新たな日々
まだ薄暗い日の出前にハンスは目を覚ました。
ベッドから起き出し、軽く着替えを済ませたハンスは外の共同井戸で顔を洗い、持ってきた桶で水を汲む。
ここ最近、気温も急激に下がり手を水につけると一段と冷たく感じる。
澄んだ空気に朝の6時を知らせる教会の鐘が鳴り響く。
ハンスは家に戻ると朝食の準備を始めた。
いつもは軽く、パンとチーズ、ハムなどで済ませるが、今日は客がいる。
軽くサンドイッチでも作ろうと卵とベーコンを焼き、軽く胡椒を振りかける。
後はチーズと一緒に薄切りのパンに挟んで完成だ。
焼けた具材を皿上のパンにのせた時だった。
ちょうどその客である少女が部屋から出てきた。
「おはよう~...ごめんね、疲れて寝すぎた。何か手つだ...う?」
かずさはまだ少し寝ぼけた様子で立ったまま扉の前でぼーっとしている。
ハンスはキッチンで作業をしていたが、出来たサンドイッチをテーブルに置こうと振り返った瞬間、思わず目を剥いた。
ドアの前には既にいないはずの姿があった。
懐かしく、愛しい、小さなその姿がーー。
ハンスの時が止まる。
急に動きを止めたハンスにかずさは心配そうに尋ねる。
「君、大丈夫?」
その声に、我に帰ったハンスは動揺した様子で答える。
「あ...すまない、何でもない。そこの席について。よかったら食べて」
何もなかったかのようにハンスはテーブルに出来立てのサンドイッチを置く。
ハンスの様子を不思議に思ったかずさだったが、目の前の出来立てごはんを前にその違和感はすぐにかき消された。
「わー!すごく美味しそう!」
かずさは貴重な温かいご飯に目を輝かせた。
その様子にハンスも少しだけ顔をほころばせる。
二人は席に着き静かに朝食をとった。
食堂の仕事は仕込みもあるため、だいたい朝の9時から始まり、夜の10時まである。店としては11時開店、午後2時から5時まで店を閉め、また夜営業が6時から9時まである。片付けまで含めると早くて10時に帰り着くといった感じだ。
ちなみに、店やハンスの家には時計がないので店前の教会の時計や鐘で時間を知ることができる。あとは講義を終えた学生達の動きからもある程度知る事ができる。
かずさも今日から食堂にハンスと一緒に向かうのだがーー。
昨日の帰りは日没後でかずさの服装は藍色を基調にした恰好も相まってあまり目立たなかった。
しかし今、晴天の空の下、元気に歩く東方の旅人は道行く人たちの注目を集めていた。
この地域の顔立ちでないこともそうだが、恰好が明らかに浮いている。
家を出てすぐにハンスは自分の服にでも着替えさせればよかったと後悔した。
橋まで来ると他国の行商人も行き交うため、目立たなくなったが橋までの道中、心は休まらなかった。
街に入る門の前で顔なじみの門番が声をかけてきた。
「おはよう、ハンス!お?おいおいどうした!異国の別嬪さん連れてるじゃないか!」
「揶揄わないでくれ...こっちは悪目立ちして参っているんだ...」
すでに疲れた様子のハンスは弱々しく答える。本来目立つことはしたくない性分だ。
「ハハハ、ここいらじゃ見ない格好だもんな!」
門番は豪快にハンスの愚痴を笑い飛ばす。
黒いカイゼルひげを持ち、高身長のこの男はまさに門番といった恰好をしている。
ライオンが描かれた街の腕章入りのつば付き帽に紺色を基調とした軍服、右手には槍を持っている。
門番はかずさに人当たりの良い笑顔を向けた。
「はじめまして、お嬢さん。私は門番のロレンス。よろしくな」
「初めまして、ロレンスさん。私はかずさ。東から来た旅人です。こちらこそよろしくお願いします」
ロレンスの陽気な声掛けに明るく返事をし、丁寧に頭を下げるかずさに口ひげをなでながら彼は笑う。
「ハハハ、これは礼儀正しいお嬢さんだ」
「ありがとうございます。あの、私これからハンスが働く食堂で少しの間だけ働きます。よければいらしてください!」
「それは面白い!ぜひ伺おう」
ハンスは楽し気に話す二人を見て、このかずさという少女がどういう人間なのか少しわかった気がした。 初対面で店の勧誘を掛けるこの少女はかなり社交的であり、打ち解けるのがすこぶる早い。
「今日はハンスが朝ごはん作ってくれたんですけどーー、」
「行くぞっ」
「え?!う、首…」
まだ話を続けようとするかずさの首袖を強引に引っ張って街の中心地、食堂がある場所へと向かう。
引っ張られながら笑顔で後ろに手を振る娘にハンスは、
――この女、ほっとくといつまでも話し続ける...。
油断ならないと警戒度を一つ上げた。
食堂に入ると店主のレッカーとその妻エレナが待っていた。
「おはようさん」
「来たわね二人とも」
「「おはようございます」」
二人は挨拶をして中に入る。
ハンスは荷物を奥の部屋に置いてから早速レッカーと仕込みの作業に入る。
かずさはエレナと一緒にハンスが出てきた部屋に入っていく。
「さて、かずさ。アンタにはほんの数日働いてもらいたいんだけど大丈夫?」
「はい、数日だけなら大丈夫です。それで食べた分のお返しができるのなら」
律儀に答えるかずさに苦笑するエレナ。
「気にしないでもらっていいんだけど、手伝ってもらえるのはありがたいわ。で、あなたにはこれを着てウェイトレスをしてもらうわ」
それは街ゆく女性たちが来ている、ふわりとしたスカートが特徴的な女性らしいフォルムの伝統衣装だった。