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益母の呪神  作者: 棺之夜幟
外聞 祓
8/50

果実

 十年前のことと言われて思い出すのは、およそ一つだけだ。僕は十二歳の何も知らないクソガキで、大人達も皆、僕のことをただの子供として取り扱っていた。この子供というのは定義上、発達の段階的な言葉ではなくて、所謂「所有物」としての名だった。今考えても、屋敷を出入りしていた大人達は全て、僕のことを道具のように考えていたように思う。その理由の一端が、母にあることだけは理解していた。母と僕は父親が誰かわからない程度にはそっくりだった。当の母は何処か、人間味を欠いた、精霊だとか、妖精と呼べるような人だった。憎悪の目で見ても、あの女は美しく、また神々しくあった。その浮世離れは脳にまで達していて、母は何処までも純真で、社会性を全く所有していなかった。故に、見た目だけは同じで、ある程度言葉の通じる僕を、彼女の代替品として取り扱っていたのだ。母を宝石として飾っておくのだとすれば、僕はそこから削り出した人形のようなものだったのだろう。

 多分、母を殺そうという考えは、ずっと前、恐らくは物心つく時から存在していた。あの女を崇拝し、その色を拝礼する他の男は、その実行に邪魔だった。

 故にその日、僕は倉庫から電動ドリルを持ち出して、アホ面晒して眠っている男の頭蓋骨に穴を開けたのだった。ただ、額の骨というのは案外分厚く出来ているらしく、ドリルの先が皮膚を貫いた時には、件の男は目を見開いて僕を睨んでいた。何か喚き散らすそいつの頭と腕を抑えつけていたのは、楽しそうに笑う母だった。にんまりと薄い唇を開けて、赤い口を見せて、ケラケラと笑っていたのを、今でも鮮明に思い出す。

 あの母親という生き物は、僕の殺意にも、憎悪にも、気付いていたのだろう。その上で、彼女は自分を守ってくれるだろう男が死ぬのを、楽しんでいたようだった。僕の母――夜咲(よざき)水恋(すいれん)は、そんな人だった。僕が傍に置いた包丁を誰に差し向けるのか、理解していなかったわけではないだろう。だというのに、母は僕を励ます様に「頑張って」「あと少しよ」と言い、鉄の棒がその回転で男の頭蓋骨に孔を開け、脳が掻き回されるのを待っていた。そうして、それが達成した時には、母は生まれて初めて、僕を抱きしめたのだ。その抱擁は、成程確かに甘美で、蠱惑的だった。


 だから、僕は母の頭に包丁を叩きつけたのだ。


 腹を切り内臓を空気に晒したところで、人は死なない。心臓が止まったって、数秒は痛みに悶えて胸を抑える。人間の表情筋はおよそ脳機能によって制御されている。

 脳味噌を零せば、きっとあの美しい顔が歪むことは無いのだろうなと、簡単に考えたのだ。母の優しい、優しい顔の、その頂点に、新品の包丁を入れる。上手く入って行かない刃を、何度か叩きつけて通した。音は、蟹の甲羅を真っ二つに割る時と似ていて、大人になった今でも蟹鍋なんかを作る時、その感触を思い出す。

 暫くして大人しくなった母の、その顔を、僕はワンピースの裾で拭いてやった。予想を反して部屋中を暴れ回った彼女は、最後には部屋の中心で息絶えた。口元こそ笑っているように開いてはいたが、その眼は酷く怯えていた。

 経験に勝ることは無いと思い知ったのは、この日が初めてだった。歪んだ母の顔を、僕は指先で整えた。粘土遊びは得意ではなかったので、あまり良い表情にはならなかった。

 数分後、僕は血の臭気で充満した部屋に飽きて、窓に触れた。日差しが、その日の最高気温を物語っていた。雨は降りそうもない。きっと外に出て遊べば、楽しいのだろうと、窓を開けた。全開にした窓から入り込んだ空気と入れ替わって、血の臭いが外に漏れ出す。心地の良い夏の風は、僕を外に誘った。庭の夏蜜柑を見ては、「ジャムでも作ったら美味いのだろうな」と考えていた。


 そして、その視界の端に、小汚い少年がいることも、わかっていた。


 彼のことを認識したのは、洗っていないバスタオルのような匂いが鼻に付いた時だった。ひょこひょことドブネズミのように塀を登ろうとする少年は、僕を見て、無表情に「怪我でもしているのか」と言っていた。べったりと付いた母の血が、そう見えたのだろう。

 それが僕の()()()()()()。誰かに返答を求められるということが、新鮮だった。指示でも無ければ懇願でもない。対等に僕と言葉を交わそうとする人間がこの世にいることを、知ったのだ。僕は。

 跳ね上がった心臓を抑えて、僕は一度、部屋に戻った。母の傍で思考を巡らせた。その感情の意味を、僕は理解出来なかった。母親にすら発生しなかった、その精神的衝撃は、いつか盗み飲んだシャンパンを飲んだ時のそれに近しかった。


 ふわふわと浮いた脳の回路で、恐らくはこれが「喜び」だと結論付けて、僕は窓から外へ身を乗り出した。顔面を芝生に打ち付け、前転の要領で前へ踏み出す。黄色い柑橘を、その熟し具合すら気にせず捥ぎ取って、塀の向こうに投げ込んだ。


「食べて良い」


 ――――それを手に取れ、言葉を交わしたい。正面で目を合わせて、その思考を擦り合わせたい。知りたい。お前は一体何者だ?

 感情を果実に乗せる。それを受け取ってもらえるかは、博打だった。実際に顔を合わせたところで、どれだけ自分が素直になれるかなど、考えていなかった。


 それが全て初めてのことだったから、僕は、友人の――――葦屋幽冥の苦悩なんて、考えることすら出来なかったのだ。ずっと。

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