モニターの波形が大きく揺れ、そして……規則正しいリズムに戻った。
「……助かった」
速水が深く息を吐く。
遥は力が抜けたように椅子にもたれ、震える声でつぶやいた。
「機械も、人も……最後は、信じ合うしかないんですね」
速水はそんな彼女を見て、微笑を浮かべた。
「お前が諦めなかったからだ。俺一人じゃ救えなかった」
二人の間に、短くも確かな信頼の絆が走った。
──だが同時に、犯人がここまで露骨に動いたという事実が、次なる決戦の予兆となっていた。
第3節 暴かれる真実
会議室。窓の外は夜の帳が下り、蛍光灯の白い光が冷たく空間を照らしていた。
机の上にはノートパソコンが開かれ、画面には旧サーバーから復元したアクセスログと、最新のペースメーカ通信記録が並んで表示されている。
佐倉遥は震える指先を押さえながら、画面を示した。
「ここを見てください。事件当日の夜、人工呼吸器に不正アクセスした形跡。そして今回のペースメーカへの改ざんコード……発信元はすべて同じ端末です」
速水健人が静かに言葉を継いだ。
「この端末IDは、高城先生。あなたのものです」
室内の空気が一瞬凍りついた。
高城医師は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。しかし、その目だけが笑っていなかった。
「……そんなもの、いくらでも捏造できる。ログなんて都合のいい数字の羅列だろう」
「そう思いますか?」
遥は食い下がった。
「でも、機械は嘘をつけません。たとえログを削除しても、電圧の揺らぎや通信のタイムスタンプ、残留データは正直に残るんです」
高城の表情がわずかに揺らぐ。
速水はその隙を突いた。
「僕たちが救った患者は、もう二度と偶然の事故では片づけられない。あなたが仕掛けた医療犯罪だ」
「……っ」
高城の拳が机の下で震えた。笑みは完全に消え、冷たい瞳だけが残る。
遥は一歩踏み出し、言葉を放った。
「命を弄ぶことは、絶対に許されません。どんな理由があっても」
その声は静かだったが、会議室の壁に反響し、鋭く響いた。
高城はしばらく沈黙した後、椅子に深くもたれかかる。
「……君たち、思った以上にしぶといな」
その低い声には、もはや取り繕う余裕は残されていなかった。
第4節 崩れ落ちる仮面
会議室の扉が勢いよく開き、病院の警備員と警察官が数名入ってきた。
先ほど速水が密かに通報していたのだ。
「高城医師、あなたを医療機器不正操作と殺人未遂の容疑で連行します」
冷徹な声が響く。
高城は一瞬だけ目を見開き、すぐに皮肉な笑みを浮かべた。
「……なるほど。機械にまで裏切られるとはな」
両腕を掴まれ、廊下へと引き立てられていく。
その背中からは、これまでまとっていた温厚な医師の仮面は完全に剥がれ落ち、ただ冷酷で孤独な人間の姿が残っていた。
廊下に集まったスタッフたちがざわめく。
「まさか……」「信じられない……」
その声は病院全体に、事件の真実が広がり始めていることを告げていた。
静まり返った会議室に、残されたのは佐倉遥と速水健人。
遥は深く息を吐き、椅子に腰を下ろした。
「終わったんですね……」
速水は頷きながらも、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「いや、本当の意味ではこれからだ。機械を悪用すれば、誰でも同じことができる時代だ。俺たちは……もっと命を守る方法を考えなきゃならない」
遥はその言葉に静かに頷いた。
「そうですね。でも……今日わかりました。機械も、人も、信じて支え合えば、必ず守れるって」
ふと二人の視線が重なる。
そこには疲労と安堵、そして互いへの揺るぎない信頼が宿っていた。
病院の廊下から、警察車両のエンジン音が遠ざかっていく。
それは、事件の終わりを告げる音であると同時に──
二人にとっての、新たな始まりを告げる音でもあった。
エピローグ 機械と心のあいだで
事件から数週間後。
東都大学附属病院は、表面上はいつもの日常を取り戻していた。
ICUには変わらずアラーム音が鳴り、透析室では人工腎臓装置が淡々と患者の血を浄化している。
だが、スタッフたちの意識は少しだけ変わっていた。
臨床工学技士という職種の存在が、以前よりも大きく認知されるようになったのだ。
「機械を守ることは、命を守ること」──その言葉は院内の合言葉のように広がっていた。
ME室。
佐倉遥は点検リストにチェックを入れながら、隣に立つ速水健人を横目で見た。
「……事件以来、先生もずいぶんと機械に詳しくなりましたね」
速水は肩をすくめて笑う。
「お前の講義が厳しすぎてな。抵抗回路の計算まで覚えさせられるとは思わなかった」
遥も思わず笑みをこぼす。
あの日の緊迫した救命劇が、今はこんな軽口に変わっていることが、不思議でならなかった。
ふと、速水が真剣な表情に変わった。
「なあ、遥。……これからも一緒に、命、守っていかないか」
唐突な言葉に、遥は一瞬言葉を失った。
胸の奥が熱くなり、視線を逸らしそうになる。
「……はい。機械も、人も。私たちなら守れます」
二人は静かに微笑み合った。
機械の駆動音がリズムを刻むように、二人の心もまた同じリズムで鼓動を刻み始めていた。
──臨床工学技士。
まだ世間には知られていない職種かもしれない。だが、確かに医療の現場で命をつなぎ、人と人を結ぶ存在である。
その小さな一歩が、これからの医療を変えていく。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
事件の真相と、遥と速水の関係の行方──本作を通して「臨床工学技士」という職業に少しでも興味を持っていただけたら嬉しいです。
医療の現場では、表に出ない専門家たちが数多くの命を支えています。
その姿を小説という形で描くことができたのは、私自身にとっても大きな挑戦でした。