50話 救われぬ騎士の救済
「ヨウ、ム?」
陽光の下、確かにアギナルドだったものは彼がよく知る者へと変化する。いや変化というよりも変化が解けると言った方が正確だろう。
しかしそのヨウムの様子はとてもじゃないが、無事と形容することは不可能だ。腹が抉れ血に染まり、その眼は濁りっており、ただ茫然と眼前の敵を見据えていた。
けれど、そんな悲惨な現実を受け入れたくなった騎士がいた。ただ眼の前に恩師が現れたことがただただ嬉しくて、ほんの一瞬警戒を怠ってしまった。王子がいた。
「よかった、生きて、」
そう言い、剣を降ろし、ヨウムに駆け寄ろうとしたカウレスに現実が刃を突き立てる。もし彼が龍核解放を使っていなかったら、その凶刃はまっすぐカウレスの胸に吸い込まれ彼の命を奪っていただろう。ほんの一瞬身に纏う魔力が刃を押し留めたおかげでカウレスは命拾いをして、現実を、どうしようもないこの現実をようやく、理解し始めた。
「うそ、だ」
2撃、3撃とカウレス目掛けて振るわれる刃を拙い足取りで彼は避けていく。ヨウムに剣を向けられたことなど何度も彼にはあるだろう。今までは厳しさこそその剣に乗ってはいたものの、そこに殺意など乗ってはなかった。けれど今、ヨウムの剣には明確にカウレスを殺そうとする意志が乗っていた。
「くっ!」
カウレスはやっとの思いで手に持つ剣を振り上げる。アギナルドの黒糸は忠実にヨウムの剣筋を再現しており、その緻密な戦い方の一手一手は、師と戦う覚悟をもてていないカウレスを追い込んでいく。
「どうして!?」
その問いに対する答えは明白だ。どれだけ言葉を飾ろうとも、ヨウムはモースウィッグでアギナルドに敗北し、その身を操られていることはどうしようもない事実だ。
だが、ただの実力だけで見れば、カウレスはとうにヨウムの実力を超えている。勝機などいくらでも、現にもう体制を立て直し、反撃に転じていた。
この国の王子として、リヴィングスに仇なす敵を見逃すわけにはいかない。そしてここにいないアギナルドのことも放っておくわけにもいかない。
ダースニックならこの恥辱に塗れた老騎士を一刀のもと火葬するだろう。天羽であってもその死を悼みその呪縛から解き放っていただろう。
ならカウレスは?その死に怒り嘆き、もしかしたらと一縷の希望に縋りたいと思ってしまった彼は?その答えは彼の剣に現れてしまった。
焔を纏うカウレスの剣が傀儡となったヨウムの胸を穿とうとする。その陽光が如き速度の剣をヨウムを操るアギナルドは反応できない。いや、反応しなかった。何故ならばそれはヨウムの身体機能を停止させるに足る一撃だったから。一種の信頼、その一撃は届かないという確証の無い確信がヨウムの体を無防備なまま反撃に転じさせる。
「…………できない。できるわけがないだろ!」
その魂からの叫びを聞くものは果たしていたのだろうか。焔の剣はヨウムに届くことなく、その少し手前で止まってしまう。無防備な隙、その隙をすでに反撃へと転じていたヨウムの蹴りがカウレスを後方へと吹き飛ばす。いくら龍血脈動を使った王族といえど、完全な隙を突かれ、全力の一撃が入ればただでは済まない。
胸に入った回し蹴りはカウレスの魔力層を突き破り、その衝撃を内側へと伝え肋骨をへし折った。
外側はともかく内側は自己修復能力が高くとも復元するのに時間がかかる。折れた肋骨が肺へと刺さり、気管に血が混じる。
「ごふっ!」
この戦いで初めてカウレスが傷を負う。龍であれ、アギナルドであれ、その体に傷を与えることが出来なかったカウレスにヨウムは傷をつけた。
常人であれ、例えアギナルドに操られた誰かであれ、龍血脈動を使ったカウレスに傷をつけることは不可能に近い。
それほどまでにカウレスとその他大勢では生きている土台が違う。ならば、そのカウレスに付け入る隙を見出せる人など彼の師以外いないだろう。その悲しみと怒りと、そして不甲斐なさが込められた一撃の意味をカウレスは理解することはなかった。
その届くことはない師の一撃によって、吹き飛ばされたカウレスにさらにヨウムは追撃を仕掛ける。それをカウレスはただ棒立ちのまま防ぎ続ける。
まだ体は動く、魔力も充分、けれどその精神が、その燃えカスのような心が戦うことを諦めていた。
乾いた音だけが響く。剣と剣とが交わり、ただただ時間が浪費される。彼が足を止めることは、その分だけ死体の山が築かれるということだ。それをきっと彼も分かっている。わかっていてなお、ヨウムを殺すことも、放っておくことも選択することなど出来なかった。
もういっそ背負う全てを投げうってこの凶刃に身を任せるのもいいかもしれない。終わりを迎えることは、死を甘受することはきっと一種の逃げなのかもしれないけれど、それでもあんなにも生きてほしかった人に剣を向けられるよりかは楽なのかもしれない。
戦意など抱けるはずもない。それがたとえヨウムの肉体の成れの果てだとしても、その尊厳を踏みにじられていたとしても、刃をむけることなんてできるわけがない。
剣を戦う術を手から離してしまう。今ならお前の絶望も少しは理解できるのかもしれない。師に、いや、父と呼べる存在に殺されそうになることがどれだけ辛かったか。
その手がどれだけ血に汚れていようが、抱き締めてもらえると思っていたその両手に剣が握られるのはこれほどまでに苦しいことなのか。
ああだがやはりお前は最後まで自分が信じたいと思った父を信じるべきだったんだ。その手で父を殺めることは、きっと殺されることよりも辛いことなのだから。
凶刃が俺の胸へと向けられる。龍眼がその一瞬を永遠へと彩る。俺の死はさらに多くの死を作るだろう。だけど、だけど、俺はあなたを殺せない。救ってあげることもできない。そんな俺に王子たる資格はないんだ。
ヨウムの剣がカウレスの胸に突き立てられる刹那、その剣はその手から零れる。奏者の意に反したその行動は、カウレスの命を終わらせるはずだった一撃を拒み、突き出された右腕はまっすぐカウレスの胸を殴り飛ばした。
無防備だったとはいえ、本来は剣を突き刺すはずだった拳は充分に振りぬかれず、カウレスに致命傷を与えることはなかった。とはいえ追加で数本肋骨が折れたカウレスは後ずさり胸を抑える。
「なん、で」
その問いに答えが返ってくることはなかった。当たり前だ。ここにいるのは生者たるカウレスと傀儡たる死体だけなのだから。されど、その問いへの答えは返ってこずとも、別の答えは返ってきた。
「構え、なさい」
死体の喉が振るえ音が発せられる。その音の意味をカウレスは理解できる。もう何度となく聞いた声、何度も聞きたいと思っていたもう聞けない声。
もし魂なんて呼べるものがあるのなら、それは何に宿るのだろう。心臓は奪われ、臓腑は喰われ、その尊厳までも踏みにじられてなお、その体に魂があるのなら。
「ヨウ、ム?ヨウムなのか」
その問いはその体に向けられたものではなくその意思に向けられたもの。その体を主の名をカウレスは問う。
「………………」
返事はない。眼の前にあるのはただの死体だ。そんなものが返ってくるはずもない。それでも、あの声は聴き間違いなんかじゃない。はっきりとその耳に届きその心に火を灯した。
剣を拾い構える。幾度となく戦ってきた。子供のころからの目標だった。超えることはできないと、届くことはないとそう思っていた時期もあった。けれど生まれというのは時に呪いみたいなもので、俺の実力は数十年もせずヨウムと並び、そして追い抜いた。
それをわがことのように嬉しそうにしていた顔を、今でも思い出すことが出来る。俺は少し気まずくてそう簡単には喜べなかったが、だんだんと受け入れることが出来た。
そんな純粋に弟子の成長を喜ぶような人に、今は反逆者とはいえかつては子のように接していた者を殺すことを悩んでしまうような人に、またそんなことをさせるわけにはいかない。
馬鹿だな、自分のことばかり考えて。俺はヨウムに人殺しを強要したのか?ああそうなんだろうな。そんなことあの人が望むはずなんてないのに。
もう救われる道は残っていない。それでもなお、ヨウムを救おうというのなら。
「もうやめたよ、何も選ばないなんて。だから終わりにしよう」
その言葉に返ってくる言葉はない。ただ、ヨウムはその剣を構える。もう言葉はいらないだろう。ヨウムの意思は正しくカウレスに伝わった。
その言葉がどれだけ短かろうと、その意思の、魂の所在がその体にあるのなら、あの一言でカウレスはもう迷うことなくその剣を振るうことが出来る。
紅蓮が爆ぜる。白波が沸き立つ。片腕になったアギナルドでは決してその動きはできないであろうヨウムの動きは、千年を生きる騎士の今までの記録をすべて引き出し、目の前の弟子に捧げる。ヨウムが最後にアギナルドにしてあげられることが引導を渡すことならば、カウレスにしてあげられることは最後の稽古。
全盛とは言えない。けれどその身が戦える最後の機会。魂までも削り、その出力を上げていく。魔術も龍核解放も封じられてはいるが、それでもヨウムはカウレスに喰らい付く。
「ぐっ!」
押されるはずもない。もう彼に迷いはないはずだから。それでもカウレスは剣をヨウムに届かせず、ヨウムの剣はカウレスに届く。まだ迷っているのか?いやきっとそうではない。ヨウムの最後を、その全霊の稽古を眼に刻んでいる。ヨウムが生きた証を一片たりとも零さないように。
時間は、双方の敵となった。もうヨウムの体は朽ち果てるだろう。カウレスが1秒でも早く決着をつけなければ、他の命が失われるだろう。けれど、この一瞬だけはカウレスには他の何よりも掛け替えのない代物だった。
「もう、終わりだな」
ヨウムの足取りが重くなる。2人の時間は終わりを告げる。しかしこれは稽古だ。ただ朽ち果てることで勝敗が決まるなどあってはいけない。
紅蓮の刃が掲げられる。その切っ先は正しくヨウムに向けられ、この戦いに終止符を打つ。
「勝負…………ありだ」
剣がヨウムに振り下ろされる。それを防ぐ術をもうヨウムは失っていた。深く傷が刻まれる。龍を討つ剣が師の体を斬る。だれも望まなかったその一瞬は、ただ1人だけが望んでいた。きっとこれから先カウレスは悩むだろう。それでも、あなたはこの国の王子だと、そう胸を張れるように。辛いことも苦しいことも乗り越えられるようにと。
「あ、ああ、ああああ!」
カウレスがヨウムの体を地面に倒れる前にその両腕で支える。その顔はぐしゃぐしゃで瞳には涙が浮かび、とてもじゃないが騎士にも王子にも見えなかった。でもきっとそれでいいのだろう。
「その優しさはきっと、強さの証ですよ」
黒糸の呪縛から解放されたヨウムは優しくカウレスにそう告げる。彼が喋ったことにカウレスの顔はもっと歪む。もしかしたら助かる方法があったのかもしれないと、そんなことを思ったのだろう。ヨウムもそれを察してか、首を横に振る。
「私の死にあなたには関係ない。ですから、そう泣かないで」
子を慰めるようにヨウムはその手を伸ばしカウレスの頭を撫でようとする。けれどその手が上がることはない。皮肉にも彼の魂を機能させていたのは黒糸、それがなくなった今、ヨウムの体はもう動かない。かろうじて口が動くのも奇跡に近かった。
「俺はあなたに、生きてほしかった!」
「ええ、できればもっと生きたかった。ですがカウレス、私はあなたの師として終われたことに満足しているのですよ」
ただの傀儡としてではなく、カウレスの師として。それはきっと彼にとって望外の喜びなのだろう。
「ですが1つだけ、望みを託してもいいですか」
「そんなのいくらでも聞くに決まってるだろ!」
「1つ、でいいのですよ。アギナルドをあの子を止めて下さい。きっと彼は私の死でも止まらない。だから」
その先を口にすることは叶わない。その魂は機能を停止した。もう喋ることも叶わない。弟子を見る事も叶わない。それでも最後に残る感覚はその言葉をヨウムに届けた。
「ああ、ああ!必ず止める。止めてみせる。だから!」
死なないでくれ、そう言葉を紡ぐことはできなかった。彼の師はその生を終わらせていた。弟子の腕の中で満足そうな顔を浮かべながら、こと切れていた。
ただ嗚咽のみがその空間に響く。けれど、それもすぐに収まった。立ち止まる暇はない。だって彼は後を託されたから。
剣を握る。彼の剣は自身の鞘に、その手に握るのは師の剣、龍剣イル・ハン。主無きその龍剣は淡く輝く。
「行こう、あいつは俺が止める」
静かにされど身に余る炎を滾らせでカウレスはテノティトを駆ける。




