日高と女たち
空き巣によって割られた窓ガラスはよりによってリビングだった。大きなガラスの方が壊しやすいとかあるのだろうか。一応、ガムテープで穴を塞いでいるが、くつろぐ場所にそんなものがあるとくつろぐにくつろげない。
家に帰ってすぐネットで検索した業者に修理の見積もりを頼んだが、思ったより高かった。犯人は捕まってないし、どうしたものかと将虎に愚痴をいったら「ああ、空き巣での家屋破損は火災保険で対応してますよ。あと業者なら他に安いとこも知ってますし、紹介しますよ」と保険対応と安い業者を紹介してくれた。なかなかのスムーズな対応だ。将虎のやつ、自分の店に盗みに入られたことでもあるのかもしれない。いや、もしかしたら<組織>の仕事で窃盗関係にも詳しくなったのかもしれないな、と頭の片隅によぎったが、いまは持つべきものは友達と思うことにした。
それにしても空き巣に壊された場所が窓ガラスだけで本当に良かった。家探しの際に他の場所も壊されていたら殴る蹴るだけでなく、ついでに請求書も突きつけてやりたい。
ガラスの修理は頼んだその日のうちに四十代くらいの愛想の良い業者がきて、あっという間に終わらせていった。そして散らかった物の掃除も数時間で終えた。母親が死んだときに母親関係のものは処分し、俺ひとり分の生活用品しかないのだ。散らかった物といっても後片付けなんて楽なものだ。
それよりまた<組織>が俺に接触か、家に入るなりあるかと思ったが、不気味なほどなにもなかった。もしかしたらなにかの事情であきらめたか。対策を練っているのか。
そして、南魚からはLINEで「△駅の工事現場に潜入成功。今から真相を追求できそう」「気をつけてな」「ご心配なく」というやりとりを最後に連絡は途絶えていた。俺がその後「どうだった?」と送ったが、そのトークに既読はついてない。
俺は休日、草野球の練習を断ってバイクで南魚のアパートへ向かう。
途中、△高前を通りがかった。
その緑青でさびれた校章を横目でみたとき、既視感を感じ、バイクを停めヘルメットをとった。
あの校章を最近どこかでみた気がした。確か<組織>絡みだと思った瞬間、記憶が戻ってきた。将虎に<組織>の話を聞き出したときだ。そして将虎に数年ぶりに再会し、洗いざらい話た後に、将虎のスマホに<組織>からの指示が入った。その指示にあった物品が、コンビニのゴミ箱の上に置かれていた。俺がそれを手にしたとき、後ろにいたやつは確か△高の校章がついたサッカー部のウィンドブレーカーを着ていたはずだ。あいつは将虎と同じ指示が出ていたからそこにいたのだろう。しかも顔は日焼けした優男。あの夜に<組織>の幹部候補と名乗った男じゃないか。つまりここのサッカー部顧問の先生か。
「雑だな」
思わず口から言葉が出ていた。人の顔を忘れていた俺も雑だし、職業がひと目でわかる服装で裏の仕事をする男も雑だ。
だがわかれば話は早い。校門からはあいつが着ていたものと同じウィンドブレーカーを着た生徒が帰ってゆくのがみえる。
「窓ガラス修理の請求書持ってくるだったな」
学生たちの背中を見ながら確信した。こうなれば話は早い。あの幹部候補の男を探してぶん殴って、あの夜の続きと南魚のことについて話してもらおうか。俺はバイクから降り、△高へと行こうとした。
けれど、足が止まった。あの幹部候補の男と女教師らしき人が校舎から出てきたからだ。これが幹部候補だけなら歩いていって一発殴ってから積もる話でもしようかと思うが、女がいると面倒だ。しかもさらに面倒なことにその女には見覚えがあった。
「マジか……やっぱり、橘かよ」
確かに南魚のいったとおり、ふんわりとした印象だ。春日に誘わるように、にこやかに歩きながら話す様子はまるで恋人のようだった。いや、まるで、ではなく恋人なのだろう。だからあの夜、身を呈して男を助けたのだ。そうすると橘も<組織>の構成員ということになる。俺もいまは慎重になった方がいいかもしれない。
いや、しかし、なにがどうなって、あの橘があんなに女の子な感じになっているんだ? 彼氏の前だからといって歩き方まで軽やかで可愛らしくみえる。
中学の頃、ジャージ姿にサンリオのキャラクターが描かれたサンダルをつっかけて歩いていた頃からは見違えるようだ。確かに顔も細かな雰囲気も橘だが、まるで中身ががらりと変わってしまったようにみえた。それとも女は化けるというのは本当なのだろうか。
ふたりは談笑しながら幹部候補の男の車なのかブルーのスープラへと乗り込み、校門を出ていった。
「はぁ」
ふたりの姿がみえなくなってなんだかほっとした……いや、橘の姿がみえなくなってほっとしたのかもしれない。確か南魚の話では南魚の部屋の隣の男と橘はつき合っているらしい。つまり<組織>の幹部候補が南魚の部屋の隣だったというわけだ。バラバラのピースがはまっていくような感覚があった。もしかしたら南魚は盗聴くらいされているかもしれない。
俺はスマホで南魚に電話をしたが、やはり電話に出る気配はなかった。
南魚の部屋に着くと、俺が出ていったときと不気味なくらいなにも変わりがなかった。
「捕まったか」
嫌な予感が的中した気がした。
<組織>の幹部候補が隣なら話は早い、問題はどうやって隣の部屋に押し入るかだ。
そのとき、電話が鳴った。
俺はてっきり南魚かと思ってほっとしたが、電話をかけてきたのは兼田将虎だった。
「うっす! どうでした? あの業者、仕事早いんスよ。水まわりや電気の配線もできますし、夜にも嫌がらず来てくれますしね。あっ、そうそう、久しぶりツーリングでもいきません?」
「ああ、色々、ありがとな。誘ってくれるのは有難いんだが、ちょっと込み入っててな」
俺は南魚の失踪のこと、隣の部屋に<組織>の幹部候補がいること、そして「これから幹部候補さんが帰ってきたら押し入ろうと」といおうとしたら将虎は俺の話を遮るように「いいですか! 絶対動かないでくださいよ! まずは盗聴器を調べておいてください。いまからそっちに行きますから、えっと、どこにいます?」と一気にまくし立て、盗聴器のありそうな場所をいい「盗聴器があったら警察にいきましょう。相手は秘密結社みたいなものです。隠していることが明るみになるのを嫌がりますから。あと、南魚ならまだ大丈夫だと思います。やつらは人を消すときは事故に見せかけ、犯人をうやむやにさせますから。まだ△市で人が死ぬような事故は起こってはいません。いいですか。まず部屋の盗聴器です」といった。
俺はアパートの住所と部屋番号をいうと将虎は「俺が行くまで動かないでくださいよ!」と、また念を押してから電話を切った。
「ったく」
<組織>関係に南魚を巻き込んだのは俺かもしれない。いや、南魚自身も<組織>を追っているようだったが。だが、南魚が拉致られた一因は俺にもある。やはり△駅の工事現場行きは止めた方がよかったのか。
それから将虎のいうとおりコンセントを開けようとした。
南魚の部屋のツールボックスを取り出したとき、ふと気づいた。部屋に泊めてもらったお礼に南魚の部屋の片付けをしたが、あの瓶をみてないような気がする。南魚はどこにあれを隠したのだろう。いつも持ち歩いているとか? いや、もしかしたら忍び込まれてもう奪われたのではないか。だから<組織>からの接触も空き巣もなくなったのかもしれない。そして南魚を拉致し……もうひとつの考えがまるっきり別方向から出てきた。南魚自身が<組織>の構成員だったのではないか。あの瓶を俺から預かったときに<組織>に返した。そもそもあの幹部候補の動きは雑だ。自分の職業がわかるような服装で裏の仕事をしたり、無駄に俺と接触したり、空き巣にまで(おそらくはやつだろう)入っている。一方、南魚がもし<組織>の構成員だとしたら鮮やかだ。信用させ、さらりと奪い取る。
南魚の屈託のない笑顔を思い出すと妙な考えをしている自分が馬鹿馬鹿しくなった。こんな薄暗い部屋でちまちまとした作業をしているから気が滅入ってくるのだ。
コンセント関係、電化製品関係のどこにも盗聴器らしきものはなかった。棚の上や本の間、ベッドの下、最後にカーテンレールも調べたがなにもない。ただ埃がたまっているのが気になったので軽く雑巾で拭いておいた。
そのとき、隣の部屋に幹部候補さんと橘が帰ってきたらしい物音が聞こえた。
俺はちまちました作業に息の詰まるようなストレスを感じ、ベランダに出て深呼吸をした。
<組織>の盗聴器などの類はない。あとは将虎が来るのを待って、いよいよ、決戦か? 遠山さんとイタチを殺し、南魚まで拉致った<組織>をどうしてやろうか。
ベランダからは駐車場がみえる。
俺のレブルも幹部候補のスープラもお互いの持ち主が宿敵とは知らず、同じ敷地内で朗らかな日差しに照らされ静かに持ち主を待っているようだった。
隣からは賑やかな話し声が聞こえてきた。
それは秘密結社の構成員のそれではなく、楽しそうな恋人たちの会話だった。
その橘の明るい話声の響が昔を思い出す。
俺は身長こそ低いが早熟なほうだった。
下世話な話だが、小学生低学年の頃には男性性器は大人のそれだった。おそらくは物心つかない俺に母親がどういう理由か知らないが(知りたくもないが)風呂の際、剥いていたのだと思う。離婚を経験し、家を建て、水商売をしていて、明るいが気難しい。よく「綺麗なお母さんだね」といわれたが、俺にとっては爆弾みたいな人だった。スイッチが入ると喚き散らされるのが、たまらなく嫌だった。そして礼儀とかマナーとか整理整頓にはうるさかった。
母親は明方にしか帰ってこない。俺は中学ともなると、あてどもなく夜の街を徘徊していた。繁華街やゲームセンター……とにかく賑やかなところが良かった。当時はなんとなくいっていたが、やはり寂しかったんじゃないかと思う。
そこで同じような連中とつるむようになるし、そのなかに同じ中学の橘立花もいた。
中学にもなれば女にも興味が湧く。興味といっても性的なもので人と人のつき合いだとか、個人の尊重だとかそういうものではない。動物的、本能的なそれだった。幸い、あちらも同様だったのだろう。母親が明方にしか帰ってこないのをいいことに家でヤリまくった。
そのことは実はあまり覚えていない。覚えているのは抱き合っていたときに興奮したこと、ふれあったときに多幸感に包まれていたこと。あとは一番最初は橘も俺も痛かったことだけだ。なぜかわからない。痛いのは女のほうだという知識があり、男が痛いなんて聞いたこともなかった。俺の男性性器はもうできあがっていたはずなのに。お互い痛みに耐えて、それを受け入れ、乗り越えようとしたのが一番初めだ。それが一番鮮烈に覚えている。別れた理由すら覚えていないのに。
俺はベランダで外を眺めながら、隣の部屋の聞こえるか、聞こえないかの恋人同士の会話(というか響きのようなもの)を聞いていた。もしかしたら昔、俺と橘もこんなふうに楽しそうに会話していたのだろうかと思いを巡らして、朧気な想い出を遡っていたが、出し抜けにどさり、となにかが落ちる音がした。
おそらく、押し倒したか、押し倒されたのか。
「お盛んなことで……」
馬鹿馬鹿しくなり部屋に入ろうとしたときに視線を感じた。
駐車場の隅にあるバス停に女の人がいた。
田舎のバス停だ。めったにバスが来ることはない。確か夕方の駅行までバスはないはずだ。待っているにしては長過ぎる時間を待たなければならない。あきらかにバス停で待っているにしてはおかしい。
着ているものはジージャンに白のシャツかブラウス(遠くてよくみえない)、カーキ色のスカートだった。ほっそりとしたシルエットで雰囲気は三十代くらいだろうか。こちらをじっと見ている。いや、こちらではなく、隣の部屋だろう。俺の視線がわかったのかスマホを取り出し、視線を外した。
そのとき、道路に大型ダンプカーが一時停止した。最近、△市に工事が多いので、普段通らない市道まで利用しているのだ。そのダンプが女のちょうど後ろに停まったとき、俺は目を見張った。
そのダンプは工事の視察で見覚えがあり何度か乗ったこともある。その大きさは理解している。その女の背丈はすぐ後ろを過ぎ去ったダンプの窓くらい……少なく見積もっても一九○センチくらいの背丈はあった。




