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飊鏜翠李(ひょうとうすいり)の事情

EP.2 彼女の事情


 人が生きている間の一番の「しがらみ」とは何だ。


人間関係?出身や性別?それともお金?それらを引っくるめても最も縛られているのは()()()()()()()飊鏜翠李はつくづくそう思う。

 誕生した日を、年を重ねる日として意識し、お祝いしてもらうことに疑問を持たない人は多いと思うけれど、この世に産まれ出てきた日に吸い込んだ最初の「気」が実は一番大事で、その運命は一生付きまとう。 それを知っているかどうかで、その人の運命の「乗りこなし方」はガラリと変わっていく。気を活かして良い運命に乗るか否かは、その人がどう生きるかに関わってくるのだ。


「誕生日、おめでとう」

優雅なティータイム、本日の吉方位のカフェでスコーンとともに翠李が紅茶をいただいていると、隣の席から祝いの言葉が流れてきた。

 ちらり、と確認すると男女二人の組み合わせで、どうや女性のほうの「おめでたい日」らしい。男性がさきほどから丸見えだった花束を差し出している。その時ちょうど注文したコーヒーとケーキが到着し、気まずい瞬間に割って入る形になった店員が、手を止めて女性が受け取るのを待った。

 女性の方は店員を気遣ってさっと花束を受け取ると「ごめんなさい、どうぞ置いてください」とお辞儀している。鎖骨に沿うようにしてつけられたペンダントと揃えるように、小粒のダイヤが耳元に光っていた。滑らかなベージュのブラウスに合わせた薄いピンクのパンツが締まった美しい足首を際立たせている。昼下がりのカフェに映える、ちょうどよい上品さを心得ている着こなしだ。

 ただ、会話の中身はそれに釣り合っていないけれど。何とも言えない沈黙の後、男性が間を埋めるように「美味しそうだね。さ、食べよう」と明るい声を出した。けれどケースから取り出したフォークは勢い余って指をすり抜け、無情にもテーブルを滑って床に落ちていく。

「あぁっ」

 あーあ、見ていられない。目を逸らした翠李はふたたび目の前のスコーンと紅茶に意識を集中させようとした。

 のだが。

 店員が急いで新しいフォークを届け、平和なティータイムが再開されようとしたところで、男が辛抱たまらんという体で口早に花束の続きを始めたのだ。

「えっと…ゆうこは今日で30歳、になるよね。キリもいいし、そろそろさ」

 翠李の位置からよく見える女の顔が、そのセリフを聞くやみるみる歪んでいく。男は緊張のあまりか、そんな様子には気づかないで「なんていうか、そろそろ落ち着いてもいいトシなのかな、とか」しどろもどろに言葉を押し出していた。まさかプロポーズをしようというのか、この空気の中で。

 これでは無関心でいろ、というほうが無理だ。翠李はそっとため息をつく。

「あのさ」

 女の傍にはさきほど押し付けられた花束が無造作に置かれているのが見えた。

「そろそろ落ち着くってなに。女の30をどう思ってるのか知らないけど、私今結構仕事で大変だし、でも頑張ろうって踏ん張ってるのに、それを応援しようっていう気持ちは戸塚くんにはないの?」

「え、応援するよ。いつもそう言ってるじゃん」

「応援するって、結婚するってことなの?さっき 30になるよね、って言ったけど、年齢とか女だからとかそういう考え大嫌い。わたしはさ、落ち着きたくなんかないの!今一番結婚とか考えたくないの!無理!」

「え、怒ってる?」

 遠慮なく男の方にも視線を送ってみると、顔は真っ赤で口をパクパクしている。酸欠か。

「しかもこうやって会うようになってまだ半年だし、今結婚持ち出すとか無神経だし、今日生理だし、何なんだよってかんじよ」

 女の理論も飛躍しているが、言えることはただ一つ。

 間が悪い。

「あんた自分の方が年下だからって余裕ぶってんのかもしんないけど、下ったって二歳だけだし、30歳になるの全人類が怖がってるとか思ってないよね、まさか」

 ヒートアップしていく女の眉間にはシワが寄っていて頬も紅潮している。暴走していく自分に分かっていながら止められないのか、生理だし、と言うのもその言い訳なのだろうけれど、おそらく目の前の恋人らしき男には伝わっていないだろう。

 翠李はお腹に力を入れる。ダメ。ただ隣り合わせただけだし、放っておけばいいの。 再び紅茶とスコーンに集中しようとしたが、これから食べようとするスコーンが八角形の後天定位盤に見えてきてしまう。

 もう!本当にこの性分、どうにかならないかしら。

 ふう。深呼吸。紅茶が冷めないうちにカタをつけないと、ゆっくり出来ないじゃない。

 ぶつぶつ文句を言いながら、テーブルの下でそっと指を影絵のキツネにする。たちまち中の三本指の節が、後天定位盤の数字にかわった。中指の真ん中がスタート。次は人差し指の付け根、一つ上の節、薬指の付け根、9つに分かれた節を順番に親指で巡り、数字が頭の中で並んでいく。なるほどね。

 ざわつきがおさまった心で改めてテーブルを見ると、スコーンの香ばしい香りとジャムの甘くとろける匂いが鼻腔を刺激してくる。

 それからは周囲の音も消え、翠李は心ゆくまで優雅なひとときを噛み締めた。

 最後の紅茶を口にしたところで、隣の席はと言えば、半分以上ケーキを残した男は気まずそうに俯いているし、女はそそくさと「トイレ」と言い放って席を立つし、とにかく空気は変わらない。むしろ悪くなっている。渡した花束も心なしか、しおれかかっていた。かわいそうに、この場の空気を和ませるなんて大役、可憐なお花には無理な話よね。

 口元を上品にナプキンで拭いながら、翠李は首を振る。

 ほっとけばいい、何も言われてないのだし、赤の他人なのだから。そう、さっき調べたのは心を落ち着けるため。それだけなんだから。

 でも、でも。

「あの」

 男はあまりにショックなのか、ぼんやりと座っているだけで翠李の問いかけにぴくりともしない。

 まあ、いいか。聞こえないのは向こうのせいだし、そういう運命なのよね。そうよ。

 翠李が得心したようにナプキンをたたみはじめると、足元にコロンと何かがぶつかった。視線を落とすと、なんと指輪のケースではないか。この色合いと素材感からすると、まさか婚約指輪?結婚してください、とか言いながらぱかっと開けるやつ?

 おそらく、ズボンのポケットに入れたままにしていて、落ちたのも気づいてないのだろう。もしかしてこれを転がして私を挑発してる?いやそんな気の利いたことできるようには見えないけれど。

 ただし、これも運命、なのよね。この人の。そもそも指輪なんていう高価で常に身につけるような大事なものを一緒に選ぶという考えが微塵もない鈍感さは、賞賛に値するわ、確かに。そんなの自己満足でしかないし、傲慢な感動の押し付けにしかならないのに。

「あ!の!」

 今度はちゃんと聞こえるように、翠李は腹に力を込める。そしてうやうやしく屈むと、指先で指輪のケースをつまみ

「こちら、あなたのものでは?」

とぼんやりした男の視界にぐっと差し出した。

「あ、あぁ」

 男は手を差し出す。届かない距離感もわからないように、目が途端にうるうると潤み出す。え、いい加減にしてよ。翠李はイライラしてきた。

「あの、さっきから聞こえちゃってましたけど、会話。あなたの求婚、間がお悪いですわ」

「は?」

 男の顔は訳がわからないという風に呆けている。

「もう少しわかりやすく言いますとね、彼女今それどころじゃないと思いますわ。問題なのは、あなた、ではなくて、彼女自身。今一番辛くてキツい時期なの。あなた間が悪いとか、気が利かないとか、よく言われません?」

 へ?と空気の抜けた声を出して、男は呆然と見つめ返してきた。

「今年はダメです。あと2ヶ月お待ちなさい。節分の豆まきしたら、その後もう一度アタックですわよ。これは返品してね。縁起悪いですから。そうね、今度は一緒に選んだほうがいいわ。彼女、自分の身につけるものはこだわってるでしょうから。間違ってもあなたが選ばないように」

 一息にまくしたてると、翠李は立ち上がって指輪のケースをテーブルに置いた。

「では、わたくしは帰りますわ。ごきげんよう」

 ドレスの裾を蹴り上げるようにしてその場を立ち去る。

「あぁっ、あの…」

「なんですの?」

 翠李はゆっくりと首を傾げる。

「そっちはトイレ…」

 男は消え入りそうな語尾を持ち上げるように、翠李の向いているほうとは逆に手を差し出した。

「出口はアチラ、です」

「あら、帰る前に化粧室に行くところでしたのよ。ほほほ。ではファイトですわよ」

 口元に手を添え赤らんだ頬を隠しながら翠李はそのまま進んでいく。 その姿が消えるまで見送っていた男は「なんだ、今のは。お告げ?」とつぶやいた。そう言えば着物みたいなドレスを着ていたし、長い黒髪と幼なさと色気をバランスよく融合したような整った顔立ち。とてもこの辺りに住んでいるとは思えない佇まい…芸能人?占い師?それとも。

「え、まさか幽霊?」

 幽霊ってお告げをしてくれるのか、それとも妖怪?それにしてはリアリティあったよな。

 混乱する頭の中、それでもはっきりと残っていたのは、「指輪は返品して、豆まきしたら彼女と買いに行く。ファイト」だった。

 翠李は仕方なく化粧室のドアを押す。すると鏡の前に例の女性がいた。ちら、と翠李のほうを見ると引き終わった口紅をケースに収めながら、

「ごめんなさいね。隣でうるさかったですよね」

と鏡越しに微笑んでくる。翠李が曖昧に微笑むと、

「あんなこと、言うつもりじゃなかったんですけど」

独り言のように女性が呟く。

「大丈夫ですよ」

 翠李はそう言いながら、女性のブラウスに触れる触れないかの位置で腕をさするようにスライドさせた。女性がほっとしたように微笑む。

「ありがとう」

 そう言うと髪の裾を整え、ドアを押して出ていく。

 その様子を翠李はじっと見送った。「大丈夫」 翠李はもう一度呟く。


EP3へつづく

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