日高の料理教室のち火災
なんだか疲れているのか妙なものをみた気分だった。きっと目の錯覚だろう。だいたい二メートルくらいの女がいてたまるか。そんな大女の服や靴をどこで買うんだ? それともバレーの選手とか女子プロレスラーがこの辺を散歩しているのか?
俺は自分で思っているより心身ともに疲れているんだろう。やっぱり野球の練習は休んで正解だったかもしれない。
俺は冷蔵庫のなかのカレーとご飯を温め遅い昼飯にした。
疲れているうえに色々状況が込み入っている。とりあえず腹ごしらえだ。
まずは<組織>の幹部候補を名乗った男をぶん殴って南魚のことを聞き出したいが、橘がいるのがなんとも微妙なところだ。
そんなとき将虎がチャイムを鳴らし、部屋のドアを叩いた。少し慌てたような叩き方に性格が出ているようだった。ドアを開けると呆気に取られ「あ、この人まだここにいるんだ」という顔だ。
「正直、隣にいこうと思いましたよ」
冗談めかして笑うが半分本気だったのだろう。ドアを叩いて俺が出なかったら隣に押し入っていたに違いない。
「そのつもりだったんだがな。<組織>の幹部候補さん、女を連れ込んで……おっぱじめやがった。しかも、その女、俺の元カノなんだよ」
部屋の真ん中のテーブルを挟んで座った。将虎は「タバコいいっスか?」と聞いてきたので俺は黙って頷いた。ここは南魚の部屋だが、あいつならタバコくらい笑って許すだろう。
将虎はタバコを吸いながら俺の言葉を頭のなかでイメージしたのか「そりゃ、押し入ったら、ダサいっスな」と重々しくいった。
「おまえなら行くか?」
「いやいや、女のこと云々より、そもそも、相手は<組織>ですよ。報復が、ねぇ。だから、その幹部候補さんの弱味とかを握らないと、どうにも。とにかく交換条件なり用意して対等な関係にならないと、ゴタゴタついでに殺られちゃいますって。あ、盗聴器とか隠しカメラとかありました?」
俺は黙って首を振った。
「盗聴器がない。つまり、南魚はまだマークされてなかったんじゃないですかね。なにかしら偶発的なことが南魚と<組織>の間で起こった。そして、いまだ地元のニュースに事件や死亡事故は起こっていない。じゃあ、<組織>の幹部候補が隣にいたのもまったくの偶然じゃないですかね。今後起こることといえば、南魚を人質にあの瓶を<組織>は奪い返しにくるとか」
「瓶を持っているのは南魚なんだぜ。しかも盗聴器探しのついでにこの部屋を探したが、瓶はない。もしかしたら持ち歩いているのか、誰かに預けたか」
「じゃあ、あちらの出方次第、か」
「そうだな。まぁ、女が帰ったら押し入るさ」
俺はカレーを食べ終わると食器を洗い始めた。
「で? ここで待つんスか?」
「ああ、万が一、南魚が戻って来る場合もないわけじゃない。部屋借りたお礼にまたカレーでも作りながら待つさ。ああ、ツーリングはまた今度な。今時期のシーサイドは気持ちいいだろうな」
俺は玉ねぎを切り始めた。その手元を将虎が覗き見始めた。
「おいおい、俺が料理するのがそんなに珍しいかよ」
「あ、まぁ、意外だなぁって」というと「よかったら教えてもらえません? 実は今つき合ってるツレと結婚しようと思っているんで、料理のひとつくらいできないとなぁ」と意外な話が出てきた。
「へぇ、デキちゃったとか?」
「いや、運命……っスかね」
ヤンキー上がりの整備屋社長が瞳を輝かせ真剣な顔で気持ちの悪いことをいう。もう少しイカつくない顔だったら運命なんて言葉が似合いそうだが、と思ったていたら「気持ちの悪ぃな」と素直な感想が口から出ていた。
「まっ、似合わないことでしょうけど」
認めながら笑う顔が将虎らしくない爽やかな顔だった。
「ほらよ」と包丁を渡す。そして、将虎に包丁の持ち方、玉ねぎの切り方を教え始めた。
俺が料理をやり始めたのは、単純に母親に教わったからだ。確か学校で家庭科の授業があり、料理を授業で作らされたのと同じくらいの時期だったと思う。あるいは母親はそのタイミングを待っていたようにも思えた。母親は単に料理をする時間がなく、仕事で夜の店にいっているか、寝ているかの生活だったので、俺を利用して家事を押し付ければ楽だろうという考えたのだろう。それと自分が死んだら天涯孤独の息子が生きるために必要というふたつの理由からだと思う。だがあの人のことだ。どちらかといえば前者の比重が大きいだろうが、当時の俺にしてみれば、俺の作った料理を「美味しい、美味しい」といいながら喜んでくれた母親をみるのが嬉しかったし、そんなときは母親も感情を爆発させるようなこともしなかった。
今、将虎の真剣な横顔をみていると当時の俺もこんな真剣に料理を作っていたのかもしれないと感慨深いものがあった。
「いい父親になれよ」
「うっす」と将虎は俺の言葉もそこそこにカレーをつくるのに集中しているようだった。あるいは照れ隠しのために集中してるのかもしれない。
失敗するような料理じゃないが、始めてカレーを作らせたためか時間が掛かった。いつの間にか窓の外は暗くなっていた。
「じゃあ、食べてみるか」と俺がいったときだ。隣でチャイムが鳴ったのがかすかに聞こえた。将虎もそれに気づいたようで「修羅場っスかね」と俺と同じ想像をしているらしかった。
将虎がニヤニヤ笑う。そして、次に聞こえてきたのは案の定、罵声だった。
そして、なにかが投げつけられる音、ぶつかる音。それがしばらく続いた。
「いい機会だ。幹部候補さんを助けて借り作るか」と俺がいったがおそらく将虎の耳にはその言葉は届かなかっただろう。
耳を劈く炸裂音がアパート中に響いた。
慌てて部屋を出ると隣部屋の入口のドアから火の手が上がっていた。
「一一九番だ!」
俺がいうが早いか、将虎はスマホに電話をかけていた。
俺は大声で「火事だ! 避難しろ!」とアパート中に叫んでいた。
幸い休日ということもあってか、アパートの住人は少数だった。そして、消防車も思った以上に早く着き、ひとまずは避難してきた住人と野次馬たちとで火の回りを心配していたときだ。そういえば、どこにも隣部屋の幹部候補も橘もあとに入ってきた女(おそらくは女だろう)の姿がないことに気づいた。
「中にまだ人が!」
俺は叫び、火の手が回るアパートに駆けていこうとしたら将虎に止められた。
「なにやってんスか!」
やはり爆発のあった隣部屋が一番被害が大きい、ガラス戸は破裂したように割れ、そこから黒い煙とオレンジ色の火がみえる。そして消防の消火作業も虚しく火は上へ上へと侵食するようにアパート全体に燃え広がろうとしていた。
「どうした?」とひとりの若い消防士が俺にいってきた。
「橘が……中にまだ人がいるんです!」
俺は「離せよ!」と将虎の腕を振りほどこうと足掻いた。しかし将虎は俺を必死にしがみついて行かせまいとしている。
消防士は俺の必死の様子をみると「必ず助けます! どうか待ってて下さい!」と一言いうと、他の消防士の制止を振り切って、割れたガラス戸から黒い煙と火の中に飛び込んで行った。




