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命をつなぐ回路、不器用な恋路  作者: 東雲 比呂志
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命をつなぐ回路、不器用な恋路【前編】

ご覧いただきありがとうございます。

本作は「臨床工学技士」という、まだ広く知られていない医療専門職を主人公にした医療推理ラブコメです。

命をつなぐ機械と向き合う仕事のリアル、そこに潜むミステリー、そして不器用な恋模様を描いていきます。

専門用語も出てきますが、できるだけ平易に、物語の流れで自然に理解できるよう工夫しました。

第3章までは事件の導入部とキャラクターたちの出会いを描いています。

読んでいただければ幸いです。

命をつなぐ回路、不器用な恋路

プロローグ 機械は嘘をつかない

 病院の夜は、静かにして騒がしい。

 集中治療室──通称ICUには、消毒液の匂いと、機械が刻む一定のリズムが満ちていた。ピッ、ピッ、と心電図モニターが脈を数え、人工呼吸器が規則正しく肺へ空気を送り込む。患者の代わりに働くこれらの装置は、命の糸をつなぐ相棒だ。

 その人工呼吸器の横に立つのは、臨床工学技士・佐倉遥。

 白衣に身を包み、細い指先で操作パネルをなぞる。彼女の耳は機械のわずかな音の揺らぎを聞き分け、目は表示された数値の微妙な変化を逃さない。医師や看護師が患者の顔色を読むように、遥は機械の呼吸を感じ取るのだ。

 その夜、ICUの一角で異変が起こった。

 手術を終えたばかりの若手外科医が、術後管理のため人工呼吸器につながれていた。術後経過は良好に見え、モニター上の数字も正常範囲。だが、突然アラームが鳴り響き、彼の心臓が止まった。医師と看護師が駆け寄り、蘇生の指示が飛び交う。慌ただしい人の声と、機械の警告音が重なり合い、ICUは一瞬で修羅場へと変わった。

 「……どうして?」

 蘇生の輪の外で、遥は呟いた。

 呼吸器は正しく動いていたはずだ。表示されたグラフも乱れていなかった。だが、ほんのかすかな──一般の人間なら絶対に気づかないようなずれを、彼女は確かに見た。

 換気量がわずかに揺れ、呼気のリズムがほんの一拍、外れていた。

 偶然か、それとも必然か。

 医師たちは「予期せぬ合併症」と処理しようとするだろう。しかし、遥の胸には冷たい疑念が芽生えていた。これは単なる事故ではない。誰かが仕掛けた見えない罠なのではないか──。

 白い光に包まれたICUの中で、彼女はひとり、機械の声に耳を澄ませていた。

 やがてこの違和感が、命を狙う影を暴き出し、そして彼女自身の運命をも揺さぶることになることを、まだ誰も知らなかった。


第1章 「見えないずれ」

第1節 静かな死

 集中治療室の夜は、静寂と緊張が同居していた。

 白い蛍光灯の下、人工呼吸器が規則的に空気を送り込む音が響く。ピッ、ピッ、と心電図モニターが脈を刻むたび、看護師の視線が数字に走る。そこは、眠ることを許されない命を見守る場所だった。

 ベッドに横たわるのは、つい数時間前に心臓手術を終えたばかりの若手外科医。自分の手で患者を救う立場のはずの彼が、今は患者として機械に身を委ねていた。手術は成功。術後の経過も問題なし──少なくとも、表面上はそう見えていた。

 臨床工学技士・佐倉遥は、その人工呼吸器の横に立っていた。

 彼女は無口で、余計なことを言わない。ただ、表示された数値と波形をじっと見つめる。呼吸のリズム、空気の量、吐き出される二酸化炭素の濃度。そのすべてが「正常」を示していた。

 だが、遥は目を細める。ほんのわずか、一瞬だけ呼吸の波が揺れたように見えたのだ。機械音のリズムが、一拍だけ外れたような──そんな小さな違和感。

 次の瞬間、アラームが鳴り響いた。

 患者の心電図が急降下し、血圧計の数字が消えた。看護師が叫び、医師が駆け込む。心臓マッサージ、アドレナリン投与、除細動──あらゆる処置が矢継ぎ早に行われる。

 「心拍消失!」

 「胸骨圧迫、続けて!」

 必死の蘇生が続くが、モニターの波形は戻らない。やがて主治医が静かに首を振り、時間を告げた。集中治療室に、重い沈黙が落ちる。

 「術後合併症だろうな……」

 医師の一人が小さくつぶやいた。誰も反論はしなかった。

 その中で、遥だけがベッドの横に立ち尽くしていた。

 彼女の視線は、まだ人工呼吸器の画面を離れない。そこに映るグラフは、今も規則正しく波を描いている。正常値の範囲内──少なくとも、誰が見てもそう見える。

 だが、遥の耳には残っていた。

 ほんの一拍、リズムを外したあの音。

 偶然なのか、それとも──。

 彼女は小さく息を呑んだ。

 そのずれが何を意味するのか、まだ説明はできない。けれど、これはただの事故ではない。そんな確信が、静かに胸の奥に芽生え始めていた。


第2節 孤独な観察者

 深夜の病院は、表向きは静かだ。けれど、その奥では絶えず機械が稼働し、誰かが記録を残し、見えない戦いが続いている。

 東都大学附属病院の地下にある「ME室」──医療機器管理室も、そんな場所のひとつだった。

 蛍光灯の下、佐倉遥は一人きりで人工呼吸器のデータを呼び出していた。

 モニターに並ぶ数字とグラフは、冷たく整然としている。呼吸の波形、酸素濃度、圧力、流量。専門家の目で見ればすべて問題なし。まるで「何も起こらなかった」と主張しているかのようだ。

 しかし、遥の目は止まらない。

 彼女は画面を拡大し、波形の細部に食い入った。そこに、ほんの数秒間だけ刻まれた乱れを見つける。呼吸のリズムが、ひと息ぶんだけ揺れていた。通常なら誤差の範囲として片付けられる程度の変化。それでも、彼女には確信があった。

 「これは偶然じゃない……」

 声に出すと、思考が冷静さを取り戻す。

 誰も気づかないような微細なずれ。だが、命を支える機械にとっては致命的な穴となり得る。

 遥はレポートをまとめ、ICUの責任医師に提出した。だが返ってきた言葉は淡々としていた。

 「佐倉さん、気にしすぎじゃないかな。術後合併症で説明できるだろう」

 さらに別の医師も肩をすくめる。

 「機械は壊れていないんだろ? なら問題ない」

 彼らにとって、機械はあくまで「道具」だった。患者の表情や血液検査の数値ほどには、重きを置かれない。

 「機械の声を聴く」ことに命をかける自分の仕事は、理解されないのかもしれない──。

 ME室に戻った遥は、椅子に腰掛けたまま深く息を吐いた。

 機器の警告音や波形に、人の生死が直結している。だからこそ、その小さな揺らぎに気づけるのは自分しかいない。

 けれど、その声に耳を傾けてもらえないのなら、真実は闇に沈んでしまう。

 孤独感が胸に広がる。

 それでも彼女は再びデータに視線を戻した。

 「誰かが仕掛けている」──そんな確信だけが、彼女を突き動かしていた。


第3節 冷たい医師、熱い直感

 翌朝、ICUは忙しさに包まれていた。夜間に一人の外科医を失ったにもかかわらず、時間は止まらない。次の患者の治療があり、次の手術が待っている。

 病院とは、そういう場所だった。

 佐倉遥は、再び人工呼吸器の点検に入っていた。パネルを指でなぞり、配管の接続を確認する。昨日のずれが気になって仕方がない。

 「君が例の技士さんか」

 不意に声がして、遥は顔を上げた。

 立っていたのは、白衣を着た背の高い男性。整った顔立ちに鋭い眼差しを宿し、名札には「循環器内科 速水健人」とあった。

 「……はい。佐倉です」

 「昨夜の件、君が機械の異常を言ってるそうだね」

 速水はカルテをめくりながら淡々と続けた。

 「でも、術後合併症で説明はつく。僕らは患者の全身を診てる。数字の細かい揺れに意味はない」

 その言葉に、遥の胸に小さな棘が刺さった。

 「意味があります。呼吸器は患者の代わりに呼吸をしているんです。リズムのずれは、命の綻びになる可能性があります」

 速水は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに肩をすくめた。

 「理屈は立派だ。でも患者は機械じゃない。僕ら医師は生身を見て判断する」

 「機械は嘘をつきません」

 思わず強い声が出た。

 その瞬間、速水の目が遥を捉える。氷のように冷たい視線──かと思えば、そこには奇妙な好奇心の色も混ざっていた。

 数秒の沈黙。

 やがて速水はふっと笑う。

 「なるほど。君は本気で機械の声を聴いているんだな」

 遥は顔を赤らめ、慌てて視線を外す。

 仕事では冷静沈着なのに、人から真正面に見つめられると途端に不器用になる。

 「……そういうことです」と小さく答え、再び機械のパネルに目を落とした。

 そのやりとりを横で見ていた看護師が、思わずくすりと笑う。

 「技士さんと先生、初対面なのに息ぴったりですね」

 遥と速水は同時に「そんなことありません!」と声を上げた。

 ICUの空気が少しだけ和らぐ。だが、遥の胸の奥にはまだ、消えない違和感が残っていた。


第4節 新たな兆候

 昼下がりのICUは、午前中の慌ただしさをひと息ついたかのように、少しだけ落ち着いていた。

 患者のモニターが並ぶ空間には、人工呼吸器の規則正しい音が重なり合い、まるで機械仕掛けのオーケストラのように響いていた。

 そのとき、ふいに一台の人工呼吸器が短くアラームを鳴らした。

 ピッ、と一瞬。ほんの数秒で止まったため、医師も看護師も気に留めなかった。

 「センサーの誤作動かな」

 誰かが軽く口にし、すぐに別の作業に戻っていく。

 だが、佐倉遥だけは画面に釘付けになった。

 換気量──患者の肺に送られた空気の量が、明らかに一拍分だけ落ち込んでいたのだ。わずか数%の変化。一般的には誤差として処理される範囲。しかし、彼女の目には「連続性のある異常」に見えた。

 「また……」

 小さな声が漏れる。

 すぐさま回路を確認し、接続や圧力の異常がないかをチェックする。どこも正常だった。

 つまり、この揺れは偶発的ではない。昨日と同じように、誰かが意図的に仕掛けた痕跡なのかもしれない。

 「何をしてるんだ?」

 背後から声がして振り向くと、速水健人が立っていた。カルテを抱え、こちらを怪訝そうに見ている。

 「さっき、呼吸器に一瞬異常が出ました」

 遥は即座に答える。

 「数値上は小さいですが、同じパターンが繰り返されています」

 健人は眉をひそめ、画面を覗き込んだ。

 「……俺にはただの揺らぎにしか見えないな」

 「でも、これは偶然じゃないと思います」

 遥は真剣な目で言った。その瞳は、普段の無口な技士のものではなく、命を守る現場で研ぎ澄まされた専門家のものだった。

 健人はしばらく黙り込んだ。

 昨日は真っ向から否定した。だが今日の彼女の眼差しを前に、軽口を叩く気にはなれなかった。

 「……仮に君の言う通りだとしたら、誰かが意図的に細工しているってことになる」

 「はい」

 遥は迷いなくうなずく。

 その瞬間、健人の胸にかすかな戦慄が走った。

 機械のわずかな揺らぎを、ここまで確信を持って語る人間がいるとは思っていなかった。

 「機械の声を、君は本当に聴いてるんだな」

 低くつぶやくように言った健人に、遥はきょとんとした顔を返す。

 「当たり前のことです」

 そのやり取りを聞いていた看護師が、またもや吹き出した。

 「先生、やっぱり息ぴったりですよ」

 健人は苦笑し、遥は真っ赤になって視線を逸らした。

 だがその瞬間、彼の中で何かが変わり始めていた。

 この技士の言葉は無視できない──そう思わせるだけの確信が、彼女の眼差しには宿っていた。


第5節 疑惑の影

 夜の病院は、人影が少なくなる分、機械の音がいっそう大きく響く。

 佐倉遥は再びME室に戻り、昼間の人工呼吸器のログを確認していた。波形と数値を時系列で並べ、異常が出た瞬間を拡大する。

 「……やっぱりある」

 わずか一拍分、換気量が落ち込んでいる。センサーの誤作動にしては規則的すぎる。偶然では説明できない。

 彼女は念のため、昨夜亡くなった外科医のデータにもアクセスした。だが──。

 「え?」

 画面を見つめた遥は目を疑った。

 確かに存在したはずのログの一部が、まるごと欠落していた。異常が起きた時間帯だけ、きれいに切り取られたように消えている。

 システム障害? バックアップエラー?

 いや、それにしては不自然すぎる。まるで誰かがわざと消したかのように。

 遥の背筋に冷たいものが走った。

 もしそうだとすれば、単なる機械の故障や偶発的な合併症ではない。誰かが、意図的に命を奪おうとしている──。

 カタリ、と背後で物音がした。

 振り向くと、誰もいない。ただ蛍光灯の明かりが機械の影を落としているだけだった。

 胸の鼓動が速くなる。ME室の空気が、急に冷たく感じられた。

 そのとき、不意にドアが開き、速水健人が姿を現した。

 「こんな時間まで残ってるのか」

 彼はカルテを片手に、少し驚いたように遥を見ている。

 「……データが、消されていました」

 遥は息を整えながら答えた。

 健人の目が鋭く光る。

 「消された? どういうことだ」

 「偶然のエラーではありません。意図的に……誰かが触れた痕跡です」

 短い沈黙が流れる。

 やがて健人は低くつぶやいた。

 「つまり──病院の中に、犯人がいるってことか」

 遥は黙ってうなずいた。

 ログの欠落という影は、確かに存在していた。

 やがて二人は、無言のまま画面を見つめる。

 そこには、まだ誰も知らない大きな陰謀の気配が漂っていた。


第2章 沈黙するデータ

第1節 消えたログ

 夜が明けても、佐倉遥の胸には重たい疑念が残っていた。

 亡くなった外科医の人工呼吸器データ──本来なら詳細に残っているはずの記録が、決定的な時間帯だけすっぽりと抜け落ちていたのだ。

 朝の光が差し込むME室で、彼女は再びモニターに向かっていた。

 「ログ」という名の電子の足跡。どんな異常があっても必ず残るはずの記録が、まるで消しゴムでなぞったかのように消えている。

 「そんな偶然、ありえない……」

 遥は小さくつぶやく。

 そのとき、背後から足音がした。

 「またデータと格闘してるのか」

 速水健人だった。カルテを抱え、眠気を隠すように額を指でこすっている。

 「先生。やっぱり、消されています。あの外科医が亡くなった直前の記録だけ、きれいに」

 遥の声には焦りが混じっていた。

 速水は画面を覗き込み、眉を寄せた。

 「システムエラーって可能性は?」

 「不具合なら、もっとランダムに抜けます。こんなふうに狙ったように消えることはありません」

 速水はしばし黙り込む。医師として何千ものカルテを見てきたが、電子機器の裏側のこととなると彼も専門外だ。

 「……でも、証拠になるのか? 消えたってだけじゃ、誰も信じない」

 遥の胸に悔しさが込み上げる。

 「命の痕跡なんです。数字に過ぎないかもしれない。でも、この消えた部分に、真実が隠れている」

 速水は彼女を見つめた。昨夜、機械のリズムのずれを訴えたときと同じ眼差し。冷たさよりも、今は迷いの色が強い。

 「……わかった。じゃあ一度、情報システムの部署に確認してみよう。俺からも伝える」

 「ありがとうございます」

 遥は深く頭を下げた。ほんの少しだけ、孤独が薄らいだ気がした。

 だが、その後すぐにシステム担当から返ってきた答えは無情だった。

 「一時的な不具合です。記録が消えることは珍しくありません」

 電話越しに聞いた説明は、明らかに定型文。

 遥は受話器を握り締めたまま、唇を噛んだ。

 ──不具合じゃない。誰かが、この病院のどこかで、意図的にデータを消したんだ。

 その確信だけが、彼女を支えていた。


第2節 壁となる医局

 昼下がり、循環器内科の医局には独特の緊張感が漂っていた。長机の上にはカルテと書類が山のように積まれ、コーヒーの香りと消毒液の匂いが混じり合っている。壁際では若手医師がパソコンを叩き、奥ではベテラン医師たちが低い声で議論していた。

 その空気の中に、佐倉遥は場違いな存在のように立っていた。

 手に握るのは、消えたログの報告書。何度も推敲した結果、専門用語を可能な限りかみ砕き、誰にでもわかるようにまとめたつもりだった。

 「──というわけで、人工呼吸器の記録が一部消去されていました。自然な不具合では説明できません」

 声が少し震える。だが、遥の瞳は真剣だった。

 沈黙。

 やがて、ベテラン医師の一人が鼻で笑った。

 「そんなこと言い出したらきりがない。機械なんて誤作動だらけだ。患者の病態を診るのが医師の仕事であって、数値の揺れに振り回される必要はない」

 別の医師も続ける。

 「佐倉さん、君は臨床工学技士だろう? 僕ら医師の判断にまで口を出すのは越権じゃないかな」

 冷ややかな視線が突き刺さる。

 遥は言い返したかったが、喉がつまったように声が出なかった。報告書を握る指先に汗がにじむ。

 「……ですが、これは命に関わる問題です。小さな揺らぎが大きな事故につながる可能性が──」

 「もういい」

 短く遮ったのは、科長だった。

 「臨床に支障は出ていない。外科医の死も術後合併症で説明できる。これ以上、不安を煽るような話は控えてくれ」

 会議室の空気は、それ以上の議論を許さなかった。

 遥は報告書を胸に抱え、深く頭を下げて退室する。背中に残るのは、失笑混じりの視線。

 廊下に出た途端、肩が重く沈んだ。

 ──やっぱり、誰も聞いてくれない。

 機械の声を代弁するのが自分の役目なのに、その声は簡単に押し潰されてしまう。

 それでも、遥の胸にはかすかな炎が残っていた。

 あのログの欠落は、偶然ではない。必ず誰かが仕掛けたものだ。

 孤独を噛みしめながらも、彼女は諦めるつもりはなかった。


第3節 予期せぬ共闘

 医局を出た佐倉遥は、長い廊下を一人歩いていた。足音が虚しく響く。報告書は握り締めすぎて端がしわくちゃになっていた。

 誰も信じてくれない。あれほど明らかな異常を示しても、「気にしすぎ」で片付けられる。胸の奥に溜まった悔しさは、言葉にならず喉に刺さったままだった。

 「──君の言葉、俺の頭から離れなかった」

 背後からかけられた声に、遥は振り返った。

 そこに立っていたのは速水健人だった。

 「先生……?」

 「会議じゃ強く言えなかった。でも正直に言うと、君が言っていた揺らぎが気になって仕方ない」

 速水の表情は真剣だった。いつもの自信に満ちた態度ではなく、わずかな迷いを含んだ医師の顔。

 「これを見てくれ」

 差し出されたタブレットには、亡くなった外科医の血液検査データが表示されていた。

 「心停止直前の数値だ。普通なら酸素飽和度が急激に下がっているはずなのに、そこまでの変化がない」

 遥は画面を凝視する。

 「……つまり、呼吸器は正常を示していた。でも体は確かに壊れていた」

 「そうだ。どこかに矛盾がある」

 二人は並んでデータを見つめた。

 遥は機械の視点から、速水は患者の生理学的な視点から。

 違う角度から同じ一点を見つめることで、初めて輪郭が浮かび上がっていく感覚があった。

 「君の言う通りかもしれない。誰かが仕掛けたんだ」

 速水の低い声に、遥の心臓が跳ねた。

 医局で孤立した直後だったからこそ、その一言が胸に沁みた。

 「……ありがとうございます」

 遥は小さな声で答えた。

 「礼はいらない。俺も気になってるだけだ」

 そう言いながらも、速水の目はどこか柔らかかった。

 彼は患者の心理や全身状態を重視する。彼女は機械の波形や数値に耳を澄ます。正反対のようでいて、補い合う存在なのかもしれない。

 ふと、二人の距離が少しだけ縮まった気がした。

 それに気づいた遥は慌てて視線を逸らし、速水は咳払いをしてタブレットを閉じた。

 「とにかく、次に何か起きたら徹底的に調べよう」

 「はい」

 短いやり取りの中に、不思議な連帯感が生まれていた。


第4節 新たな犠牲の兆し

 夜のICUは、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。

 モニターの光が淡い青白さを放ち、規則正しいアラーム音が命のリズムを刻む。看護師たちの動きも落ち着いていて、まるで一瞬だけ嵐の前の静けさを迎えているようだった。

 そのとき、不意に一台のベッドから短いアラームが鳴った。

 患者は高齢の男性、心疾患のためにペースメーカを植え込まれている。表示画面には、一瞬だけ不整脈の波形が現れたが、すぐに回復した。

 「センサーのノイズかな」

 看護師はそう言って流そうとした。だが、佐倉遥の目は鋭く画面を追っていた。

 「……違う。これは、設定そのものが変わってる」

 ペースメーカのログを呼び出すと、心拍を制御するプログラムが一瞬だけ書き換えられた痕跡があった。

 本来なら一定のリズムで心臓を支えるはずなのに、あえて不整脈を誘発するような数値に変更されていたのだ。

 「馬鹿な……こんなの、誰が……」

 遥のつぶやきに、背後から低い声が重なった。

 「君の言う通りだ。自然な揺らぎじゃない」

 振り向くと、速水健人が立っていた。

 彼も患者の顔色や血圧を確認し、ただの一過性の発作ではないと確信していた。

 「患者の状態と、機械のログ。両方が同じことを示してる」

 速水の言葉に、遥は息を呑む。

 ──初めて、医師と技士の視点が一致した瞬間だった。

 「次の犠牲者が出る前に、必ず止めなければ」

 速水の声には、もはや迷いがなかった。

 遥もうなずく。胸の奥で、不安と同時に奇妙な高揚感が広がる。

 ICUの蛍光灯の下、二人の影が並んだ。

 それはまだ頼りなく小さな絆にすぎなかったが、やがて大きな真実を暴く力へと変わっていくことになる。


第3章 病院に潜む影

第1節 密室の囁き

 夜のME室は、まるで病院の深呼吸を聞いているかのように静まり返っていた。

 蛍光灯の白い光の下で、佐倉遥は人工呼吸器とペースメーカのログデータを並べていた。画面には、呼吸のリズムや心拍の波形が淡々と記録されている。そこから異常を見つけ出す作業は、誰からも見えない孤独な戦いだった。

 「また残業か。君は機械と暮らしてるのか?」

 ドアの音とともに現れたのは、速水健人だった。白衣のポケットにはカルテが詰め込まれ、疲れを隠しもしない顔をしている。

 「先生こそ。もう日付が変わります」

 遥は画面から目を離さずに返した。

 速水は椅子を引き、彼女の隣に腰を下ろした。無造作にタブレットを机に置くと、そこにはまた別の患者の心電図データが表示されていた。

 「見ろ。これも一瞬だけ不整脈が出てる。だが患者には何の自覚症状もなかった」

 「……プログラムが書き換えられた痕跡がある」

 遥の指が画面の一部を指し示す。細い線が不自然に跳ね上がり、すぐに平静に戻っている。ほんの一瞬の乱れ。けれど、命にとっては十分すぎる脅威だった。

 速水は腕を組み、低い声でつぶやいた。

 「ここまでくると、偶然じゃないな」

 「はい。内部から操作できる人間がいるはずです」

 その言葉に、二人の間に重い沈黙が落ちた。

 病院の外部からではありえない。機器に直接触れられる立場──医師、看護師、そして技士。

 つまり、犯人はこの病院の仲間の中にいる。

 「……考えたくもないが、そういうことか」

 速水は額を押さえた。

 遥も喉の奥に苦いものを感じていた。

 命を守るはずの場所で、命を奪うための細工が行われている。その現実が、背筋を冷たくさせた。

 やがて速水が顔を上げ、まっすぐに遥を見た。

 「俺たちだけで調べるしかないな」

 その瞳には、もはや昨夜までの迷いはなかった。

 遥はわずかに驚いたが、静かにうなずいた。

 「はい。次の犠牲者を出さないために」

 白い光に照らされた密室で、二人の決意は静かに交わされた。

 誰にも聞こえない囁きのように──しかし、それは確かに未来を変える第一歩だった。


第2節 疑惑と火花

 翌朝、佐倉遥は看護師長に呼び出された。

 ICUの奥、スタッフルームの扉が閉まると同時に、低く押し殺した声が響く。

 「佐倉さん。患者や家族の前で、余計なことは言わないでちょうだい」

 「余計なこと……?」

 「呼吸器がどうとか、ペースメーカが書き換えられただとか。そんな話を聞いたら、不安が膨らむばかりよ」

 遥は唇を噛んだ。

 「でも、事実です。小さな異常が繰り返されています」

 「あなたの気づきは立派よ。でもね、現場は混乱を嫌うの。患者に安心を与えるのが最優先。わかるでしょう?」

 説得というよりは、釘を刺すような響きだった。

 結局、遥は何も言い返せないまま部屋を出た。背中に残るのは「これ以上目立つな」という暗黙の圧力だった。

 廊下に出ると、速水健人が待っていた。白衣の胸ポケットに丸めたメモを突っ込んで、苛立ちを隠そうともしない顔をしている。

 「お前も呼ばれたのか」

 「え?」

 「俺も教授にこれ以上騒ぐなって言われた。余計な詮索はするな、だとさ」

 速水は自嘲気味に笑った。

 「患者を守るために調べてるのに、組織は逆に止めにかかる。まったく馬鹿げてる」

 遥は思わず苦笑を返す。

 「同じこと言われました。不安を煽るなって」

 「ははっ、奇遇だな」

 二人の肩に、同じ重さの苛立ちがのしかかっていた。

 ふと速水が、カルテを机に叩きつけるように置きながら言った。

 「こうなったら愚痴でも言い合うか? 少しは気が楽になる」

 「……先生って、意外とそういう人なんですね」

 「意外とは失礼だな」

 遥の口元に、小さな笑みが浮かんだ。

 普段は理屈ばかりで不器用な自分が、医師と同じ気持ちを抱えている──その共通点に、ほんの少し救われる気がした。

 「じゃあ、一つ言わせてもらいます」

 遥は腕を組んで言った。

 「先生、説明が雑すぎます。患者の前でだいたい大丈夫って言うの、やめたほうがいいです」

 「なっ……! お前こそ専門用語ばかりで誰も理解できない説明するだろ!」

 思わず言い合いになり、廊下の看護師たちがクスクスと笑う。

 だがその火花は、ただの衝突ではなかった。

 互いに本音をぶつけ合える仲間として、一歩近づいた証でもあった。


第3節 小さな手がかり

 夕方、透析室の一角にある廃棄予定の器材置き場。

 ビニール袋にまとめられた使用済みの回路やチューブが山のように積まれている。その中に、佐倉遥は目を凝らしていた。

 「何を探してるんだ、君は」

 背後から呆れた声がした。速水健人だ。カルテを抱えたまま、まるで散歩ついでに覗いたような顔をしている。

 「昨日の人工呼吸器のチューブです。交換済みになってましたが、処理がまだだったので」

 「使い古しのチューブを? 何のために」

 「見てください」

 遥は一本のチューブを取り出し、ライトにかざした。

 透明なはずの素材に、ほんのわずかな変色が見える。しかも一部が歪んで波打っていた。

 「……熱処理の痕跡?」

 速水が眉を上げる。

 「はい。滅菌装置に通常以上の温度をかけられています。本来なら耐えられるはずですが、同じ場所に繰り返し負荷をかければ劣化します」

 遥の声は冷静だった。

 「つまり、患者につないだときに破断や空気漏れを起こす可能性が高くなる」

 速水は思わず顔をしかめる。

 「事故に見せかけて、わざと壊れるように仕組んだってことか」

 「はい。自然劣化に見せかける巧妙な細工です」

 遥はチューブを指先で押しながら、小さく息を吐いた。

 「誰かが手を加えた証拠が、ここにあります」

 静かな廃棄置き場に、二人の声だけが響く。

 速水はしばらくチューブを見つめ、やがて低く言った。

 「……ここまで来ると、もう偶然じゃ片付けられないな」

 遥はうなずいた。

 「問題は、この細工をできる立場にいるのが誰か、です」

 二人の視線が重なる。

 そこにあったのは、恐れと同時に、真実へ近づく手応えだった。


第4節 浮かび上がる名前

 夜遅くの医局。蛍光灯の光に照らされた机の上で、速水健人はカルテの束を広げていた。

 数日分の患者記録を時系列に並べ、手術や処置に関わったスタッフの名前に赤線を引いていく。

 「何をしてるんですか」

 ドアを開けて入ってきた佐倉遥が、驚いた顔で声をかけた。

 「統計ごっこですか?」

 「ごっこと言うな」

 速水は苦笑しながらも、真剣な目をしていた。

 「この数日間、呼吸器やペースメーカに異常が出た患者の記録を洗ってた。すると、ある共通点が見えてきたんだ」

 赤線が集中している名前がひとつあった。

 「……この人」

 遥は小さな声で読み上げた。

 それは、とある中堅外科医の名だった。

 呼吸器の装着に立ち会い、ペースメーカの調整にも関わり、さらに消毒や器材交換にも頻繁に顔を出している。偶然と言い張るには、あまりに不自然な一致だった。

 「この医師が犯人だと断定はできない。けど──」

 速水は声を落とす。

 「患者が命を落としたケース、異常が出たケース、そのほとんどに関与している」

 遥は心臓が早鐘を打つのを感じた。

 犯人の影は、とうとう人の形を取り始めている。

 だが同時に、胸の奥に強い迷いが広がった。

 「……もし本当にそうなら、病院はどうなるんでしょう」

 声が震える。

 命を救うはずの医師が、患者を危険にさらしているかもしれない。そんな真実を明るみに出したら、病院の信頼は一気に崩れ落ちる。

 速水は深く息を吐いた。

 「それでも、放っておくわけにはいかない」

 二人は互いに目を合わせた。

 その瞳には、恐れと決意が同居していた。

 やがて速水が言った。

 「次の犠牲者が出る前に、証拠を掴む」

 「……はい」

 遥もうなずいた。

 深夜の医局に、二人の声が低く響く。

 その瞬間、ただの疑惑が現実の敵へと姿を変えた。


ここまでお読みいただきありがとうございました!

第3章までで、佐倉遥と速水健人、それぞれの立場や性格が少しずつ見えてきたかと思います。

次章以降は、医療機器をめぐる事件がさらに深まり、二人の関係も急速に変化していきます。

推理、緊張感、そしてちょっとした笑いと恋愛の要素を織り交ぜながら描いていきますので、どうぞ引き続きお楽しみください。

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